錆色の沼 10











また土曜。

何度も繰り返して来た土曜日が、今日もやってきた。

ぼんやりと焦点の合わない視線を手元に落とし、テーブルに置かれたスプーンに手を掛けた。

其れを持ち上げるでも無く、ただ空っぽの取り皿と、

其の向こうで大皿に盛られたラズベリープディングを眺めていた。

 

あの火曜の夜、薬の調合自体は最後迄何の問題もなく行われた。

しかしながら、私が自分で薬を調合する機会はあれから二度と訪れる事は無かった。

私の不容易な行動がスネイプ先生をひどく立腹させたらしいことは明らかだった。

結果として、意図した事ではないにせよ私が胸の内で望んだ通りになったと云う訳だ。

打算的な考えに唾棄するように、左手がスプーンをぐっと握り締めた。

 

「ねぇ、、其の指、まだ治らないの?本当に大丈夫なんでしょうね?

 もう一度誰か他の先生に見てもらった方がいいんじゃないかしら。

 幾らスネイプだってさすがにこういう事で嘘をついたりはしないと思うけど、でも…。」

 

痛々しいものを見るように顔を顰めて、隣りからベスがスプーンを握ったままの私の左手を覗き込んだ。

毒草によって爛れた指先は非常に治りが遅く、あれから既に2週間以上が経過した今もなお一向に完治しない。

此れは何かの罰かもしれないだなんて、神仏のひとつさえも信じていない私が考えるには、随分下らない話。

ましてや、罰などと。思い当たる節なんて腐る程ある、今更だ。

 

当初は青紫色に変色していた傷口は、今はやや緑がかった青色になっていた。

気持ち悪い事この上ない。患部は已然として皮膚が爛れたような状態だった。

 

此の傷口を見る度にベスが眉を顰めるので、左手に黒い手袋をはめる事にした。包帯を巻くのは仰々し過ぎる。

あの時、翌朝になって早速目敏くも私の指先の異常に気付いたベスは、過保護な迄に私を心配し、

しきりに私をマダムポンフリーのところへ行かせようとしたのだった。

 

重要な部分を暈したり偽ったりしつつも、大筋は正直に、怪我をした経緯を話し、

既にスネイプ先生には時間さえ掛ければ自然に治るものであるとの診断を下されている旨を説明した。

其れも、何度も繰り返し、ようやっと納得してもらったのだった。

それでもまだどうにも心配らしい彼女に苦笑し、いつものように、大丈夫よ、と繰り返した。

 

「貴方の、大丈夫、は、信用できません。」

 

憮然としてミルクティーの入ったカップに口をつけるベスに、私は苦笑を返すしか無かった。

そう云われる心当たりが、今迄を鑑みるに、随分とあったからだ。

 

 

 

 

 

 

夕食後、人気の無い時間帯を見計らい、冷ややかに静まり返る廊下を通り、階段を下っては地下を目指す。

今日はどうにも体調が酷く悪く、昨夜からずっと熱が下がらない。

ベスに此れ以上心配を掛ける訳にはいかないので夕食の席には無理をして共に着いたが、流石に限界だ。

ふわふわと足が地面を捕まえた感触に乏しく、先程から廊下の端や階段の途中で座り込んでは休憩してばかりだ。

今日は薬を飲んだらそのまま医務室で寝かせてもらうつもりだった。

 

熱に浮かされて定まらない思考がひっぱりだしてくるのは、どれも古い記憶ばかりで、

そう云えば、幼い頃にもこうして高熱を出して倒れた事があったな、と考えながら、

地下へと続く、薄暗く湿っぽい階段の途中にぐったりと腰を下ろすと、石壁に頭を預け、其の冷たさに眼を閉じる。

 

幼いあの時、朦朧とする私の額に、父が濡らしたタオルを乗せて、手を握ってくれていたように思う。

いや、そうではない。

確か、額には白い布が、巻かれていて…。

 

其処迄思い出し、ふと私はざっと身体中から血の気が引いたのを感じて、思わず口元を両手で覆った。

思い出してはいけないところ迄、思い出してしまった気がする。

けれど、其れ以上考えたく無いのに、記憶はするすると私の脳内を這い回る。思考の制御が効かない。

 

幼い私の額には、白い包帯が巻かれていた。

薄暗い部屋の中、私を見下ろす父の眼は絶望にも似た悲しみと恐怖を滲ませていた。

小さな私の手を握る彼の手は、震えていた。

ささやくように、彼は何かに謝罪し、何かに問いかけ、私の手に縋った。

 

額の怪我が私に熱を出させた。

其の怪我は、男に石で殴られて出来たものだった。

石で殴られたのは、私が、其の男の娘の、

 

血を  飲ん だ か ら だ 。

 

「……あぁ、そうだ……。」

 

『 化け物! 』

 

「そうだ、そうだ。そうだ。私は、」

 

驚愕と恐怖に眼を見開く少女の喉に、歯を立てた。

まだ幼い、恐らくは当時の私と同じ年頃の少女。

其の柔らかな皮膚に牙が食い込んだ瞬間、少女からの抵抗が途絶える。

 

舌を喉を食道を流れ行くそのあまやかな血の味!

身に染み渡るような恍惚は、何物にも抗い難い甘美なものだった。

 

罪悪の名さえ知らなかった幼い私は、其の己の醜悪さに気付きもせずに。

 

けれど、けれど!

嗚呼、私はあまりにも醜悪で罪深い、しかし私は、本当に私を化け物と呼んでしまっていいのか?

私という存在を否定するという事は、私に其の血縁を分け与えてくれた父母を否定する事にはならないだろうか?

父も母も人間も吸血鬼も悪く無い、悪いのは私で、けれど私は私を否定できないし、

私の下して来た決断が間違っているだなんて思う事など出来る訳が無い。

 

だったらどうすればいい。

純粋な人間にも吸血鬼にもなれない。人間の食物だけでは生きられない。

けれど人間の血を飲めば私は私のようやっと手に入れた、(ああ、けれど仮初めの、)居場所を失ってしまう。

薬を飲み続ければ、私には永遠に手に入らない美しい光を持つ、彼らや彼女らの傍に居ることができる。

けれど、薬を此れ以上飲み続ければ、私は私の命ごと全てを手放すことになる。

 

…いや、もう、既に手遅れだったのだ。

分かっていた事ではないか、「此れ以上」など、最初から無かったのだ。

 

『ダンブルドア先生、私に、もし、何かがあって、此の学校の誰かを襲い、血を飲むような事があったら、

 例え、どんな事情があっても、どんな状況があっても、迷わず私を此処から追放して下さい。』

 

覚えている。忘れる訳が無い。私がダンブルドア先生と交わした最初で最後の大切な約束。

其の約束の為に私は薬を飲み続け、そして、人であろうとした。

其の約束が実行される事が無いようにと、先生は私を守ってくれていた。

 

「やっぱり、誰も、間違ってなかったんだ…。」

 

間違ったのではなく、どうしようもなかっただけ。

滲む視界の向こうで闇に浮かぶ蝋燭の灯がきらきらと揺れている。

喉の奥がぎゅっと痛めば、熱の息苦しさと相まって呼吸が浅くなる。

 

茫洋と意識が霞む中、薬を受け取りに行かないと、と考えながらもぴくりとも動きそうに無い身体に苦笑した。

スネイプ先生がきっと何時迄経っても来ない私にきっといらいらしている。

減点してやろうとか陰険な事を考えているに違いない、あの人はそう云う人だ。

 

(ああ、そうか…)

 

そして、私を嫌悪し拒絶しながらも、同時に酷く分かりにくいやさしさを隠し持つ、不器用で器用な人だ。

彼は私の問いに答えない。私があとどのくらい生きられるか、どのくらいで死ぬか。

此の学校に於いて、ある意味、最も私を近くで見て来たのはスネイプ先生だった。

誰よりも私の問いの答を知っていたからこそ、私に決して絶望も希望も与えまいとした。

 

どうにもならないことがどうにもならないと知った上で、それでも私が此処で人として在る事を望んだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふっと意識が浮上した時、一番最初に感じたのは、朝の匂いだった。

白いカーテン越しにまだ陽の昇りきらない薄暗い空がある。

少し湿り気を含んだ夜気の名残、冷たく澄んだ空気。

其処に混じる医務室独特の微かな薬品の匂いで、自分がどうして此処で眼を覚ましたのかを思い出した。

 

気怠い身体を無理矢理起こし、きりきりと痛むこめかみを抑えながら、

枕元のサイドテーブルに視線を遣れば、其処に佇むはもうすっかり見慣れてしまったゴブレット。

力の入らない両手でしっかりと支えながら其れを一気に飲み干すと、何故か不思議と涙が出て来た。

 

「…ほんとに、…ひどい、味だわ…。」

 

黒い手袋をはめたままの左手の指先がじくじくと痛む。

左手を胸に抱きしめるように引き寄せて、私は白いベッドの上で踞り、泣きながら笑っていた。

 





 

 

 




next.




(09.8.1)

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