錆色の沼 11
体調は相変わらずじわじわと悪化してゆき、まともに授業を受けられる日の方が少なくなった。
熱はなかなか下がらないし、食欲も無い。身体が空洞になってしまったような虚しさが日毎感覚を蝕む。
そんな状態の中、ただ、不思議ともう薬の濃度が上がる事は無かった。
やはりスネイプ先生は私に何も云おうとはせず、険しい表情のままぐっと口を噤んでいたが、
私にも漠然とこうなった理由には見当がついていたので、先生の沈黙を少しだけいとしく思い、
返事が無いと分かりきった問い掛けをするような事はもうしなかった。
異種の血が持つ本能が身体の衰弱と共に衰えている。
濃度の安定、即ち、薬の効力がついに私の体力を上回ったのだ。
ぼろぼろの身体を引き摺って、何ともない振りをして笑う私はきっととても滑稽なことだろう。
それでも私はただ笑っていた。
「ミス、にやついている暇があったらさっさと手を動かしたまえ。
我輩が誰の為にわざわざこうして貴重な時間を割いていると思っているのかね。」
すっかりお留守になっていた手元に背後から鋭い叱責が飛ぶ。
私は今、もはやすっかり恒例となってしまった補修を受けていた。本日は魔法薬学だ。
いつもなら放課後に行われる筈だったのだが、先生の都合と、私の体調の関係もあり、
結局夕食後に迄こうして地下に籠って魔法薬を作るはめになった。
「…すみません。ついうっかり。」
「グリフィンドール1点減点。」
「(理不尽…!)」
にやついていると評された表情を改める事無くそのまま振り返って首を傾げて見せると、
突き刺さるような視線と共に、何とも納得のいかない減点を云い渡された。
心の中で同寮生に謝りながら、何かの生物の羽らしきものを擂り鉢で潰す作業を再開した。
薄気味悪いと生徒には評判最悪の此の魔法薬学の教室だったが、私は割とこの教室が好きだった。
もちろん保存瓶の中の、生物だか何だか分からないような悪趣味かつグロテスクな中身は遠慮願いたいものだが、
医務室とはまた違った類いの薬品のにおいと、薄い暗幕の内側に居るような感覚に、不思議と安心感を覚えた。
何より、此処にはスネイプ先生がいる。
彼は決して味方ではないが、敵ではない。
先生はずっと最初から私を嫌悪し、拒絶し、否定するという前提の上で、
それでも、だからこそ味方にもならない代わりに、敵にもなろうとしなかったのだ。
其の感覚に上手く名前をつける事は出来ない、けれど確かに其れこそが私にとって、
唯一の救いだったのだ。
「先生、」
丁寧にすり潰し、粉末状になった材料を小瓶に詰めて蓋をした所で、私は先生を振り返った。
不機嫌そうな顔で私を見下ろす先生を見上げながら、私は微笑んだ。
今にも泣いてしまいそうな程、眼の奥が痛み、息が苦しくなった。
じくりと痛んだ左手を、手袋越しにそっと撫でた。
「今更ですけど、先生にはとても感謝しています。
本当に、ありがとうございます。」
先生は唐突な私の物言いに一瞬厭味や皮肉を吐こうと口を開きかけたが、
すぐに口を噤み、深く眉間に皺を寄せ、私を強く睨むような視線を寄越した。
私が何を考えているのかを計りかねているかような其の眼に、再度小さく微笑みかけたつもりだったが、
上手く笑えているかどうかはわからなかった。もしかしたら酷く歪な表情だったかもしれない。
「私はやっぱり、誰も間違っていなかったと思うんです。
先生も、気付いていらっしゃったはずです。
どうしようもなかっただけのこと、これは、そんな物語だったんだって。」
「ミス、君は一体何を云……!!」
云い掛けた言葉の不意を突くように、私は素早く先生の懐に飛び込み、襟首をぐいと掴んで引き寄せる。
先生が咄嗟に杖に手を伸ばすよりも早く、一片の躊躇もせず、
その首筋に噛み付いた。
その温もりの傷口から、甘く生々しい赤が私の渇いた喉にとろりと流れ込んで染み渡る。
「…うっ…」
常ならず弱々しく呻きながら、私に杖先を向けようとした先生の其の腕は、目的を達成する事無くだらりと下げられる。
力の抜けた手から滑り落ちた先生の杖が、床の上でからからと踊りながら空虚な音を立てていた。
先生は何とか抵抗して私を振り払おうとしたようだったが、急激に力が抜けて行く身体には逆らえず、
そのまま後ろにあった机の側面を背中で這うように伝い、ずるずると冷たい床に座り込む。
噛み付かれれば抵抗できなくなる。そういうふうに出来ているのだ。
力なく座り込んだ先生を抱きしめるように、そっと其の背中に腕を回し、
溢れ出る先生の血を、舌でじわりと味わいながら、ゆっくり、ゆっくりと、嚥下した。
もう一体何年ぶりになるかわからない、あたたかい、生きた人の血の味。
嗚呼、其の味の、何と甘く、何と暖かく、何と尊いことか…!
どう云い表していいかもわからないほどの急激な熱い感情の波に耐えきれず、
私はきつく閉じた瞼の隙間から、ぼろぼろと涙が零れるのを止められなかった。
先生の背中にそっと回していた腕に、私は小さく震えながらいつしか縋り付くようにぎゅっと力を込めていた。
こんなぼろぼろの身体になる迄薬と云う名の毒を飲み続け、必死で異種の血を殺め続けて来たと云うのに、
それでも、愛しい血を受けた身体が、例えようも無い程の歓喜を訴えている。
嚥下した先生の血が、身体の中から私を暖めてゆくのがはっきりとわかる。
こうなった今になって、ようやく私は自分の身体が、もうずっと、ひどく『凍えて』いたことに気付かされた。
愛しくて、悲しくて、切なくて、苦しくて、幸せで。
胸が潰れてしまいそうなくらいの激しい感情に押し出された涙は、後から後から溢れて頬を濡らして行く。
先生。先生。先生。ごめんなさい、先生。
すきなんです。
もっと、と欲しがる飢えた喉を押し殺して、精一杯の気力を振り絞って牙を抜く。
その首筋の、僅かに血の滲んだ傷口をゆるりと舌で拭い、私は暫く先生に縋り付いたまま泣いていた。
まだ暫くは身動きも出来ないだろう、先生は少しぼんやりとした眼をしながらも眉根を寄せて険しい顔をしていた。
陶酔にも似た感覚がじんと身体に滲みて、舌に残る甘くて尊いその味に、浅ましくも恍惚とする。
幸せなのに、苦しくて苦しくて、忘れていた左手がまたじくじくと痛み出して仕方が無い。
「…先生は、覚えていないだろうけれど、」
嗚咽を堪えて小さく呟いた声は、ひどく掠れて聞き苦しいものだったが、私は構わず言葉を紡ぐ。
先生は私の声が聞こえていてもきっとまだ返事をする事も出来ないだろう。
先生に縋っていた身体をゆっくりと起こし、その傍らに力なく座り込んで項垂れる。
止まない震えを押し殺すようにして、黒い手袋をしたままの左手を抱きしめた。
「私が一年生の時のハロウィンを覚えていますか、と、以前尋ねた事がありましたよね。」
返事が返されない事は分かっているので、独り言を呟くようにぽつりぽつりと零す。
「先生、あのハロウィンの夜、どこか、怪我、なさっていたでしょう。」
そう云って、ゆるりと先生の方を見遣ると、先生は少しだけ怪訝そうな色を浮かべているように見えた。
其れを見て、私は小さく笑って言葉を続けた。
先生の顔色は常よりもずっと血の気が引いて青褪めていた。
しかし飲んだ血の量はそう多くはないので命には別状は無いだろう。
私には噛み付いただけで同族を増やすような力も無いのだから。
「…私のような生き物達にだけ分かる、血の味の違い。
昔、一度そんなお話をしましたね。
血液を糧とする種族達は、より闇に近い生き物。
同じ闇に近付いた人間程、その血の味は濃くなるものなんですよ。」
私は殆ど確信に近いものを感じて、先生の腕にそっと触れた。
少しだけ先生の表情が強張ったように見えたけれど、気のせいかもしれないと思い直し、首を振った。
此の腕の、袖の下に先生が何を隠しているかなんて、今の私にはどうでもいいことだ。
ただあの時に掠めた甘い血の香りは、やはり先生だったのだと確信し、何故かふと安堵した。
「…ああ、でも、そんなの、どうだっていいことだわ。」
ただ濃密な血が欲しくてこんな事をした訳じゃなかった。
先生であること、それだけが意味を持つのだから。
「ありがとう。」
最後にもう一度だけ先生を抱きしめてから、私はふらふらと立ち上がった。
涙はいつの間にか止まっていたけれど、胸を塞ぐ苦しさは止まない。
「ごめんなさい。」
去ろうとする私の気配を察して、先生はぐっと顔を顰めて身じろいだ。
自由の戻らない身体を何とか叱咤しようとしていたようだが、
私からすれば、其の状態で、僅かにでも動けるだけで上出来だ。
少しだけ申し訳なさを滲ませながら苦笑して見せて、私は左手を覆っていた黒い手袋を静かに外しながら、
久し振りに外気に晒された其の手を先生に向かって翳してみせる。
先生が少し驚愕に眼を見開いて、血の気の引いた唇が何かを小さく呟いたように見えた。
初めて出会ったときと同じように、私は穏やかな思いで微笑みかけた。
あの時は見上げていたけれど、今は先生を見下ろしながら。
「さようなら。」
私の左手は、今では暗い碧色に変色していた。
その毒に侵された範囲を、手首にまで浸食させながら。
名残惜しさを断ち切って即座に踵を返し、まだ動けない先生を残して教室から走り去る。
出来る限り急いで、でも足音は立てないように、気配を殺して。
もう就寝時間も近い頃、出歩く生徒は殆どいない。
時折見回りをする先生やフィルチさんを何とか隠れてやり過ごした。
私は漆黒のローブのフードを冠り、闇に擬態するように気配を溶かして、
暗闇にそっと横たわる静かな夜の森を目指し走った。
肋骨の内側がきりきりと痛んでも、熱を含んで朦朧とする頭が視界を霞ませても、
左手が、じくじくと痛んでも。
毒に触れて負った指先の傷は治るどころか、薬を飲む毎に、体内の毒に呼応するようにどんどん広がっていた。
もう「時間」が来たのだと気付くには、それは十分過ぎる証明だった。
どこからか響いてくる獣の咆哮を聞きながら、暗い森を疾駆する。
草葉や荊の枝に脚を斬りつけられながら、私はただ夜闇の中を走り去る。
遠くへ。もっと遠くへ。
ホグワーツが見えなくなって、ダンブルドア先生にも見つけられない、誰も私を追いかけてくる事が出来ない所まで。
いつしか此の身は朽ちて、魂は錆色の沼を彷徨い、いずれまただれかの胎内に流れ着く。
暗い羊水に浮かびながら、きっと私は其れでも尚貴方を求めている。
ただ、願わくば、貴方の血の味を忘れて、「管」を断ち切れるように。
(さぁ、次はどんな物語を紡ごうか。)
fin.
(09.8.1)
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