愛しのヘリオドール 8

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何度も云うようだが、私は基本的には怠惰な人間である。

楽できるなら存分に楽するタイプなのだが、そんな私も一応この国に来てからは結構な頑張りを見せているつもりだ。

 

オールドラントで生まれて以来、此処まで自主的に頑張ったのは初めてなんじゃないか、

と自画自賛してしまうくらいには、そりゃあもう私は頑張っている。つもりだ。

更に云うならば、其の努力が少しずつでも確と報われているのが分かるからこそ、やってこれたのだろう。

 

最も、大臣さん方の調教…じゃなくて教育が上手いのも一役買っているように思われる。

皇帝陛下がああいう方なせいかもしれないが、実に人の扱いが上手いと云うか、

あしらい方が手慣れていると云うか、飴と鞭の使い分けが絶妙と云うか。

犬の躾の如く、できたら褒めるの要領で上手く誘導されているような気がしてならないのだが、気のせいだろうか。

気のせいだと思いたいので気のせいだと云う事にしておく。

…知らない方がいい事も世の中にはある。

 

そんな経緯もあって、努力の成果が自分にも分かる形で実るのはどうにも悪い気はしないものだから、

少々私は調子に乗っていた。不可抗力ながらも結果として箱入り貴族な己の体力の無さを舐めていた。

そして案の定、許容量をすっかり越えてしまったようで、ある日突然糸が切れたように熱を出して倒れる羽目になる。

 

流石に自分の事は自分が一番よく分かっている。

こうなってしまった理由に心当たりがあり過ぎたので、あーやっちゃったなぁと思いながらも納得して、

慌てず騒がず大人しくベッドに直行したのだが、むしろ驚いたのは周りの人間の方だったらしい。

 

直前まで何事も無くいつもどおりに過ごしていたので、

何か悪い流行り病にでも掛かってしまったのではないか、などとメイドさん達がひどく慌てふためいていた。

平生より優秀かつ冷静な彼女達にしてはかなり珍しいその取り乱し様に、私は思わず苦笑してしまった。

(そして、笑っている場合ではありません、と侍女さんに叱られた。マジすみません。)

 

思いのほか高熱であった為、暫くはベッドの住人である。

診察してくれたお医者さんには、簡素にして最もな診断を受けた。

曰く、「過労です。」との事。

…まぁそうだろうとも。知ってたさそんな事。

 

マルクト生活開始からこっち、溜まりに溜まっていたストレスと精神的・肉体的疲労が、

此処へ来て一気に溢れ出したのだろう。想定の範囲内である。

なかなか熱が下がらない以外は特に異常は無いので、此れはそろそろゆっくり休憩しろと云う、

ユリア様とかそんな感じのアレの思し召しだという事にしておく。

 

しかしながらこの全身の倦怠感にはほとほとうんざりさせられる。

関節が軋む。滲む汗がべとついて不快だ。朦朧として頭がちっとも回らない。食欲も無い。

 

時折、皇族お抱えの治癒師が訪ねてきたかと思うと、気休めにしかなりませんが、と、

申し訳無さそうな顔をしつつも治癒術を掛けてくれた。

物理的な怪我を治すのが本分である治癒術では、病に対して直接的な効力は無い。

しかし一応体力の回復と云う側面もある為、気休め程度でも体力低下を防げれば、と云う事らしい。

たとえ気休めであっても、彼らのその気持ちはとても有り難い。

 

…食欲が無いと云っている人間に対して、弾力性に富んだ飲み込み辛いアップルグミとかを、

無理矢理口に捩じ込まれたりしなくて、心底よかったとは思う。

それはただの嫌がらせである。

正直な話、この世界の薬としてのグミには些か疑問を呈したい私だった。

 

ものすごくどうでもいいことだが、私はあの味、あんまり好きじゃない。

効果は確かなんだけどね…。

 

 

 

 

 

時間の感覚さえ朧げな中、ぐったりと寝て目が覚めて寝てを繰り返していると、

ふいに眼の覚めた真夜中頃、薄闇の中で眼を開いた私の視界で、動く影があった。

 

朦朧とした頭と、瞬きするのも億劫な倦怠感の中、ゆっくりと其の影に眼を凝らす。

其処には何故か、私の傍ら、ベッドの縁に腰掛けてこちらを覗き込む皇帝陛下。

 

…え。ちょっ、何故此処に。

ていうかいつの間に。

 

不意打ちと云うか何と云うか、ともかくも私はひどく驚いていたのだが、

如何せん身動きどころか表情を動かすのも怠くて仕方が無い。

ゆっくりと瞬き、私の顔を覗き込んでいるピオニー陛下の顔を、ぼんやりと見上げる事しか出来なかった。

 

明かり取りの窓から覗くルナしか光源の無い中、辛うじて見えた陛下の其の顔は、少し困ったように笑っている。

闇の中でもはっきりと浮かび上がって見える金色の髪が、きらきら光る蜂蜜を垂らしたみたいで、とても綺麗だ。

 

「…悪い、起こしちまったか?

 、具合はどうだ。…なかなか見舞いに来てやれなくて、悪かったな。」

 

陛下は囁くような小声で何事かを云っているようだったが、

耳が振動を拾っても脳が其れを認識してくれないせいで、生憎と何を云っているのか理解が追いつかない。

上滑りするだけの思考に早々見切りをつけて、私はただ熱に浮かされるままにぼんやりと陛下を見上げていた。

 

陛下はそんな反応に乏しい様子にちょっと苦笑をこぼし、額に乗せられていたタオルを濡らして乗せ直してくれた。

ひやりと心地良い冷たさは一瞬だけで、すぐに体温を吸い込んで温んでしまう。

それでも心地良さに眼を少しだけ細めた私の反応に気を良くしたのか、陛下は何度か其の行動を繰り返した。

何とも甲斐甲斐しいことだ。

片付けが苦手で細かい事をちょっと気にしなさすぎる性格で、

良く云えば寛容、悪く云えば大雑把なこの男にしては、やけに繊細な手付きだった。

 

一体何に味をしめたのか知らないが、楽しそうにすら見える様子で、何度も何度もそんなことをしてくれるものだから、

何だかまるで子供のようだと思うと不覚にも和んでしまって、私は微かに笑みをこぼした。

そんな小さな笑みをどう解釈したのかは知る由もないが、彼は何故か満面の笑みを浮かべてそっと私の頭を撫でた。

 

いつかのような遠慮の無いそれとは違い、労るような優しい手の感触。

空回りして跳ねた思考の下で、心の底の水面がざわりと揺れた。

 

ああ、これはよくないな、と考えたが、朦朧として箍の緩んだ状態ではどうすることもできない。

揺れる揺れる水面が飛沫を上げ始めて波になる。

 

些かピオニー陛下の手は優し過ぎた。

身体が弱っていると、心も弱くなるものだ。

したくもない実感を覚えてひとつ瞬きをすると、ぎゅっと喉の奥が苦しくなった。

 

もう駄目だった。

 

感情も追いつかないのに、涙が一つはたりと零れてしまうと、止まらなくなる。

ぼろぼろと涙が眦を伝い、後から後からこぼれ落ちていく。眼の奥が痛くて熱い。

息が苦しい。涙に溺れてしまうかのようだ。肺が軋む。

 

泣きたい訳ではなかったはずなのだが、思考と身体の反応が随分と食い違ってしまっている。

いきなり泣き出した私に、滲んで揺れた視界の向こうで、陛下が少し動揺して…

 

「あ、あれ、ど、どうした…!?え、あ、ええ??

 ちょ、俺が悪いのか?俺のせいなのか!?」

 

…訂正、かなり、動揺しているようだ。

落ち着け、賢帝。

 

何もそんなに狼狽えずとも良かろうと少々呆れながらも、相変わらず涙は何故かどうして止まってくれやしない。

陛下は困惑を露にしながらも、何度か指で涙を拭ってくれた。

泣いているせいでますます朦朧としてきた。また熱が上がってきたのかもしれない。酸素も足りてない。

 

ふいに、陛下が再び私の頭をゆっくりと撫で始めた。

その懐かしい心地に、嬉しいのか悲しいのか寂しいのかもよく分からなくなってくる。

 

今更郷愁も何もあったものではなかろうに、それでも、

私が私として存在を始めて以来蓄積されてきた世界二つ分の記憶と云うものの全ては、

意識が忘れようとも、いつまでも奥底にひっそりとたゆたっているものなのかもしれない。

 

「…大丈夫だ。。」

 

一体何が大丈夫だと云うのか。

私は最初から大丈夫だし、ある意味では最初から大丈夫なんかじゃない。

 

温かい手の感触のせいで涙が止まらなくなるので頭を撫でるのなんて止めて欲しいと思いながらも、

止めないでくれこのまま其の優しさを貪っていたいとも思った。

 

甘えて縋るという選択肢は最初から無いのだが、もしあったとしてもそれだけは私は選ばないだろう。

この男はいい意味でも悪い意味でも器が大きすぎるので、一つでも彼との関わり方と自分の扱いを間違えれば、

きっと私はすぐに駄目になってしまうのだろうと思えてならないのだ。

 

「…へい、か…。」

 

私は私の存在をこの人に背負わせたいのではない。

私は私であるそのままに、正しい位置に自分の足で立っていたいだけ。

 

「大丈夫。」

 

穏やかな低い声が安堵を誘うように囁いている。涙はまだ止まらない。

髪を撫でる手も止まらない。

傍らに在る人間の気配を感じて、心安く思うのは、きっと、

誰でもいいと云う訳ではないのかもしれなくて。

 

自分の思考を理解してしまう前に、まるで慈しむような柔らかい眼差しを降らせる陛下に小さく笑いかけて眼を閉じた。

無理矢理眠ろうとしなくても、瞼の裏の暗闇に誘われて意識は深く深く沈んで行く。

涙はまだ止まらない。

髪を撫でる手も止まらない。

眠りの底にすっかり落ちてしまう、その間際まで。

 

 

 

私は思った。

ああ、なんだ。私は、いつのまにか、本当に、ピオニー陛下のことが、

 

 

 好きになっていたのか

 

 

それに気付いた時には既に、私の意識は、夢も見ないほどに深く、静かなところへと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

next.

 

 

 

(11.6.11)

 

 

 

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