愛しのヘリオドール 9

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…ああ、そう云えば、」

「うん?」

 

暫し続いた高熱もすっかり下がり、数日の休養を経て完全に復調した私は、

今日は陛下の執務室に詰めて陛下のお仕事の手伝い、もとい、脱走防止用の見張り役に任命されていた。

 

私が傍で詰めていると陛下の脱走率が微妙にちょっとだけ下がる、と云う法則を目敏く発見した大臣さん達に、

鬼気迫る勢いで頼み込まれたので思わず頷いてしまったとかそんな出来事の結果だ。

 

…本当に苦労してるんだなぁ、大臣さん達。泣けて来る。

でも「微妙にちょっとだけ」しか下がらないのであまり役には立てないと思うんだ。

むしろ、たまに私まで共犯にさせられることがあるので、結果としては五十歩百歩である。

 

私にも処理出来るものを大臣さんに振り分けてもらい、陛下の執務室の片隅にある机に向かう。

例によって、全力でやって此のスピードかよ、と云う低速稼働ぶりを遺憾なく発揮している次第である。

本当に、心底、大して役に立っていないというこの切なさ。

…己のスペックの低さが嘆かわしい。

それにしたって一体何故に、能力も容姿も、

血統以外に何か突出したものを持っている訳でもない私が皇妃に選ばれたのか、未だに不思議でならない。

 

それはさて置き。

 

高熱に魘されていたあの時、自覚せざるを得なくなった自身の感情についての考察とその結論について、

一応経過報告としてピオニー陛下に伝えておくべきかと思い至り、そう云えば、と、声を掛けたのだった。

手にしていたペンを置き、斜め向こうで机に向かう陛下に身体ごと向き直ってその眼を見る。

 

「経過報告と申しますか…。

 一度しか云いませんが、一度だけは云っておこうかと思いまして。」

「どうした、。いきなり改まって。

 ちなみに愛の告白なら俺はいつでも大歓迎…」

「好きです。」

「だ…ぞ……?……って、ちょ、………………もう一回云ってくれるか?」

「一度しか云いませんと申し上げましたので。」

「たっ頼むもう一回っ、」

「一度だけです、諦めて下さいませ。」

ー、頼むから、もう一回、もう一回だけ!なっ!?」

「…」

 

やたら食い下がる陛下の発言を総無視して再び書類に向かい、ゆっくりとペンを動かし始める。

 

この書類仕事と云うのは意外と厄介なのだサイン一つ

書き込めば済むものならまだいいが記入箇所が多いも

のだと一つ間違えたら全部やり直しになってしまうの

でなかなか神経を使うのである鉛筆と消しゴムで下書

きくらいできたらいいのに何とも不便なものであるよ

と、か。

 

意図的に句読点を打つ暇も与えず思考しながら黙々と書類と格闘していると、

まだしつこく私をじーっと情けなくも恨めし気に見つめていた陛下が、ふいににやにやと悪い笑みを浮かべ出す。

 

そういう顔をすると、あくどいことを考えている時の彼の懐刀にそっくりだ。

ものすごいイラッとくる。

 

「…さっきから顔が赤いようだが?」

 

にやにやにやにやにやにや。

うん、まぁ、私も大概だ、とは思うのだ。本当に、柄でもない事を云うもんじゃない。

だがしかし、其処は分かっていても見ない振りをするのが優しさと云うものではなかろうか。

私は俯いたその姿勢のまま、静かに再度ペンを置いた。

 

「……陛下。」

「なにかな?」

「……そろそろ泣きそうなんですが…。」

「それは勘弁してくれ…!」

 

羞恥と云うよりどちらかと云うと屈辱の方が大きかったりするのだが、

不本意ながら微妙に涙眼の私と、いやに焦りながら必死で私を宥めようとする陛下。

もちろん仕事はがっつり中断していた。

 

ああ、我が事ながら、実にあほらしい。

 

何度も云うようだが、この馬鹿っぽい二人がこの国の皇帝と皇后だと云うのだから、

本当に、何とも世の中間違っている。

 

 

 

此の後、報告書片手に訪れたカーティス大佐に心底呆れ返ったような眼で見られた挙げ句、

その無駄に豊富な語彙を駆使して辛辣な皮肉を浴びせかけられた。(陛下が。)

反論できる要素が一つも無いのがまた、悔しい事此の上無い。

 

あーもうほんとに泣いちゃおうかしらと思いつつ、

ぎゃあぎゃあとじゃれあうおっさん二人を意図的に視界から遮断して(何ともデジャヴュを感じる状況である)、

私は再び仕事に取りかかりながら腑甲斐無い涙と溜め息を飲み込んだ。

 

(惚れた方が負け、か…。)

 

窓の外の清々しい青空が何とも疎ましく思えて仕方が無いのは、私が捻くれているせいなのかもしれない。

全く私と云う人間も、結構つまらない生き物だ。

 

私はピオニーと云う男に恋をした。

けれど、きっと陛下は、私と同じ気持ちという訳ではない、と思うのだ。

 

私は陛下の引いた境界線の中には入れてもらえても、決して「特別」にはなれないような気がしていた。

以前ナタリア殿下の仰っていた陛下の初恋云々の話を無意識にひきずっているだけなのかもしれないが…。

 

しかしながら、陛下は基本的に誰に対しても分け隔てなく接する方だ。

それが陛下の美徳でもあり、また、彼の本意が見え難い原因でもある。

政治的な事以外ではあまり裏表の無い方ではあるが、

私には、陛下の本当の想いと云うものを見抜くことができそうにないのだ。

 

それは、今までは互いに関わった時間の不足からくる不理解であり、

今では私の感情が邪魔をして自分の眼を曇らせてしまっているせいだった。

相手に向ける感情が強ければ強い程、冷静で客観的な観点から物事を捉え難くなってしまうのは自明の事である。

私は、感情に振り回されてしまうような、ありふれた、ただの人間なのだから。

 

だが、それが何だと云うのだ。

もし仮に、私の此の感情が勘違いや思い込みであろうが、結局陛下の本心がどうであろうが、私は私の心を肯定する。

此処で、陛下の傍で、生きてゆく事を既に決めている。

 

私は陛下の後ろに付き従うのではなく、陛下の隣に立って同じ景色を見ていたいのだ。

死ぬ迄傍にいる。陛下が私の死を望まない限り。

 

静かに眼を閉じた私の出した結論は。

どれほどの思考を巡れども最後に辿り着くのは。

 

結局のところ、たったそれだけの事。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

next.

 

 

 

(11.6.11)

 

 

 

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