これは私の、私たちの物語だ。
恥じたら負け、そんな程度の、結論から云えばまぁつまらぬ恋愛話である。
けれど私は生きている限り、こうしてひたすらに生きた証を物語と為して綴り続けていく。
気の遠くなるその作業を、馬鹿馬鹿しいと云いつつも愛おしく思うのだから、私も大概酔狂だ。
愛をインクに、言葉をペンに、時間を羊皮紙に、出会いを挿絵に。
そして最後は、死を表紙に飾り、一冊の本が完成するだろう。
その本は、いつか歴史に埋もれて、消えていく。
誰も手に取ることの無い、密やかな物語。
愛しのヘリオドール 1
「様、お加減は如何ですか?
冷たいお飲物をご用意致しましたが、御飲みになられますか。」
「ええ、ありがとう。頂きます。」
こちらを心配そうに気遣う侍女さんに、そう云って何事も無かったかのように、
少しだけ笑ってみせたのはいいが、正直此れは虚勢も甚だしかった。
ほとんど気力だけで保っている様なものなのだが、
此処に来る迄に積もりに積もった心労のせいで既にすっかり目減りしているその気力に、
然程期待できないのも自明な訳で。
私は緊張には弱いが基本楽観的な人間だった筈なのだが、と、
此処に来て自己認識を問い直す羽目になるなどと、どうして予想できただろう。
がっかりと云うかむしろぐったりだ。そんなまるで底辺を彷徨うような気分が顔色に現れていたのか、
再度大丈夫ですかと問うて来る侍女さんに渇いた笑みを投げ掛け、黙って冷たいアイスティーを口に含む。
ND2019年下旬、某日。
私は今、船の上にいる。
それも、キムラスカ・ランバルディア王国で一、二を争う最新型豪華客船だ。
怠惰な三半規管が仕事をサボタージュしがちな為、少々船酔い気味なのは此の際無視するとして、
その私が何故さほど得意でもない乗り物にこうして長時間揺られているのかと云うと、
素晴らしく盛大でささやかなお引越の最中だからである。
盛大、と云うのは関わっているものの規模の話。
ささやか、と云うのは此のお引越の規模に比べて、引越す人数が異常に少ないとの意だ。
…認めたく無いからと云って、遠回しに遠回しに表現してみた所で現実は変わらない。残念ながら。
はっきり云おう、私は今、嫁ぎに行っている。
私はキムラスカ王国の貴族の中でもそこそこ上位に相当する、とある侯爵家の一人娘だ。
最も、中身はと云うと、普通の日本人だった、はず、なのだけれど。
…まぁそれはそれでどうでもいい。今の私にとって、そこは大した問題ではない。
一つ問題があったとすれば、此の異世界というものの馴染み無さ以前に、貴族と云う身分が大層面倒くさいことだった。
生まれ変わったらお姫様になりたいの、なんて痛々しい事を願ったことなど、
一度たりとも無いと云うのに此の仕打ち。運命とは残酷なものである。
(此処は笑うところだ。というか笑いでもしないとやってられない。)
そんな訳で、インゴベルト六世陛下の統治するキムラスカ・ランバルディア王国の王都バチカルから、
ピオニー九世陛下の統治するマルクト帝国は帝都グランコクマへ、私は現在、絶賛ドナドナ中なのであった。
いくら長年いがみ合ってきた両国が、ようやく実現した和平条約の締結の後、友好的な関係を築きつつあるとはいえ、
つい去年迄がっつり戦争していた(しかもふっかけたのはこっちだと云うがっかりぶり)、元敵国に嫁いでいくのだ。
それって要するに人質以外の何者でもないのでは、と思うのは、私の気のせいではない筈である。
しかも、嫁ぐ相手が一番の大問題である。
どっかの貴族とかそういうレベルではない。
……よりによって、 皇 帝 陛 下 だ。
…念の為にもう一回云っておく、マルクト帝国の、一番偉いひと、皇帝陛下である。
ピオニー・ウパラ・マルクト九世陛下である。
動揺の余り、思わず駄目押しで二回云ってしまった。
いくら家がキムラスカでそこそこ上位の貴族だからと云えど、しかし王族の血が入ってる訳でも無いのだ。
どう考えても、此の状況はありえない。
だがしかし、完全に外堀を埋めてから確信犯的に権力で生け捕られた私に、抵抗も反論もできるはずがなかった。
絶対王政の此の国で国王陛下の勅命に逆らう事なんて、出来る訳が無い。
普通このような大事な話、まず事前に本人へ打診があって然るべき所であると云うのに。
実際はある日突然名指しで王城に呼び出され、身に覚えの無い招集に一体何事かと急いで謁見の間に馳せ参じたら、
冷や汗をかきながら何食わぬ顔で作り笑いを浮かべるお父様と、晴れやかな笑顔の国王陛下とその他重鎮達に囲まれ、
「おまえどうせ行き遅れだろ、ちょうどいいから、ちょっとマルクト皇帝に嫁いで来てよ!(※意訳)」と云われたのだった。
(…お父様てめぇ笑ってる場合じゃないだろう…!!)
内心暴言を吐きつつも唖然とする私は、見事にスルーされた。
そうして権力を盾に、答えは「はい」か「イエス」でいいぞ的な無茶振りをされた挙げ句、
気付けばあれよあれよと云う間に準備が着々と進められ、
ついでに一月ほどで皇妃教育だの何だのをみっちりと強引に仕込まれ、
僅か二人の侍女さん達と共に国をとっとと追い出されて今に至る訳だ。
両親である侯爵夫妻は港へ見送りには来てくれたが、マルクトまで付き添ってやろうとは微塵も思わなかったようである。
想定範囲内だったとは云え、何とも薄情だとつい思ってしまう。
百歩譲って、何故か貴族に生まれてしまったからには、確かに政略結婚は仕方ないとしても、あまりに突然過ぎる。
慣習的にこう云う場合まずは婚約からだろうとか、付き人が侍女さん二人ってあまりにも少なく無いかとか、
友好ついでに人を厄介払いするなとか、誰が行き遅れだ放っとけよとか、お父様てめぇ覚えてろよとか、
云いたいことはお空に浮かぶ譜石の数程あったが、多過ぎて逆に何も云えなくなった私であった。
私をバチカル港から送り出す際の、国王陛下の温かいお言葉が忘れられない。
「愛娘の名を冠した船、プリンセス・ナタリア号をわざわざ特別手配してやったんだし、
文句なんか云わないよねそうだよね?(※意訳)」とのたまうインゴベルト六世陛下の御優しい笑顔を思い出す度、
とりあえず一回キムラスカ滅んどけよ!と叫びたくなったのはもちろん冗談である。
ああ、もちろん、冗談、だとも…。
(11.6.11)
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