愛しのヘリオドール 2
本日快晴、譜石帯の煌めきの麗しく。
爽やかなそよ風吹く美しい青空の下、波は穏やかで、船室はほとんど揺れを感じない程の快適さである。
にも関わらず、私の気分が優れないのは、本当に、一体何故なんだろうな、…なんて。
「…私は酔ってない…断じてこれは船酔いではない…」
「あの…どうかなさいましたか、様…?」
アイスティーのグラスを握り締め、青白い顔でぶつぶつと無駄な自己暗示を呟いていたせいで、
侍女さんを大層困惑させるはめになって非常に申し訳なかったと云うのは余談である。
(すみません侍女さん全力で気にしないで下さい。)
しかしさすがは公爵家から付けられた選ばれし侍女さん達である。
挙動不審な私に嫌な顔一つせず本気で身を案じてくれる彼女達が、今の私の唯一の癒しだった。
よく考えずとも切な過ぎる此の状況。
「日暮れ迄にはケセドニア港に着くそうですので、もう少しのご辛抱ですよ。
其れ迄はどうぞ、ごゆっくりと御休みになっていてください。」
有り難くその侍女さんの言葉に甘える事にして、私は力なく笑いながら深い溜め息を吐いた。
さっさと船を降りたいが、船を降りると云う事は、即ち目的地たるマルクトに着くと云う事である。
自分の往生際の悪さはさて置いて、私は侍女さんに会話でも仕掛けて気を逸らす事にした。
心の中で、私は断じて船酔い等していない!と自分に云い聞かせる事も忘れない。
「…確か、ケセドニアでマルクトからの迎えの船に乗り換えるのでしたね。」
「はい、グランコクマへは、順調に行けば4日程で着くそうですよ。」
「4日、ですか。まだ先は長いですね。」
まだまだ続く船旅を思って苦笑しながら云えば、侍女さんも何とも云えない苦笑を返してくれたのだった。
国王陛下が押し付けがまし…じゃなかった多大なるご好意をもって、
特別に手配して下さったこのプリンセス・ナタリア号は、もちろんキムラスカ船籍だ。
今この船に乗っているのは、私と二人の侍女さん、護衛のキムラスカ兵、
それと前もってキムラスカに来ていたマルクトの使者さんと、其の護衛のマルクト兵数名だ。
そして中立都市であるケセドニアを経由し、私は其処でマルクトから寄越された迎えの船に身柄を引き渡される。
(誤解を招きそうな云い方をしたが、あながち間違いでもないと思う。ので、あえて訂正はすまい。)
護衛のキムラスカ兵達とはケセドニアでプリンセス・ナタリア号ごとお別れとなり、
此処から私達は完全アウェイ、一緒にやってきたマルクトの使者さんとその護衛、
そして私を迎えにくる任務を受けた御偉いさん達と共に、たのしいたのしい船旅をご一緒する訳だ。
鼻歌でも歌い出してしまいそうな気分だ。ただし曲はドナドナのエンドレスリピートだが。
侍女さんが云った通り、陽が暮れる間近の逢魔ヶ刻、私達はケセドニアの港に降り立った。
ケセドニアの宿で一泊し、翌朝からはマルクト船籍の此れまた豪華なお船に乗せられて、
グランコクマを目指して再びゆらりと海路を行く。
ちなみに、私を迎えに来ると云うしょうもない仕事を云い付けられた可哀想な御偉いさんとは、
「死霊使いジェイド」こと、ジェイド・カーティス大佐だった。
まさかの人選である。コメントし辛い。
嫁入りが決まって後の怒濤の日々の中、
言祝ぎに来て下さったナタリア殿下と、一度だけお茶をご一緒させて頂く機会があった。
その際、先の和平条約締結に至るまでの彼女の冒険譚や、ピオニー九世陛下のこと、マルクトの街のこと、
過酷な戦いと旅を共にした仲間達のことなど、大まかにではあるが御話をお聞きした事がある。
カーティス大佐はピオニー九世陛下の懐刀であり、今や世界平和に尽力した英雄の一人でもあるのだと云う。
其れを思えば、皇帝の信厚いカーティス大佐が遣わされるのは何も不思議な事ではないのだが、
私はてっきり貴族もしくは文官に相当する人物が寄越されるとばかり思い込んでいたせいもあり、
予想外だったものだから少々驚いた。いや、ある意味予想内か。
そもそも事の発端となった昨年の和平打診の使者として、最初に派遣されたのが彼だったのを今更ながら思い出した。
私は「死霊使いジェイド」について詳しく知っている訳ではないかったが、正直その人選はどうなんだろうと思わないでも無かった。
彼の二つ名は、「平和」と云う単語にはどうにも程遠い。
外交についてはよく分からない私なので、まぁ何か理由あっての人選なのだろうと思うに留めたが。
私は所詮、政治には基本ノータッチな貴族の箱入りお嬢さんでしかない。
(本意で無いにしろ)今迄ほとんどバチカルから出た事もなかったのだから。
まぁそんな余談は置いておくとして。
当のカーティス大佐とは初めてお会いしたが、慇懃(無礼すれすれ)な物腰の、
非常に秀麗な容貌を備えた軍人さんだった。思ったよりも見目が若い。
ナタリア殿下の(偏った)断片的な話から察するに、「頭はいいが非常識」と云う固着イメージがあったのだが、
至って普通に定型通りのご挨拶をして、そのまま船に案内されてそれっきりなので、印象と云う程のものを抱く暇は無かった。
そもそも、物騒な二つ名で敵にも味方にも恐れられているような人間に、特に関わりたいとも思わない。
敢えて云うなら、貼り付けた様な微笑だったとでも述べておこうか。
あと、此れは余談だが、後天的とは云えカラーコンタクトではない本物の赤い眼と云うのは非常にもの珍しく、
間近で見上げたその眼は、なかなかに綺麗なピジョンブラッドだった。
眼に譜陣を刻むと云うその行為自体は、相当クレイジーだとは思うが。
前世においてはコンタクトを入れるのさえ怖かった私である、
そんな痛そうなこと、自主的にやっちゃうような人の気が知れない。
ちなみに私はと云うと、緊張がピークだったこともあり、
務めて挙動不審にならないように冷静さを取り繕うのに精一杯で、正直愛想笑いする余裕も無かった。
微笑を浮かべていながらも何処か胡散臭い軍人と、にこりともしない無口無愛想な貴族令嬢。…いやな絵面である。
せめて頑張って造り笑いくらいしておけば良かったか、と後に部屋で一人反省会をするもナンセンス極まりない。
幸いにも穏やかな天気が続いており、乗り換えたマルクトの船も、多少の船酔いを除けば概ね快適だった。
この軽い船酔い、三半規管の脆弱さと云うよりストレス過多なせいではなかろうか、とさっき漸く気付いた次第である。
私があんまり始終ぐだぐだ過ぎて、侍女さんはもちろん、護衛のマルクト兵さんにまで気遣われると云う此の体たらく。
返す返すも往生際の悪い自分が情けなくはあるが、彼等の配慮はとても有り難い。
しかし、確実に近付いている目的地を思えば、少なからず気が重くなってしまうのはどうすることもできなかった。
ナタリア殿下は、ピオニー陛下はとてもきさくで大らかな方だ、と仰っていた。
行った事も無い地に行き、顔も見た事の無い皇帝陛下に嫁がねばならない私の不安を和らげようと、
ほんの限られた時間の中ではあったが、殿下は御自身の知りうる限りの事を懸命にお話して下さった。
…のは、いいのだが。
ペットのブウサギを溺愛してるだとか、初恋の人が忘れられなくて今まで結婚話を蹴りまくってたとか。
かなり、非常に、とても、余計ないらん事迄教えて下さった。
(それを知って、わたしに、どうしろと…。余計にやりづらいこと此の上無いわ!)
しかし、私を心から案じて下さっている殿下の真摯なお顔を見るに、
何だか逆に不安が増したのだが、とは、口が裂けても云えなかった。
大体、今迄結婚話を蹴り続けてきたくせに、何で此処に来ていきなりOKを出しやがって下さったのか。
断れよ!其処は頑張って押し切れよ!と、思った私は、多分、正しくはないが間違ってもいないと思った。
こういう地位の絡む政略結婚は、血を残す役割を期待されているとみてまず間違いない。
マルクト帝国の皇帝は世襲制だ。
しかも、確か継承争いのせいでピオニー九世陛下の御兄弟は、全員既に鬼籍に入っている。
故に、現在正式に皇族の血統を保つ人間は、ピオニー陛下しかいなかったはずだ。
…ますます気が重い。
そんな世継ぎを期待されまくった状況の所に今から嫁いでいかねばならないのかと思うと、本当に、
何故敢えて今、何故敢えて私に、白羽の矢なんて立てられてしまったのだろう、と打ちひしがれずにはいられなかった。
お父様とインゴベルト陛下なんて禿げてしまばいいのに、とついうっかり不適当な言葉を呟いてしまったのだが、
幸い侍女さんには聞こえなかったようで心底安堵した。
貴族の令嬢(一応)にあるまじき発言は今後一層慎まなければリアルに命に直結しかねない、とか。
ああめんどくさい、と、いきなり問題発言を吐きそうになった辺り、先が思いやられる。自分でも。
一人反省会の甲斐も無く、結局マルクトの皆さんには、私は無口で無愛想がスタンダードなのだと思われているようだった。
心外である、と云うかナチュラルに誤解である。
しかし今更彼らの心象を変えることなど出来ようはずもなく、気付けば船はグランコクマ港に碇を下ろしていた。
一応予定通りではあるが、到着したのは既に街中を街灯が照らす時間帯だった。
にも関わらず、何とか気力で姿勢を正しつつ船を降りて桟橋に足を着けると、
港にはたくさんの人々が、私の見物だか出迎えだかの為に集まっていた。
国同時における長年の確執は、そうそう簡単に拭えるほど浅い傷跡ではないだろう。
しかし、それなりに歓迎してくれているふうなその人垣の様子に虚を突かれて、私は眼を丸くしながら思わず立ち止まる。
まだキムラスカを恨みに思う人も多かろうと思っていたので、とても意外だった。
個人の感情ならともかく、大衆の感情ってよくわからないものだ、とぼんやりしながら考えていた。
「改めまして、ようそこ、グランコクマへ。
我々は心より貴方様を歓迎致します。」
微妙に及び腰で立ち止まったままの私の戸惑いに気付いてか、
何だかえも言われぬ謎の微笑と共に、カーティス大佐が優雅で芝居がかったようなお辞儀をしてみせた。
発言自体は有り難いのだが、何でこの人が云うとこんなに胡散臭く聞こえるのだろう。
此処迄来ると、ある意味、逆に人徳と云ってもいいかもしれない。心底不思議である。
「…温かいお言葉、心より、感謝致します。」
ぎこちなくも笑みを浮かべつつ大佐に礼を云い、曖昧な笑みを振りまきながら人垣の間を抜けると、
私は港近くに用意されていた青と白の馬車に乗り込んだ。扉にはマルクトのシンボルが誂えてあるのがちらと確認できた。
扉が閉まった瞬間の、安堵の気持ちと云ったら無かった。
私は、ほんとうに随分と「遠く」まで来てしまったようだ。
(11.6.11)
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