Soiree -six-
とピオニーが出会ってから、長いようで短い時間があっという間に流れて行った。
ピオニーは一度懐に入れた者をそう簡単に手放せる程諦めが良くもなかったし、
は初めての人間の友人に、狂おしい程に焦がれていた。
触れただけで割れてしまう様な薄い硝子で出来たその時間は、
儚ければ儚い程、何よりも美しいものだと思えたのかもしれない。
いつか失われるものだとわかっていても、彼らが互いを大事に思う気持ちに、偽りなどあろうはずもなかった。
それは、確かに彼らの心に幸いを注いだのだ。
「一人で此処へ来るとは、珍しいな、赤眼の。」
朧にけぶる、薄雲を纏ったルナの浮かぶある夜のこと。
柔らかく微笑んで振り返ったに、しかしジェイドは少し沈鬱な表情で口を噤んだまま、
庭の入り口付近で立ち止まり、それ以上彼女の方に歩み寄ろうとはしない。
その少し様子のおかしいジェイドに何か不穏なものを感じて、
は改めて彼へと身体ごと向き直り、少し硬い声で、何があった、と問い掛けた。
一度ピオニーの留守中にの相手を頼まれて以来、
ジェイドは其れからも、皇帝が都を空ける度、ちょくちょくの話し相手に駆り出されていた。
しかし、ピオニーがグランコクマにいる時に、彼が一人でこの庭を訪れた事は今まで一度だってなかった。
時折にっこりと笑うピオニーに引き摺られて二人でやってくることもあったが、
それでもジェイドは基本的に気乗りしない、それでいてわりと穏やかな様子を見せるのが常であった。
得体の知れない黒い靄がたゆたっているような不安定さを胸に感じながら、
尚も険しい顔をして黙っているジェイドに、再度問い掛ける。
「何があった。云え。」
顔を隠すように一度眼鏡に触れ、ジェイドは何事もなかったかのように淡々と述べた。
「陛下は暫く此処へは来られません。」
「…また出掛けるのか。」
「いいえ。」
「ならば、何故だ。」
「……。」
「おまえが、わざわざ一人で此処へ来る程だ。
何か説明を必要とする事情があるのだろう。」
「……。」
「事情もないのにおまえが来る筈がない。
わたしにそれを云いに来たのではないのか。」
少し睨むようにジェイドを見据え、語勢を強めて詰問する。
ジェイドは、彼らしからぬ少し昏い眼をした。
きっ、と睨むようにジェイドを見つめるを、何処か憐れんでいる様子さえ見受けられる。
それでも淡々とした感情を見せない其の口調が、逆に彼の心の波立ちを感じさせるようでもあった。
「…陛下は現在、お怪我を負われ、床に臥せっておられます。
よって、治療が完了するまで、陛下は此処へは来られません。」
何を云われたのか、はすぐには理解できなかった。
眼を見開いて身体を強張らせたまま黙り込む彼女を見ない振りをして、ジェイドは尚も淡々と事実のみを語る。
逆に云うと、ジェイドはそれ以外にどうすべきかを、判断しかねていた。
「お命には別状はありません。
しかし、治癒術による治療も、身体への負担を考えると限界があり、
医者の話では、当分の間は絶対安静にするように、とのことです。」
まさに絶句、と云う言葉がぴったりと当てはまるように、は凍り付いたように唇が動かなかった。
ジェイドの云っている言葉は理解できた。
しかし、意味を飲み込むには、喉が痛くて痛くて、苦しくて。
手足がきちんとついているのかも分からなくなってしまいそうな、存在認識ごと揺らぐ感覚。
は何時の間にか自分の身を守るように抱き締めながら、地面にひたりと座り込んでいた。
呆然とした顔で俯くを、ジェイドはただただ無表情に眺めては、微動だにしない。
「…あいつは、しぬのか。」
ぽつり落とされたのひどい言葉に、ジェイドが顔を歪めた。
「縁起でもない事を云わないで下さい。
いくら何でも、怒りますよ。
先程、命に別状はありませんと申し上げたはずですが?
人の話はきちんと聞きなさい。
その無駄に角まで生やした立派な頭は飾りですか。」
「……そうじゃない。」
静かに、しかし本気で怒りを滲ませるジェイドの言葉に、は力なく首を横に振る。
ジェイドからはその表情は見えなかったが、
ぽっかりと心を何処かに落としてきたかの様なの空っぽな無表情が、何故かはっきりと想像できた。
だから嫌だったのだ、と彼は内心で苦く吐き捨てた。
「わたしは、どうして忘れていたのだろう。
いや、見ない振りを、していただけ、だな。」
「…。」
「人間は、脆いものだと、そう云ったのはわたしだった。
いつか、あいつもおまえも、わたしの傍から突然いなくなる。」
「…それが人間と云うものです。」
「そんな当たり前で、恐ろしいことを、わたしは、
どうして今の今まで、忘れたふりなんて、できていたのだろうか。」
俯いて自分を抱き締めて震えながら、は唇を噛み締めて沈黙する。
「…泣いているのですか、。」
つい、そんな言葉が口をついて出た。
ジェイドはその哀れっぽい姿に心を動かされるほど安易でも同情心豊かでもなかったが、
何故か、そんな質問をしてみたくなった。
はゆるゆると首を横に振る。それは否定の身振りだ。
「…泣きかたがわからない。」
は低く静かに、そんなことを呟いたきり、また黙り込んだ。
その言葉自体がまるで涙のようだと、ジェイドは柄にも無くそんな事を考えていた。
それから数日間、は梔子の茂みの根元で毎日毎夜、膝を抱えてずっと踞って過ごした。
ピオニーを失う恐怖を思うと、悲鳴を上げてしまいそうな程に怖くて怖くて仕方が無かった。
胸が千切れてしまいそうで、目の前が真っ暗になってしまいそうで、
世界から光と云う光がすべて消えてなくなってしまいそうで。
怖くて怖くて、ピオニーが眠る部屋へ、こっそり様子を見に行く事さえ出来なかった。
何処にいるのかは分かっているし、今この瞬間も、まだピオニーはちゃんと生きて存在しているのも知っている。
きっと怪我が治ったら、またあのきらきらと金色の光の粒子を散りばめた様な笑顔を浮かべて、
、と、自分の名をさも大事そうに呼んでくれるに違いない。
それでも、は怖くて此処を動けなかったのだった。
それからまた数日経って、ジェイドが一度だけ、の様子を見に庭を訪れた。
其れがジェイドの自発的な行動だったのか、ピオニーに頼まれたからなのかは、には分からなかった。
「いつまでそうしているつもりです。鬱陶しいですよ。」
「…そうだな。」
「馬鹿ですか貴方。ならとっとと立ち上がったら如何です。」
「…。」
「…すっかり腑抜けになりましたねぇ。
もう結構。勝手になさい。」
うんざりして顔を顰めつつさっさと踵を返したのだが、
軍服の長い襟の先を不意にぐっと引っ張られ、ジェイドは仕方なく立ち止まる。
心底嫌そうな表情を隠しもせず不機嫌に振り返ったジェイドだったが、
恐ろしい程まっすぐ自分に突き刺さった、の透明な強い視線に、おや、と思う。
「あいつの、怪我は。」
真剣な顔をして端的に尋ねて来るを鼻で笑い、ジェイドは意地の悪い笑みを浮かべて見せた。
正直、その振る舞いは大層大人げなかったが、には其れを指摘するだけの判断力はなかった。
「あの人が多少の怪我程度でどうにかなるとでもお思いですか?
既に安静にする事に飽きて、暇だ何だと文句を云っていますよ。」
まったく仕方のない方です、と肩を竦めると、
襟を掴んでいたの手をさっさと振り払い、ジェイドは足早に庭を後にした。
今日はまだ仕事が残っている。
すっかり残業が確定してしまったジェイドは密やかに溜め息を吐いて、
夜の静寂に靴音を刻み、執務室へと向かうのだった。
(11.3.10)
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