Soiree -cinq-
ピオニーはその夜、久し振りに宮殿裏の小さな庭へと足を運んでいた。
気が急いてしまいそうになるのを堪えつつ人目を忍んで慎重に宮殿を抜け出し、
すっかり通い慣れた道を小走りに駆けて行く。
早くあの寂しがりやの少女に、ただいまを云ってやりたかった。
彼が最後に其処を訪れてから、実に半月近くが経ってしまっていた。
視察は何事も無く終わり、予定通りの日程で船はグランコクマ港に帰港した。
留守中、の話し相手を半ば無理矢理ジェイドに押し付けておいたのだが、
案外律儀な彼は一応仕事に差し障らない程度に、の様子を見に行ってくれたらしかった。
ただ、想定外だったのは、留守中に溜まった仕事がどうにも急を要するものばかりで、
その余波がジェイドにも及んでいた為に、ピオニーもジェイドも当分手が離せない状態になってしまったことだった。
しかし今日、それがやっと一段落ついた。
今までの頻度を思うと随分長い間ひとりぼっちにさせてしまったことになるを、彼はとても心配していたのだ。
ジェイド曰く、事情は伝えておきましたし、「あれ」もその辺りはわかっているでしょう、との事だったが。
ピオニーにしてみれば、ジェイドはその辺りを全然わかっていないのだ。
は寂しがりやで、しかも大層素直じゃない。
寂しかったか、と尋ねたって、決して本当の事を云おうとはしないだろう。
そんなことはない、とか、うるさいぞ、とか云ってばつが悪そうに顔を背けるに決まっている。
だから眼が離せなくて、放っておけないし、
そんな反応が面白いから少々意地の悪い事を云って怒らせてみたくもなる。
ピオニーは周囲に誰もいない事を確認してから、庭に足を踏み入れ、辺りを見回した。
白いざらざらした石畳と、其れを半分以上覆っているしっとり柔らかな苔の絨毯。
小さな四阿と、静かに佇む池。そしてその向こうにある、梔子の茂みを。
「…?」
まずは其の名を呼ぶ。
すると、まるで返事をするようにタイミングよく、頭にこつりと降ってきた、いつかと同じ小さな木の実。
「…また来たのか。人間。相変わらず酔狂なことだ。」
「お前こそまた会いにきてくれたのか、。相変わらずかわいいやつめ。」
いつかと同じように四阿の屋根の上に踞って、
しかし今はピオニーを見下ろしてくすぐったそうに小さく笑っているに、
彼もまた破顔しながら両腕を広げてみせた。
「ほら、拗ねてないで、受け止めてやるから其処からさっさと降りて来い。
覚悟しとけよ、。今日の俺は、お前への土産話には事欠かないぞ。」
「ばーか。」
そんな悪態をつきながら、彼女はピオニーに向かってひらりと飛び降りた。
ピオニーの腕の中に落ちてきたの温度のない身体は、まるで羽根のように軽くて手応えがなかった。
けれど、触れる事が出来る。
のあやふやな身体を確かめるように、己の手元に繋ぎ止めるように、
ぎゅうと思いっきり抱き締めて、ピオニーは満足げに微笑む。
「ただいま、!」
「…ああ、おかえり。」
はまた少し、笑うのが上手になったようだった。
土産話と称して散々一人で喋り倒したピオニーは、
もういい加減に帰れとに蹴飛ばされ、先程漸く庭を出て行った。
いつも此処へ来ていた時よりも随分と長居しておきながら、
渋々、本当に渋々といった態でのろのろと歩み去っていった。
そのピオニーの後ろ姿を見送って手を振りながら、は少し複雑な気持ちになる。
をたくさん構ってくれるのは嬉しい。
彼は心配して、甘やかして、からかって、きらきらと金色の光の粒を撒き散らすように笑いかけてくれる。
それは本当に嬉しいのだけれど、あんまりピオニーが此処に長く居過ぎると、は不安になって来るのだ。
あまりの傍に引き止め過ぎると、ピオニーが帰れなくなってしまうんじゃないか、と。
ピオニーは人間の中でも賢い部類の生き物だ。
自分の立場を良く理解しているふうであるし、基本的に無理はしない。
本当に踏み越えては行けない部分を、彼はちゃんと弁えている。
そんな彼であるから心配はいらないとは思うのだが、それでも、ピオニーを特別に思えば思う程、
自分のせいで何か取り返しのつかないことになってしまわないか、の不安は次々と湧き出して来るのだ。
ジェイドならのこんな不安を、きっと馬鹿にしたように鼻で笑って肩を竦めるのだろう。
そう想像すると、少しだけ腹が立つのと同時に、少しだけ気が楽になった。
ところで、久し振りにこの庭を訪れたピオニーは、に向かって、
お前に会うのも久し振りだな、と云ったものだが、実を云うとはそうでもなかった。
ピオニーにはこんなこと格好悪くてとても云えたものではないが、
もうグランコクマに帰ってきている筈の彼になかなか会えないのがどうにも落ち着かず、
我慢できずに何度かこっそりと、宮殿に居るピオニーの姿を見に行ったことがあったのだ。
はどちらかと云うと夜の眷属に類する存在であった。
なので、昼間も動けることには動けるのだが、存在するための力がさほど働かないらしく、夜程はっきりと姿を保てない。
はそれを利用して、極力姿も気配も忍ばせながら、
忙しく働いている昼間のピオニーの様子を影からこっそりと伺ってみたのだ。
あんまりこそこそと盗み見ているような真似をするのは、気持ちのよいものでは無い。
だからは、ちょっと様子を見て安心すると、すぐにその場を立ち去った。
しかしながら、夜の庭で自分と話をする時の始終楽しそうな様子とは違う、
真面目に人間の国の王様をしているピオニーの顔を初めて見た時、
は、ちょっと言葉には云い表せないくらいに驚いたものだ。
随分と失礼な話ではあったが、それもピオニーの自業自得とも云えよう。
オンオフの切り替えが上手いのはいいが、彼の場合、その落差が激しすぎるのだ。
あのジェイドでさえピオニーに勝てないのは、なんとも自明の事ではないだろうかとは思った。
そう、ピオニーには全然適わないのだ。
ジェイドも、そしても。
はますますピオニーが特別になってしまって、「嫌いじゃない」が、
何時の間にかとても大きな「好き」になってしまっていた。
温度の概念が無いはずなのに、頭を撫でてくるピオニーの手が、
知らない筈の温もりを宿している様な気がして、たまらない気持ちになる。
先程四阿の屋根から飛び降りたを受け止めてくれたときなど、
痛いくらいぎゅうと抱き締められて、何だか目の前が滲んでしまいそうだった。
ピオニー、と、思わず名前を呼んでしまいそうになった。
決して呼べない、呼んではいけないと必死に自分を戒めてきたなのに、戒めが緩んでしまいそうになった。
そんな自分に気付いて、は密かに愕然としていた。
あまりのやさしい絶望に、苦しくて消えてしまいたくなる。
でも今となっては、ピオニーから離れる事など、もう、考えられなくなっていたのだ。
(11.3.10)
SEO | [PR] !uO z[y[WJ Cu | ||