狗の正義
『一年。君に与える時間は一年だけだ。』
東方司令部の白い建物が家並みの向こうに見えて来た頃、私は少し足を止めて、
一年前に云われた言葉が耳の中をかすかに反響して行くのを感じていた。
『一年で使い物にならなければ君は檻の中に戻されるだろう。』
其の譲歩がますます自分の立場を危うくするものであるだろうに、何食わぬ顔で感情を隠し、
私の憎しみを得ようと冷笑さえ取り繕う其の姿は、今思えばどう見てもお人好しにしか見えなかった。
はためく軍旗の元にあるのは、相変わらず善悪を飲み下す仮初めの正義でしかない。
其れが私のかつて所属した反軍組織と実質ほとんど変わらないものであったとしても、
私は今はもう自分の決めた事に迷いは無かった。
死ならとうに覚悟した。
一年前、いや、それよりももっとずっと前から。
あと私に必要なのは、生きる覚悟と守る覚悟だけだ。
此の一年間、私はひたすら来る日も来る日も軍人としての教育を受けて過ごした。
マスタング大佐は私が飼い狗になる事を受け入れた直後、私を一人の老人の屋敷に連れて行った。
老人は小柄で温和そうな人物ではあったが何とも気配に隙が無く、
その異様な威圧感が、此の男がただの老人でない事をすぐに気付かせた。
聞けば彼は元士官学校教官で、其の前は国軍少将を勤めていたのだと云う。
其れ以来、私は大佐が与えた一年と云う時間の全てを使って、教官の屋敷に居候して生活しながら訓練を受けた。
最初は上官に対する態度の徹底指導、此の国の歴史や世界情勢、軍規、戦術、戦略の勉強、
それと平行して射撃等の訓練の基礎を徹底的に叩き込まれた。
余分な時間は少しもなく、眠ったり食事をしたりする以外は全てが教育の一言に尽きる。
教官は普通にしていれば温厚な人柄で、私の生い立ちに関しても触れず、
保護者としてよく接してくれたが、訓練となると別人のように厳しかった。
そうして一年の教育期間を終え、私は何とか教官から合格を貰った。
数日後、私に大総統紋章の入った封書が届き、一体誰がどうやって手を回したのかは解らないが、本日付けで東方司令部勤務を言い渡された。
此の封書が届いたという事は、マスタング大佐と交わしたあの誓約が成立した事を意味するのだろうと思い、少し複雑な思いがした。
手にした鞄の中に収められた配属命令書がどくりどくりと脈打っているように感じられて、鞄を握る手に少し力を込める。
私は私の正義を選ぶ。其の事に何の躊躇もするまい。
そして、私は憎まない。
大きく息を吐いて、しかと前を見て私はまた歩き出した。
あの白い建物はもうすぐ其処だ。
「本日付けで東方司令部に配属されました、・伍長であります。
宜しくお願い致します。」
教官に身に染みる程教え込まれた通りの綺麗な敬礼をして見せながら、
私は今マスタング大佐の前に再び立っていた。
一年前と違うのは、私が青い軍服を来て大佐に敬礼を向けている事だろう。
自分がこうして此の青を身に纏う事になるとは、全く考えもしなかった。
真新しいにおいとよそよそしい軍服の着心地には慣れないながら、
私は自分の「正義」を今一度思い出して背筋を伸ばした。
配属命令書に視線を落としながら、マスタング大佐は表情の無い涼しい顔をしていた。
その奥で何を考えているのか等、私には想像も付かなかったが、
相変わらずこの人はあの時からもきっと何一つ揺るがないのだろう。
「…さすが教官だな。
実践訓練もさることながら、敬礼迄きっちり叩き込まれたようだね。」
皮肉っぽく云ってみせた大佐に、私は生真面目にハイと軍人らしい返事を返してみせた。
返事は短くはっきりと。質問にのみ簡潔明瞭に答え、口答えしない。
上官に対する態度の基本として教官からはそう教わった。
同い年の者に比べて少し身体も小さく、容姿や年齢からしても自分でもとても軍人らしくないなと思う程だったので、
こういう振る舞いが私にとても似合わない事は解っていたが、そうせよと厳しく教えられたのだから仕方が無い。
そんな私の内心を他所に、大佐は似合わぬ私の有り様に堪えきれぬと云った様相で、噛み殺すようにくつくつと笑っていた。
少し恥じ入ったが、厭な気はしなかった。
何より、この人が笑った顔を見るのが、私は好きだったからだ。
顔が緩まないようにきゅっと口元に力を入れてしっかりとした表情を作る。
此処で緩ませてしまったら、私が一年前に、私の全身全霊を掛けてついた嘘が水の泡だ。
ふいに、背後の扉からノック音が聞こえ、大佐が入室するよう声を掛けると、入って来たのはあの金色の髪の女性軍人だった。
私は彼女の名前も階級も知らなかったが、私の任命された伍長と云う階級は下士官の中でも一番低い階級だ。
司令部に居る軍人が私より下の階級であることはまず無いだろうから、とりあえず私は彼女にも敬礼をした。
彼女は少し面食らった顔をして私を見たが僅かに苦笑いと共に軽く敬礼を返してくれた。
…此処は敬礼する所ではなかったのだろうか?
優秀な教官に高度な教育は施されたが、何分私は一人だったので、
士官学校のように他の人間達と共に当然学ぶべき常識や暗黙の了解と云った知識が欠如している自覚はあった。
ただでさえ育って来た環境が特殊だった為、私は随分と空気の読めない人間なのかもしれないと少し不安になった。
まだ少し笑いを含みながら大佐が彼女に私を紹介した。
「中尉、知っての通り、彼女は本日付けで此処に配属になった・伍長だ。
…まぁ、あれだ、ちょっと教官が教育に力を入れ過ぎたらしくてね…。まぁおいおい慣れてくるだろう。
伍長、彼女は私の補佐官を勤めているリザ・ホークアイ中尉だ。
銃の腕前はかなりのものだから、今後指導を求めるなら中尉に教わるといい。」
「はい。
初めまして、・です。
未熟者故、至らないところも多々有るかと思いますが、以後ご指導の程、宜しくお願い致します。」
ホークアイ中尉に改めて挨拶をすると、彼女も凛とした表情で挨拶を返してくれた。
彼女が私を見下ろす眼は、どことなく複雑そうな色をしているように見えた。
彼女は大佐の忠実な副官らしかったので、多分一年前の私の事を思ってどう接すべきか戸惑いもあるのだろうと思う。
其れも無理の無い事なので、まぁ、大佐の云う通り、おいおい私という異物の存在にも馴れて貰えれば良いなと思った。
「では中尉、慣れる迄は当分伍長の指導の方を頼む。
司令室へ連れて行き、仕事を教えてやってくれ。」
「了解しました。」
ホークアイ中尉に促されて、司令官室を退室しようとした時、ふいに大佐が思い出したように私に声を掛けた。
「ああ、そうだ、伍長。」
「…はい、何でしょうか。」
「ようこそ、東方司令部へ。」
にやりと不敵な笑みを浮かべて云う大佐に、私は必死で無表情を取り繕いながら、静かに頭を垂れた。
私は首輪を無理矢理付けられた訳ではない。こうして、自ら手綱を彼に差し出したのだ。
私の身の内に確かに宿る、「正義」と名付けた物の為に。
(08.10.3)
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