私の目の前にいるのはやさしい、やさしすぎた鬼だった。

拾ったものひとつ捨てる事も出来ずに、既に重いものを抱えた肩に抱えるものが増えるのは辛かろうに、

それでも捨てる事など考えもしないと云う顔をしている。

ああ、これはやさしい鬼だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やさしい鬼

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あの日の事は一生忘れられないと私は未だによくそう思う。

眼を閉じれば埃っぽいアジトの空気と硝煙や鉄の香り、銃声と怒号と軍靴の足音がフラッシュバックする。

眼を閉じるだけで私の意識はいつでもあの戦場に呼び戻されるのだ。

 

私を拾ってくれた反軍組織の最後の抵抗。

最初から解りきった負け戦に私達は皆死ぬ為に向かって行った。

親代わりのリーダーは自害し、仲間達はほとんど皆殺しだった。

 

待機していた部屋に軍人達が踏み込んで来た時には既に決まっていた覚悟をもって、

私もこめかみに銃口を向けたが、引金を引いた瞬間、踏み込んで来た軍人の内の一人に銃を撃たれて弾き飛ばされ、

一発きり込めた終幕の弾丸は呆気無く虚空を切り裂くばかりで、私を「むこう」へ連れて行ってはくれなかった。

 

私は一瞬で軍人達に取り押さえられ、彼らによって望んでいたのとは違う場所へと引き立てられて行く。

彼らは既に抵抗する事も出来ず呆然と無表情の頬に涙をただ流し続ける私に後ろ手に手錠を掛け、

更に身体を縄でぐるぐると縛り付けてから、私を車に押し込んだ。

 

荒く糾われた縄は手早く力任せに私を縛り付けたので、少し身動きするだけでぎりぎりと服ごと肌を締め付け、

ぼろぼろの服の袖に僅かに赤黒いものが滲んでいた。

鉄の匂いはしなかった。もう鼻が麻痺していて銃の匂いか血の匂いかもわからない。

 

痛みも感じる事は感じていたが、今は其れよりも、

ただひたすらに呆然として何も考えられなくて、俯いて自分の汚れた膝を見下ろしていた。

地面の黒っぽい液体の染み込んだ痕跡に渇いた砂埃が風に巻き上げられて覆いかぶさる。

 

車へと引き摺られてくる途中にはごろごろと人間の形をしたものが不自然な形で倒れていた。

黒いのもたまにいたが、青いのの方が多かった。

そして、青いのよりもっとずっと多かったのは、見知った私の「家族」達だった。

 

フィデール、リナルド、レオンハルト、マシュー、オリバー、アンソニー、ギルバート。

姿を見ただけですぐに名前が解る。大事な仲間、家族、親であり兄弟であり師であった。

皆居なくなってしまった。

皆私を置いて逝ってしまった。

私だけがこんなにも罪悪にまみれて血泥の河を引き立てられて行く。

 

何故死ねなかったのだろう。

何故こんなことになってしまったのだろう。

私は、ただ、だいすきなひとたちと一緒にいたかっただけなのに。

 

車はがたがたと乱暴に車体を揺すりながら何処かを目指して走り行く。

いつの間にか私の押し込まれた後部座席の隣には一人の軍人が腕を組んでじっと押し黙ったまま座っていた。

俯いたままで身動きも出来なかったので顔は見ていないが、片腕だけに感じる人間の温度の気配から、

隣に居るのがマスタング大佐だと殆ど確信した。

 

あの公園で二度会った事があるだけのひとだが、それでもその温度の気配は間違えようも無かった。

私の頭を撫でたかなしいくらいやさしいあの手を思い出して、私はどうしようもなく死にたくなった。

もう二度とあの手は私に触れないだろう。

もう二度とあの顔は私に微笑まないだろう。

私がこの人の「敵」だと云う事が知られてしまったのだから。

 

私が絶望の深みに飲まれている内に車は止まり、いつの間にか私は車から引きずり出されていた。

私の使っていたものよりもうんと上等で精度の高いライフルを肩に掛けた門番の側を通り、白い大きな建物に連れ込まれる。

建物の中でもより薄暗い方へと引き摺られ、灰色の部屋に押し込まれた。

 

簡素なベッドとトイレと洗面台が備え付けられているだけの何も無いコンクリートの部屋だった。

硬いベッドに転がされて、縄が解かれた。

銃を突きつけられて身動きできないように押さえつけられたまま、手錠は後ろ手から前に付け替えられた。

私を十分に警戒した様子の気配はさっと部屋を出て、覗き窓の付いた重苦しい鉄の扉が閉じられる。

かろうじて天井近くにある小さな格子窓から光が零れていた。

 

格子で細切れになった小さい空を見上げながら、縄は解かれたのにベッドに転がされたまま身じろぐ事も出来なくて、

耳の中に響くノイズといまだ胸腔に反響している銃声の震えにばかり意識をとられていた。

 

大事な家族を、私は二度も失った。

一度目は戦火で、二度目は軍に。

いや、どちらも軍のせいだと云っても相違なかった。

 

けれど私は全てを踏みにじる軍人の恐ろしいイメージと同時に、

私に向かって子供のようににこにこと微笑んだロイ・マスタングを思い出してしまう。

私に惜しみなく愛情を注いでくれた笑顔の仲間達の姿も、

恐ろしい形相で軍人を撃ち殺そうとする彼らの姿に重なって行く。

重なるけれど重ならない認識のズレが私を苛み、

絶望なのか憎悪なのか諦観なのか恭順なのか、自らの気持ちの向かう先がわからない。

 

一体私は今迄何を憎み、何を愛し、何に涙して来たのだったか。

何が正義で何が悪なのか。

ああも人間同士が殺し合わねばならぬほどの大切なものとは一体なんだったんだろう。

 

 

いつの間にか私は眠りに落ちていて、ふと気付いた時には格子窓からさらさらと銀色に零れる月光の片鱗が見えた。

目覚めてからもどこか虚をさまよっているようで意識がぼんやりとする。

相変わらず身動き一つ出来ずに、眠りに落ちた時から体勢も位置も何一つ変わらぬまま硬いベッドの上に踞っていた。

 

私はまるで亡霊のようではないか。

もしかしたら、両親が死んだ時に本当は私も一緒に死んでいたのではないかと思えた。

自分がゴーストになった事にも気付かぬまま仲間達と一緒に過ごす夢をみていたのではないか。

終わらない死後の夢を。

 

(…そうであれば、どれだけすくわれただろうか…。)

 

渇いた涙の跡が目元の皮膚を引き攣らせた。もう涙も出ない。

どのくらい時間が経ったのかは解らないが、おそらくは数時間ぶりに身体を動かすと、

古びた自動人形のようにぎしぎしと骨や関節や筋肉がひどく軋んで痛む。

縄にこすれて腕から滲んだ血が皮膚と袖を癒着させていたので、

腕を動かせば固まった血が皮膚からはがれるような感触と痛みに思わず顔を歪めた。

 

酷く頭痛がして頭から血の気が引いて行く。

脚に力が入らず立てそうに無かったので、膝を付いてずるずると這うように洗面台に行き、しんと冷たい水で顔を洗った。

濡れた顔もそのままに洗面台の側に座り込み、壁に凭れて自分の身体を見下ろした。

 

鈍い銀色の手錠が擦れて手首が少し赤くなっている。

袖は汚れたりほつれたりしてぼろぼろで、所々血痕が滲んでいる。

顎を伝って雫がぽたりぽたりと落ちた。

 

正義とは何だったのだろう、と私はふと考えた。

私達の仲間にとっての正義は軍を打倒して平和を手に入れることだったはずだ。

では軍の正義とはなんだっただろう。

恐らく其れは、私達のような武力組織を鎮圧して国の秩序と平和を維持する事、なのかもしれない。

 

私は生い立ち故、当然学校には行けなかったので、

仲間に教えてもらって読み書きと簡単な計算がなんとか出来る程度だ、難しい事はよくは解らない。

けれど自分のやってきたことが正義ではなくただの人殺しだったと気付いてからは、

世界について、いろいろな事を考えるようになった。

 

わからないことばかりで、どうすればいいのかもわからない。

でも、仲間が軍人や民間人やたくさんの人を殺した事は事実だ。そして軍が私の家族を二度も奪った事も事実。

仲間にも軍人達にも、自分達にとっての正義がちゃんとあったことも本当で、

どちらも正しかったし、どちらも間違っていたことも本当のことだった。

 

そして、私が、どちらが殺すのも殺されるのも厭で、

みんなが幸せになればいいと願ったのも本当のことだ。

 

世界にはたくさんの人間がいて、人の数だけ正義があって、

人の数だけ悪があって、人の数だけ平和があって、人の数だけ憎悪がある。

それら全てが誰にだって否定することはできないし、誰にだって肯定できるものでもなかったのだ。

自分を否定し、自分を肯定する事が出来るのは、世界でたった一人、ただ自分だけなのだ。

ならば私にとっての正義とは、一体何だろう。

其の答えを知っているのは、私だけだ。

 

( 『ああ、そうだね、大事な人はたくさんいるよ。君は?』 )

 

あの時、私が問い返されたそれになんて答えたのか、正直な所よく覚えていなかった。

でも、大事な人、と云ったマスタング大佐の顔は、ずるいくらい優しくて、力強かった。

 

ふいに、何処かから足音の反響が聴こえた。

次第にこちらに近付いて来た足音は、扉の前でぴたりと止まり、

金属同士のぶつかる軽い音がして、扉の錠が外された。

蝶番が軋む音と共に二人の軍人が現れ、私を見下ろした。

格子窓の外は、いつのまにか金色の朝日が青空を刷いていた。

 

 

 

銃を油断なく手にした軍人の一人が私の後ろを歩き、一人が手錠に繋いだ鎖を持って斜め前を歩いた。

事情聴取等の為一時的に犯罪者を拘留しておく為の場所らしいあの灰色の留置室から連れ出された私は、

きちんとした取り調べを受ける為の部屋に移動させられているようだ。

 

どんな酷い事をされても仕方が無い状況である事くらい流石に理解していたし、留置室に居たときから覚悟はしていたが、

やはりいざ目の前にそれが迫っているのを知るととても怖くて手が震え、足取りが怯えに覚束無くなる。

何度か脚が絡まって転びそうになったが、其の度に前後を歩く軍人が私の腕を掴んでしっかり立たせ、また歩き出す。

 

其の腕を掴んだ手の荒っぽさも私の得体の知れない恐怖を増大させるばかりで、

私はどんどん身体が冷たくなっていくのを感じていた。

けれど実際の所、私を連れてゆく二人の軍人は警戒を緩めず厳しい表情をしてはいたが、

私を憐れむような何とも云えない色をかすかにその眼に称えていたのを、

ずっと俯いていた為に私は気付かなかった。

 

やがて辿り着いた廊下の突き当たりの部屋の前で立ち止まり、中に連れられた。

机と二脚の椅子と鏡が一枚壁に嵌め込まれている簡素な取調室だった。

窓も無く、憂鬱な明るさを撒き散らす蛍光灯がジジ、と小さく鳴いた。

 

取調室どころか軍の施設に入る事自体初めてだったが、

仲間には元軍人や前科者もいたので、いくらかこういった取調についての話は聞いた事があった。

厳つい軍人に自白を強要され怒鳴られたり、襟首を掴まれたりとか、

そんな恐ろしい話をおもしろ可笑しく語ってくれた事を思い出して、

其の時は大袈裟に身振り手振りを交える仲間の顔を見ながら皆と笑って聞く事が出来たけれど、

当事者になった今、私はますます顔を強張らせた。

 

手錠を繋いでいた鎖を外され、椅子に座って待つように無感情な声で指示を受けた。

逆らう術も理由も無く、私は黙って小さく頷き、恐る恐る椅子に座り、

身体を出来るだけ縮こまらせて取り調べの担当者が来るのを待った。

 

不安だった。自分がどうにかされる事に対してもだが、取り調べられ、

何かを自白するように云われたとしても、私は何も情報と呼べるような知識を持っていない。

作戦会議には加わっていたが、難しい事はあまりよくわからなかったし、

私が作戦の実行以外にしてきたことと云えば、銃を始めとする武器の扱いや、

読み書きや簡単な戦術の勉強、軽い体術くらいだ。

自分の身に付けるものに精一杯で、どう足掻いても子供でしかない未熟さ。

仲間達の足手纏いにならない為に努力する事が私の仕事の全てだった。

 

そんな不安を他所に、暫くして入室して来た取調官は、金色の髪をした、凛々しい女性軍人だった。

屈強な男を想像していただけに、厳格そうな人ではあったが、女性であるだけでもまだ少し安心できた。

尋問内容の方も、殆ど確認の為のものらしく、仲間の名前やアジトの場所など、

おそらくは既に調べが付いているだろう事を訊かれただけだった。

 

難しい質問も幾らかあったが、恐る恐る正直にわかりませんと答えると、

それ以上追求されたり脅されたりする事は無かった。

一応テロリストとは云え、私がまだ成人に満たない子供である事を考慮したせいでもあったのかもしれない。

機械的な遣り取りを終え、あっさりと女性軍人は取調室を辞した。

そして私はまた来たときと同じようにして留置室に戻された。

 

部屋に入ると、簡単な食事を載せたトレーが扉の下部に穿たれたスライド式の小窓から差し出されたが、

到底食べ物が喉を通ってくれそうにも無かったし、空腹のはずの胃は食事を拒否するように無感覚だった。

硬いベッドの隅っこに身体を寄せて踞り、ひたすら考え事をしながら胸元に寄せた膝に顔を埋めていた。

 

仲間の事、軍の事、正義の事、悪の事、銃の扱い方、ナイフの使い方、それらを教えてくれた仲間達の声、

顔も忘れてしまった実の両親や友人、赤い花の刺繍のハンカチ、きらきら光る噴水の水飛沫、私の頭を撫でた手、

爆風と焔、無数の死体、内乱で焼け野原になってしまった故郷、一発の銃声、おとぎ話、手錠、汚れた掌。

 

これから私はどうなるのだろう。刑務所へ送られるか、死刑か。其のどちらかだろう。

子供と呼ぶには分別くらいついている年齢にはなっているし、何より私は殺し過ぎた。

私に誰かの幸せを願う資格が無い事なんて、ずっと気付いていた。

こんな風になった今でも、マスタング大佐を憎む事ができない自分にも。

 

私は何も出来ない。

だから私は赦そう。

人間をたくさん殺した仲間を。

家族も仲間も奪った軍を。

私や仲間を恨み憎む全ての人を。

 

…私以外の全てのひとを赦す。

償う事も出来ない程の罪を持て余す代わりに。

 

そう考えると私は少し安堵して、膝を抱えたまま深く眠りについた。

閉じた眦から小さく雫が零れた。

 

 

 

 

 

 

どのくらい時間が流れたか解らないが、小さな格子窓から青空と夜空を2回程見た頃、再び扉の錠が外される音が聞こえた。

身体を丸めていたベッドの隅から緩慢な動作で起き上がると、

また以前と同じように手錠に鎖を繋がれ、何処かに連れて行かれた。

食事は水以外殆ど口に出来ずに居た為、前回よりも足元が覚束無い。

繋がれた鎖は殆ど意味を為さないまま、両側から腕を掴まれて支えられ、殆ど引き摺られるようにして歩いた。

 

何処を歩いたかは覚えていないが、何となく以前連れて行かれた取調室とは別の部屋に向かっているようだ。

取調室も留置室も、司令部の建物の中でもあまり人の寄り付かない隅に位置していたが、

今日はだんだんと廊下を歩く人が増えて行く方向に向かっているように思えた。

廊下を忙しなく行き来する軍人達の、好奇の視線やら苦々しい視線やらにとても居心地の悪い思いで唇を噛んで俯いていた。

 

やがて木製の重厚な両開きの扉の前に連れてこられた。

華美な装飾がある訳でも無い簡素なものではあったが、

通りかかったどの扉よりも立派な造りをしているように見えた。

誰か偉い人の部屋なのだろうか。

 

ぼぅっと扉を見るとも無く見ていると、ふいに開かれた其の部屋の中に連れられる。

部屋の奥に人の気配を感じてゆるゆると顔を上げると、

正面に位置する大きな窓からの眩い逆光に眼を灼かれ、思わず眼を細める。

徐々に明るさに馴れて来た視界に少しずつ眼を開けば、

黒いシルエットの人物は大きな机の向こうで黒い革張りの椅子に座ってこちらをじっと見つめていた。

眼が慣れきったところに視界に入った其の人物を見て、私は思わず眼を見開いた。

 

(…ロイ・マスタングだ…)

 

身体が強張り、床に縫い付けられてしまったように脚が動かなくなる。

呆然と動きを止めてしまった私に気付いた両隣の軍人達は、大佐に視線だけで促されて、

私をひょいと軽々持ち上げると大きな机の前にぽつりと置かれた黒いソファに座らせた。

あんまりにもあんまりな扱いではあったが、力の入らない手足ではどうすることでもきず、

人形のようにされるがままでいるしかなかった。

 

まだ頭が働かず眼を見開いてマスタング大佐を凝視していると、後ろで扉の閉まる音がした。

私を連れて来た二人の軍人が退室したようだった。

 

「…全く、してやられたよ。」

 

尊大な態度のまま、無表情にマスタング大佐は口をおもむろに開いた。

其の言葉の意味はすぐにはよくわからなかった。

 

「公園で偶然出会ったお嬢さんが、テロリストの一味だったとはさすがの私も驚いたものさ。

 君はそんな私を見てさぞ嘲笑っていたものだろうね?」

 

違う、と叫びだしたくて肺が悲鳴を上げていたけれど、凍り付いたように身体も唇も舌も動かせなかった。

胸が痛くて痛くて堪らない。涙が出そうだ、と思ったけれど、死んでも泣くものか、とも思った。

泣くのは卑怯だし、其れをしたら最後、対等でなくなってしまう。

 

「さて、。君の処遇だがね、ほぼ決まっているよ。

 君は未だ子供ではあるが、それなりに『手柄』を挙げて来たテロリストを黙って放してやる程、軍部は甘い所ではないのだよ。

 これから裁判にて審議を行い、相応の罪の償い方をしてもらうことになるだろう。死罪の可能性もゼロでは無い。

 それはもちろん、君も承知の事だろうとは思うがね。」

 

貼り付けたような冷淡な態度ですらすらと無感情に告げられて行く情報を頭がなかなか処理できずに居る。

公園でのあの時のような表情を見る事はもう無いとはわかっていたが、それでも辛かった。

この人を憎めたら楽になれるだろうに、それでも不思議と憎しみの感情を心に造り出せなくて、かなしさと諦観だけが深々と嵩を増す。

どうしてかは解らない、けれど、私にはこの人を、ロイ・マスタングを憎む事がどうしてもできないのだ。

 

暫しの沈黙の間、私はただ黙ってマスタング大佐を見つめていた。

故意に表情を隠したような様子で感情を排した黒眼は、

私の視線とは交わらずに大佐の手元に黙って落とされている。

先程から視線が一切合わせられていない事に気付いた。

 

「…だが、惜しくもあるのだよ。」

 

ふいに沈黙を破った硬い声は、先程より幾分覇気が無いように思えた。

ほんの些細な違いだったので、私の思い過ごしかもしれない。

 

「まだ荒削りではあるが、君の狙撃手としての腕はなかなかのものだ。

 鎮圧の際、我が軍も少々手子摺る事があったのも否めない。

 最も、あの程度では到底我々に楯突けるレベルでは無いがな。

 まぁ、そこでだ、君にとっても悪くない話がひとつあってね。」

 

彼は云ったん言葉を切り、指を組んだ手はそのままに、机に肘を付いて口元を隠した。

机の傍らから、大佐、と小さく諌めるような声がした。

其処で初めて、私は此の部屋にもう一人の人間が居た事に気付いた。

傍らで背筋を伸ばして立っているのは、私の取り調べを行った、あの女性軍人だった。

彼女は眉を少し顰めて大佐に視線をやったが、大佐は其れを敢えて黙殺したようだった。

 

「君がこちらに絶対の忠誠を誓い、其の腕を振るう事を約する事が出来るならば、

 また今後の君の有り様も変わってくると、そうは思わないかね?」

 

何を云っているのかわからなかった。否、解るような気もするのだが、とても頭が其の解答に追いついて行かない。

からからに渇いた喉が貼り付くのを何とか解きながら、暫く黙った後に、私は掠れた小さな声で呆然と問い返した。

 

「…どういう、意味、ですか。」

 

「おや、私の云っている事が解らなかったのかね?」

 

態とらしく片方の眉を器用に上げてみせ、私を侮るように云う。

そう云う言動の一つ一つに何処か違和感を感じたが、此の時の私に其の違和感の存在を追求するだけの余裕は無かった。

もしその余裕が有れば、きっとマスタング大佐が此の時、

無理矢理に冷淡さを作り上げ私を逆撫でしようとしていた事に此の時点で気付いたはずだ。

 

「…私は、あまり、頭は良くないんです。」

 

「ああ、其れは済まなかったな。

 では単刀直入にこう云おう。

 刑務所送りにされたくなければ、私の忠実な飼い狗になりたまえ。

 君の仲間を皆殺しにした私の命令に絶対服従し、君を拘束したこの私に膝を折って頭を垂れろ。

 そうすれば君を助けてやろうと、私はそう云っているのだよ。

 今度は、私の言葉はきちんと理解できたかね?」

 

不自然なくらい自然な冷笑を浮かべて、色の無い眼を細めて私を見下ろす大佐に、

私はただどう答えていいのか、どう考えていいのか解らず、眼を見開いたまま固まった。

そして、此処で漸く私はマスタング大佐の取り繕う違和感の根源に気付いたのだった。

其れは隣に黙って控えている彼女のきゅっと引き結ばれた口元と、何かを押し殺すように硬く閉じられた眼を見ても明らかだった。

 

(…やさしい鬼だ…。)

 

声にこそ出さなかったが、心の中で私はそんな言葉を呟いていた。

真実何を考えての事かは想像するしか無いが、それでも明らかなのは、彼は私に憎まれたがっている事だった。

そしておそらくは、遠回しに私を助けようとしているのかもしれなかった。

 

私の償えぬ程の罪を知りながら、それでも自分で自分を殺そうとした私を見てあんな表情をした。

安易に助けるだけでなくそれをしたたかにも自分の為に利用する事に繋げ、自ら私の恨みや憎しみを買おうとする。

目の前で取り繕った冷笑を貼り付けているのは、捨てる事など考えもしないで全てを引き受けようとする、やさしい鬼だった。

 

留置室の硬いベッドの上で私はずっと考えていた。

私が選ぶ私にとっての「正義」について。

其の答えはもう目の前にちゃんと出ていたのだ。

 

「………誓います。」

 

マスタング大佐ほど、私は演技が上手ではないけれど。

持ちうる限りの精一杯の虚勢で私は頑張って強く睨むような眼をして大佐を見据えた。

人を睨んだ事なんてそうそう無い。

ちゃんと上手に睨めているだろうか、なんて考えながら、マスタング大佐が望むままに振る舞おうと思った。

やさしい鬼の、面を剥がないように。

 

「信じている神様がいないので、私の命に、誓います。」

 

強い視線を向けたまま、私は座ったまま頭を下げた。

マスタング大佐は皮肉っぽい顔で自嘲にも見える笑い方をした。

 

 

私を此処へ連れて来た二人の軍人が再び呼ばれ、私は腕を支えられながらふらふらと扉に向かって歩いて行った。

出て行く直前、私は立ち止まり、もう一度厳しい表情を作って大佐を振り返り、其の眼を真直ぐ見つめた。

 

「私は、貴方を憎みます。」

 

そんな、嘘をついた。

逆光でマスタング大佐がどういう顔をしたのかは見えなかったが、

きっと何とも云えないようなあの皮肉な笑みを浮かべていたのだろうと思った。

 

自分のやさしさで自分に傷を刻もうとする彼に、けれどいつか、私の本当の気持ちを伝えようと思う。

あなたを嫌いになった事なんて、本当は一度も無いんだよ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

next.

 

(08.10.3)

 

 

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