10
あれからマスタング大佐とホークアイ中尉はすぐに此の家を出て行き、
見送りに出た少尉が部屋に戻ってくる頃には、車の遠ざかって行く音は既に聞こえなくなっていた。
先程話し合いをしていたリヴィングの扉を開けて戻って来た少尉が、また呆れたようなからかうような口調で私に呼び掛けた。
「おーい、ちゃん、生きてるかー?」
「…ぎりぎり。」
大佐達が玄関扉から出て行った途端に、私は一気に緊張の糸と眠気を押さえる力が尽きて立ち上がる事も出来ずにそのまま机に突っ伏していた。
瞼が重い。眼を閉じてもまだ瞼の裏で光が点滅しているようだ。
「お前ほんと面白いよな、見てて飽きないわ。」
こっちはいつだって冷や汗が出るくらい全力を出し尽くしていると云うのに、何とも暢気なひとだ。
恨めしげに見遣る気力も無くて、今はただ眠気と疲労で身体が重くて仕方が無かった。
徹夜なのは少尉も同じであるはずだが、精神の消耗具合もだがそもそも体力が違うのだろう。
それでも何とか気力を振り絞って立ち上がる。
「あの、取り敢えず先に仕事場に電話をしておきたいんですけど。」
「ああ、其の方がいいだろうな。」
あっさり許可が出たので、まずは仕事場に電話を掛け、雇い主に暫く出られない事情が出来たと伝え、謝罪する。
大佐は、話し合いは数日中に行うとは云っていたが、向こうとしても慎重に進めなければならない類いの話だろう。
司令部の多忙も含め、そう簡単にこの一連の事に決着が着くとは思えなかった。
そして何より情報提供したら其れで終わりとなるとは思えない、
少なくとも軍がその情報によってそれなりの成果を挙げる迄は私は身動きが取れないと考えた方が良さそうだ。
少し考えた後、いつ出られるようになるか分からないので、解雇と云う形にしてくれて構わないと伝えた。
しかしながら雇い主は、私が随分長く勤めてきたのを考慮してくれたのか、
取り敢えず休職と云う扱いにしておくから暫く様子を見てはどうかと提案してくれた。
いい雇い主に恵まれたなと小さく微笑みながら、有り難く其の提案に従わせてもらった。
私はいつも人に恵まれている。
受話器を置くと、思わず溜め息が出た。
「あちらさん、何だって?」
「当分休職扱いにしてくれるそうです。」
ふーん、ま、これで一個心配事が減ったな?と、少尉は少しだるそうににやっと笑った。
嗚呼、全くだ!と思ったが、そう口にすると八つ当たりのニュアンスが強く含まれてしまいそうになるので自重することにする。
呆れたりからかったり笑われたりと、出会った当初に比べてたった数時間で随分とハボック少尉は私に気安く接してくれるようになった。
彼自身がどういう意図を持ってした振る舞いかは知る由も無いが、私にとっては其の態度がとても有り難い事に代わりは無い。
得体の知れない、取り締まるべき対象であるはずの私に猶予を与え、司令官殿を引き合わせてくれて、
更に交渉の余地を与えてもらえた此の現状は、破格の待遇である事は軍の事情に疎い私にも痛い程分かっていた。
「ハボック少尉」
「うん?」
「ありがとうございます。」
心底感謝すれば、自然と頭が下がるものだ。
私はあまりに簡単な一つの言葉しか持ち合わせていないが、其れでも一言に全てを込めて、頭を垂れた。
取り敢えず、暖かい紅茶を二杯、入れよう。そんな事を考えた。
大佐に残るよう命じられたハボック少尉と取り敢えず暖かい紅茶を飲んで一息入れた頃、
ようやく司令部から交代の監視役が二人やって来て、其れと入れ代わりで少尉は司令部に帰って行った。
彼には昨夜からずっと休憩も出来ず終いで何だか申し訳無い事をしたな、と思ったが、
彼は疲れた様子など全く見せず最後迄飄々とした雰囲気を崩さなかった。
そうしてやって来た青い軍服をきた二人の新しい監視員達に、宜しくお願いします、と会釈をすると、
戸惑ったような顔をされて逆にこちらが戸惑った。
(普通自分を監視する人間に挨拶なんてしないものなのかな…。監視なんかされるの初めてだからわからないや。)
出入り口は玄関扉一つなのだが、念の為裏手にある窓の辺りにも見張りをつけるという事、
外に出る事はなるべく控え、どうしても必要であれば彼等が同行する事、等といくらか説明を受け、
大人しく了承の旨を伝えて私は室内に戻った。
太陽も漸くはっきりと昇り始め、雪も止んだとは云え、まだ寒さの厳しい二月初旬の事だ、
幾ら防寒着を着込んでいても外で何時間も立ちっぱなしでいるのは辛かろう。
そもそもは自分のせいなので何だか二人の見張り役にもとても申し訳無い気分になった。
そして、此れが何日も続くのかと思うと、少し、気が滅入った。
自分の立場上気を遣う事が逆に相手の迷惑になる可能性もあったが、
それでもほんの申し訳程度、家にあった椅子と膝掛けを二人に無理矢理押し付けてみた。
やはりちょっと困った顔をされたが、見ない振りをした。
後でこっそり様子を窺うと、一応利用してくれているらしかった。
ようやく落ち着いてみれば、ぽつんと、私は1人静かな家の中にいる。
今迄それが当たり前だったのだが、あれだけ一夜にして目紛しい状況の変化を体感したせいで、
何だか此の静けさがとても懐かしく感じられた。
よろよろと覚束無い足取りで二階の寝室に向い、私は気を失うようにベッドに倒れ込んだ。
家に見張りが付いてから4日後の午後、呼び鈴の音が聞こえて玄関扉を開けると、
其処には相変わらず飄々とした様子でハボック少尉が煙草を片手に待っていた。
「あ、」
「よぅ、4日ぶりだな。御迎えに上がりましたぜ、お嬢さん。」
「こんにちは、少尉さん。お疲れ様です。」
「つーわけでいきなりなんだけど。
こないだの話の続きがあるんで、ちょっと司令部迄来てくれるかな。」
彼はそう云いいながら親指で背後の車を指した。
そして思い出したように、云っとくけど、別に撃たれやしないからな、とわざわざ念押ししてくれた。
あの時と違って今は4日も心の準備期間があったのだ、不安である事には変わり無いが、其の辺りはきちんと覚悟を決めてある。
大丈夫です、と伝えると、彼はにやりと笑った。
お前らも帰るぞ、と、出入り口を見張っていた二人も呼び、少尉は私を後部座席に載せ、自分も続いて乗り込んだ。
どうやら見張りの二人の内のどちらかが運転するようだ。
車が発進してからは沈黙が続き、特に何か話す事もなかったので私は車窓を流れ行く景色を見るとも無く眺めていた。
70年程前に老婦人に連れられて初めて此処へ来た時とは、当然の事ながら街の様子は随分と変わった。
変わらない所もあるけれど、様々な店やアパートのような集合住宅が増えて当時よりもずっと賑やかになっているように思う。
変わるものは変わらないものを求め、
変わらないものは、変わらない私は、変わるものを求めるのだろうか。
否、変わらない全てのものも、変わってゆく全てのものも、私にはとてもうつくしくみえた。
ただ、生きる事に際限が無いと云う恐怖は、いつでも身の内に澱んでいた。
「何だ、また緊張してんのか?」
考えに没頭していたせいで私はいつのまにやら難しい顔をしていたようで、
其れを緊張からくるものと思った少尉が私に云う。
緊張、も、もちろんしていた。
車が司令部のある街の中心地に近付く程に胃の辺りが、
何だかどんよりと重く感じているのは気のせいでは無いのかもしれない。
「そりゃあ、緊張しない訳ないですよ。
これでも数日前よりはよっぽどマシになった方です。」
確かにな、と笑って、彼は新しい煙草に火を付けた。
そう云えば、と、ずっと聞きたかった事をふと思い出した。
「少尉さん、あの時のことなんですけど、」
「うん?」
「建物が崩れて地下通路に落ちた時、もしかして、わざと私の下になって落ちてくれましたか?」
「あー、気付いてたか…。」
少尉は私のその問いに、少しばつが悪そうに視線を漂わせた。
あの時、隠れ家が崩れる瞬間に私は丁度ハボック少尉に腕をがっしりと捉えられた。
よくよく考えれば、それでその勢いのまま地下通路に落ちたのだとしたら、
通路入り口に近かった私の方が下敷きになっているのが普通のはずだった。
しかし、落下の衝撃が治まって次に眼を開けば、私はハボック少尉の上に倒れ込むような形で落ちていた。
あの時は相当焦っていたしそんな事を考える余裕も無かったのだが、
それはつまり彼が私を庇ってくれたと考えられるのでは無いかと後に思い至り、ずっと其の事が気になっていたのだった。
「あの手袋のせいで、俺は最初、犯人はじいさんだと思い込んでたからな。
そんでようやく捕まえた、と思ったら、掴んだ腕がえっらい細かったから、
こんなんで落ちたら、このじいさん折れて死んじまうんじゃねぇかと思ったら、つい、な。
せっかく捕まえた犯人に死なれちゃマズイだろ?」
「あー…。…えっ、いや!でも少尉さんが死んだら元も子も無いですよね。」
「あの一瞬にそんないろいろ考えてられっかよ。条件反射だよ、じょうけんはんしゃ。
それにあの程度の高さを落ちたくらいで死んで堪るか。お前とは鍛え方が違うんだよ。」
助けてもらったのならお礼を云おうと思っていたのだが、何だか妙な感じに話が進んでしまって結局云い損ねた。
まぁいい、またの機会に何らかの形で感謝を表そう、と、取り敢えず疑問は解けたので良しとした。
「お、着いた着いた。」
そうこうしている内に、車は何時の間にか東方司令部の大きな白い建物の前に横付けされ、少尉に促されて車を降りた。
四角い箱のような巨大な建物だった。
高く聳えるポールの頂には、大総統紋を掲げた旗が吹き荒ぶ寒風に煽られて激しく其の身を翻している。
私は軍の施設に入るどころか、こんなに間近で東方司令部を見上げた事自体初めてだった。
入り口付近で見張りに立つ者、かすかに窓から垣間見える忙し無く動き回る者達、敷地内で何事か話し合う者、
其の全ての者達がおおよそ皆あの青い軍服を身に纏っている様は、私には何処か不思議な光景に見えた。
確か元の世界での他国の軍服は、迷彩色のような目立たない色を採用している国が多かった筈だ。
ああ、そうか、鮮やかすぎるんだ、と、感じた違和感の正体に今更ながら気付いた。
付いて来るよう指示した少尉の後を小走りで追い掛けながら、司令部の門を潜り、長い階段を上がる。
手摺も無いだだっ広い階段は少し上り難かった。
撃たれたらどうする、などと本気で心配していた訳では無いが、
自分は此の敷地内において完全に場違いな存在である事はさっきからずっと肌で感じていた。
何事かとこちらを見遣る周囲の視線が少し痛い。
私は物珍しさを押し殺してなるべく周りを見ないようにしつつ、ただ少尉の後ろ姿を追い掛ける事に専念した。
建物内に入ってすぐの所に受付のようなカウンターがあり、少尉は其処に座る職員に軽く声を掛けて、奥にある階段を上った。
何だかまるで転校先の学校を案内されているような気分になる。
階段と廊下と曲り角を幾つか経ると、自分がどの辺りにいるのかすぐにわからなくなった。
すれ違う青い人達の視線を俯く事でやり過ごしながら早足で歩いていると、
前を大股で歩いていた少尉が突然立ち止まったので、私も躓きそうになりながら立ち止まる。
息が上がる程では無いが、少し呼吸が乱れていた。
少尉の前には、立派な両開きの扉があり、上には「司令官室」と書かれたプレートが掲げられていた。
「此処でちょっと待っててくれ。」
「はい。」
そう云うと、彼は扉を2回叩き、扉越しに名乗る。
すぐに奥から此の部屋の主の声が聞こえて来ると、私を廊下に残して少尉が部屋に入っていく。
また数秒で再び扉が開き、ちょっと顔を覗かせて彼は私を手招きした。
「失礼します。」
滅多に入らない学校の校長室や応接間に入るような気分だな、とどうでもいいことを考えた。
(08.9.16)
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