死に擬態するきみたちへのレクイエム

前編












木々の陰影が斑に焼きつけられた石畳の光景は、立ち尽くす私の身体にひどく濃く染み込んだ。

石畳を見下ろす眼は虚ろで、きっと生気の無い私の黒眼にも、斑な光がゆらりと熱に浮かされているのだろう。

私は石畳の通路のやや端にひたすら立ち止まっている。

十数メートル先には、冷淡な姿を風化に晒す大きな石の鳥居が見えた。


路の両隣りからは濃緑の腕が静かに、青すぎる空と白すぎる入道雲から私を覆い隠してくれた。

そして私の汗ばむ皮膚の外側に満たされた世界は、割れる程の蝉の歓声が、

黙って立ち尽くす私の五感全てに降り注いでいるような気がしていた。


耳を塞いでも聞こえてくる鳴き声は、街の雑踏や休み時間の教室なんかとは比べ物にならない程、

狂気的な麻薬のノイズだった。

機械仕掛けにも見える昆虫達が私に声を降り注いで投げつけて満たして、

私は其のじわりと狂い出してしまいそうな恍惚の音の洪水に身を委ねて、少し長めの瞬きをした。

私の身体は動く事に麻痺している。


此の真昼に地上に流し込まれる熱の光が、木陰を通る涼しい微風と混じって空気を柔く掻き混ぜ、

私は長い瞬きをする度に熱に浮かされそのまま意識を手放してしまいたい朦朧とした心地になり、

音に殺されて精神が割れそうな感覚と共に、夏の世界に沈んで恍惚としていた。


暑い。

唇の薄い皮膚の上でだけ呟かれたのは、此の季節には似合い過ぎて不似合いな、手垢に塗れた感想。

されど私は此の死に迫る季節を、熱を、熱が身体をじわじわと侵し殺めていく事を恍惚に思った。


こんなに世界はじわりと溶け爛れて退廃の様相を呈しているのに、何故人は、私は、生きているのだろう。

血も肉も此の夏の腐敗に朽ち、ひんやりとした滑らかな白い骨になる事を夢見て、

私は自分が死体であると云う認識で皮膚を覆い、非生物に擬態する。

干涸びた蚯蚓。蟻の群がる蝉の亡骸。千切れてばらばらになった瑠璃色の蝶の羽根。

土に還ってゆく者達に、私は愛と云う感情を覚えた。


「あら、さんではありませんの。」


彼女らしい巫女の姿をした、同級生の夜摩狐撫子がふいに私の背中に声を掛けた。

咄嗟に反応してきりりと振り返ったのだが、先程迄自分の精神と熱と音に溺れ、

意識の深層の闇を垣間見ていた私は、

すぐには学校と云う箱の中で演じている自分と云う存在に切り替える事が出来ず、

やや虚ろな眼をしてぼんやりする頭を叱咤して、無理に笑顔を作って彼女に曖昧に挨拶をした。

酷く無気力だったが、何とかいつものテンション迄上げようと、けだるいモーターをのろのろと回転させ始める。


「あら、どうかなさいましたの?気分が優れないのでしたら…」


私の鈍く不適合な態度を感じ取った彼女は、

暑さを感じさせない涼やかな白い手を頬に添え、心配そうに眉根を寄せて小首を傾げた。

彼女は濃い陰の中にあってひたすらに白く、美しかった。

其の姿を見て不謹慎で猟奇的な考えが脳裡を過るのを頭の奥に仕舞い込んで鍵を掛けながら、

云いかけた彼女を、段々取り戻されていく「普通の自分」をゆっくりと纏い、制した。


「ううん、大丈夫なんだ。ちょっと暑さでぼーっとしてただけだよ。」


「ならいいのですけれど…。」

 

「そう云えば、此の神社、夜摩狐さんのお家だったんだっけ。

 通学路の途中だから、私、よくふらっと寄らせてもらってるんだ。」


ゆるりと辺りを見回してから、彼女に向かって笑ってそう云うと、彼女もまた花のように綺麗に笑った。

そして幾らか観念的な話をした。

此の神社の緑の美しさ、夏の風情、神社の趣の心地良さ等、至極当たり障りの無い美しい話題だった。


私と彼女とはクラスも違うし、野球部でマネージャーをしている友人を介して、

多少話をする機会があったに過ぎない。

友人とは呼べないが他人とも定義し難い、浅く紙縒のように儚い関連性しか持っていなかった。


コミュニケィションと云うものに多大に欠陥を持つ私が、

そんな彼女と共有出来得る話題を咄嗟に用意できるはずも無く、

私はぽつりぽつりとぎこちなく言葉を交わして、私達の間にはやがて沈黙が降った。


しかし彼女は沈黙を苦としない性質らしく、何処か不思議に居心地の良い雰囲気をもって静かに微笑んでいた。

其れを肌で感じた私は彼女が此の神社の主である事に必然性を見い出し、

常なら頭の中で完結させるようなそんな考え事を、彼女の雰囲気に呑まれたのか、うっかり口に出してしまった。

一瞬不思議そうに眼を瞬かせていたが、彼女はふっと笑ってありがとうございますと云う。


其の笑顔があまりに妖艶であった為に、私は危うく熱に浮かされて、

私の内側に降り積む闇を露呈してしまいかねないと考えて、左手首を何気ない仕草で、けれど強くきつく掴んだ。


首筋を流れる汗がひどく不快だった。

左手に持っている事さえ忘れかけていた通学鞄と、

暑苦しく私に纏わりつくセーラー服をようやく意識に浮上させた私は、

当初の行き先をふと思い出して少し焦りを覚えた。


「あっ、私、補習に行くんだった。

 ありがとう、私もう行くね。」


「えぇ、いってらっしゃいませ。

 …嗚呼そうですわ、多分一宮さんもまだ学校にいらっしゃいますわよ。

 午前中の部活の後に、自習なさってからお帰りになると仰っていましたわ。」


私は彼女の口から余りにも当たり前のように出て来た名前に狼狽し、

一瞬どんな表情を作れば良いのかわからなくなった。


変わらぬ涼しい微笑を称えたままの、彼女の意図が分からない。

否、分かっている。しかし、何故彼女はさして面識の無い私の内面迄踏み込む事が出来たのだろうか。

思考の読めない彼女に対して無意識の内に身構えて、私は困惑の侭に口を噤んで、ただ彼女を凝視していた。


「ふふ、ごめんなさいね、でもそんなに警戒なさらないでくださいまし。

 わたくし、そのようなお気持ちを視るのが得意なんですのよ。」


彼女の悪戯っぽく細められた柔らかな目線が、私に事実関係を確認していた。

私は暫く彼女を見つめていたが、やがて深く溜め息を吐き、俯いて眼を伏せながら苦笑した。


「まぁね。否定はしないよ。

 …でも、きっと貴方が思っているようなものじゃないんだよ、『此れ』は。」


そうだ、彼女が恐らく考えているような、そんなきらきらして瑞々しい感情では無い。

そんな甘ったるい蜜のような感情では無い。

私の一宮くんに対するものは、されどもっと暗く、内側の闇の近くに存在している。

此の季節になると尚更此の感情の根源は深い闇色の沼に近くなるのだ。


その沼に飲み込まれれば、きっと、私は溢れる愛しさに任せて彼を殺めてしまうかもしれなかった。

物理的な死ではなく、廃虚にひそりと漂うような、そんな概念的な死を彼に押し付けてしまうかもしれない。

其れが私の一番怖れている事でもあり、また、衝動が一番望んでいる事でもあった。


至福と狂気の狭間に彼を見ている私を、恐らく彼は知っているんだろう。

けれど優しさ故なのか無関心故なのか、彼は少しずつ病んで行く私に気付かない振りをする。

死に迫る熱を帯びた季節は私を狂わせて死を魅せつけ、

ゆっくりと狂気に沈みながら眼を閉じてゆく私を看取るのが、

冷たい手をした彼であって欲しいと願う、私の愚かさ。

あの黒眼を願う事の、哀しさとも云い得る、掻きむしられるような息苦しさ。

殺めたいと思い、しかし本当に殺められたいのはきっと私の方なのだ。


「…そうかもしれませんわ。

 でも、貴方の気持ちに嘘は御座居ませんでしょう?

 それだけで、十分すてきなことだと、わたくしは思いますわ。」


やんわりと大人びた微笑みを浮かべて云うと、彼女は優雅に細い手を振った。

其れ以上何かを云う術を持たない私は、どう表情を作れば良いのかわからずに、

小さく手を振り返して、逃げるように彼女の元を足早に去った。


黒いローファーがこつりこつりと硬質に靴音を鳴らし、やや急な石階段を降りきる。

融けそうに焼けた黒いアスファルトの道路に降り立った私は、

木陰の中で感じていた純粋な蝉のノイズと恍惚感を奪われ、卑俗な喧噪の中に再び産み落とされた。

逃げ場を失って、地面でもがき暴れている暑さにくらりとして、

昼下がりの太陽から逃げるように、私は鞄から取り出した折り畳みの黒い日傘を差した。

華奢な持ち手が、滲んだ掌の汗で滑る。


熱だ。

きっと熱のせいだ。

私は少し泣き出したい絶望的な心地に酷く喉を締めつけられ、背筋に走った震えに身体を竦めた。

彼の冷徹な姿を見たいと思った。しかし彼に会えるような心地では無かった。


無意識にも学校に向かって機械的に歩みを進めながら、

私は私の暗い奥底に潜む退廃に、眼を閉じてしまいたかった。









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