死に擬態するきみたちへのレクイエム

後編












補習を受ける為に、わざわざ夏期休暇中のこんな暑い日に私は学校へと足を運んだ訳だが、

補習と云っても其れは殆ど自主的なものであった。

其の時間帯に行けば先生が学校内にいる、と云う、時間などそれだけの意味合いでしか無い。


外の世界に満ちた、けだるくも眩し過ぎる、鮮烈な明るさに対して、

校舎内はただじっと息を顰め、うっすらとした陰の中に落ちて、窓を境界として強いコントラストを描く。

殆ど人気の無いひっそりとした廊下は、窓もろくに開かれていないお陰でじっとりとした熱気が籠り、

されど其れのせいだけでは無い、少し息苦しい心地を感じて、中途半端な溜め息を何度か吐いた。


息苦しい。

本当なら真直ぐ補習を受ける教室に向かい、さっさと始めるはずだったのに、と、私は少し唇を噛んだ。

体温と殆ど変わらないんじゃないかと思われる空気の熱に浮かされながらふらふらと廊下を歩く。

振払おうとしても何度も甦る夜摩狐の顔が、声が、感光したフィルムのように頭に焼き付いて離れない。

ちくしょう、と、彼女に対する八つ当たり的な詮無い感情を持て余しながら、私は自分の教室に向かっていた。


いるかどうかも分からない人物を探して教室に向かっている自分に、腹立たしさと息苦しい哀しさを感じる。

教室に、彼なんていなければいいんだ。

きっと彼の事だ、図書館か何処かで涼しい顔して愛用の辞書を捲っているに違い無い。


…そうであってくれ。

御願いだよ。


悲痛な迄に切実に願ったけれど、其れは事実となってはくれなかった。

足音を意図的に顰めてそっと後ろの扉に近付き、嵌め込まれた小さなガラス窓から中を窺うと、

窓際から二列目、前から三番目の席には、忘れるはずも無い一宮一志の後ろ姿が見えた。


絶望的な気持ちになった。

彼の姿を視界に捕らえる事に少しだけ嬉しさを感じはしたが、其れ以上に、永遠に満たされる事が無い、

満たされる事があってはならないはずの、私の中に潜む常闇の退廃が彼に向かう緩やかな死に疼く。


机に向かい、ぴんと張り詰めた指先で参考書の薄紙を捲る彼の姿から視線を引き剥がすように、

私はその場から逃げ出した。


此の季節は私の狂気に拍車を掛ける。

私は君を殺してしまうかも知れない。

だって、君を愛しく思うだなんてナンセンスな感情は、夏に泳がせるにはあまりに酷い痛みなんだ。


じわじわと廃虚の片隅で腐敗していく感情と思考が、早く骨になってしまえばいい。

そうして耐えていれば直に夏を殺し、秋が来る。

そして冬になれば、私の狂気は私の中にそっと沈澱してゆき、

寒さにかじかんで、私は私の終焉を静かに見据える事ができるだろう。

…君無しで。



何処をどう通って、補習の為に宛てがわれた教室に辿り着いたのか記憶も無いまま、

私は千切れた息を繋ぎ合わせ、鞄を其の辺りにあった机に無造作に放り投げ、

黒いハンカチで汗を拭い、教室の窓を全て開け放して、

教室の隅に置かれた軋む木製の椅子に項垂れるように座り込んだ。


微かに教室の中の空気を揺るがせて生温い風が前髪を掠め、汗ばんだ皮膚を冷やした。

皮膚の内側から溢れる体温はなかなか収まってはくれず、汗が頬を伝う。

熱い身体の熱が冷める迄、じっと項垂れたまま座り込んでいた。


窓からは有り触れた遠いざわめきと、蝉の鳴き声、葉擦れの音。

重なりあう虫達のレクイエムは少しだけ私の気を遠のかせた。



漸く頭も身体も冷えた私は、のろのろとした動作で立ち上がり、鞄のチャックを開いて、

黒と白の市松模様のペンケースを引っ張り出した。

ペンケースから4、5本の鉛筆とカッターナイフを取り出して椅子に座り、

私は深く、深く、深呼吸をするように静かに溜め息を吐いた。



さん、さっき、逃げたろ。」


唐突に、聞こえるはずの無い声が聞こえた。

私は1本の鉛筆持ち上げ掛けた手をきしりと人形のように強張らせ、

眼を見開いて開け放されたままになっていた扉に弾かれたように視線を遣った。


「い、ちのみやくん…。何で…」


「此の時間に学校にいるやつなんかほとんどいない上、

 誰かが走り去ったのに気付いた其の直ぐ後に此処の窓開けてるさんが見えた。

 教室から此の美術室見えるの、さんだって知ってるだろ。」


一宮は簡潔明瞭に私の疑問に対する返答を提示してくれたが、そんな事実関係云々では無く、

私はただひたすらに、今、一宮が此処にいると云う事実に対して動揺しているばかりであった。


逃げ出した行動は確かに不審だったかもしれないが、どうしてわざわざこんな所に来たの。

自分のペースを邪魔されるのが嫌いな神経質なきみが、どうして自習を中断して迄此処に来たの。

どうして、来て、しまったの。


彼の肩をきつくきつく掴んで問い詰めてしまいたい衝動を困惑で押し殺しながら、

鉛筆をぎゅっと握りしめて、いたたまれなくて一宮から視線を逸らした。


「…確か美術部だったよな。

 部活か?」


暫くの沈黙の後、一宮は扉に一番近い席に無造作に腰掛けて、私の方を見るでもなく、

生徒の絵が幾枚か貼り出された壁面をさしたる興味も無さそうに眺めながら問う。

動揺を噛み砕いて嚥下しながら、何とか表面だけ取り繕って答える。


「いや、補習。

 受験でデッサン使うから、それの。」


「…さん、美大受けるのか。」


「絵を描くこと以外、やりたいことも無いからね。

 一宮くんは。」


「あー、まぁ、それなりに。」


「…さいですか…。」


返事になっていない返事を返され、何だか上手く躱されたような釈然としない気持ちになりながらも、

溜め息を飲み込み飲み込み、私はカッターナイフで鉛筆を一本ずつ削り始めた。


何とか冷静に自分を押え込めているように見えるが、カッターナイフを握る手は微かに震えていた。

ぐっとカッターナイフを握る手に力を込めて、私は無性に泣き出したい気持ちを抑えて、

何か取り返しのつかない事を云ってしまいそうな唇を結んで戒めるばかりだった。


ガリ、ガリ、と、芯を削り尖らせれば、鉛筆の独特の匂いが鼻先を掠める。

二本目の鉛筆を2、3回削ったところで、私は堪えきれなくなって手に持ったそれらを静かに机の上に置いた。

そして先程出した鉛筆やカッターナイフを全て元のペンケースに無造作に仕舞い込むと、

更にそのペンケースを鞄に突っ込み、チャックをゆっくりと、しかし確かな手付きで閉じてしまった。

まるで死体袋に亡骸を閉じ込めるかのように、厳粛な指先を装った。


「では一宮くん、戸締まり宜しく。」


ぴっと態とらしい角度で右手を上げながら、左手に鞄を掴んで足早に席を離れ、

一宮がいるのと反対側にあるもう一つの扉に少し早足で向かった。

机と机の間を縫うように、ぱたりぱたりと間抜けな足音をまき散らしながら。


唐突な私の行動に、はっ?と一瞬目を丸くして間抜けな声を上げた一宮は、

しかしすぐに冷静さを取り戻し、早足で扉に向かう私をすぐに追い上げる。


「おい、ちょっ、待てよっ、」


「待たないよ」


まるで幼い言葉を吐き捨てながら、私は追い掛けて来た一宮が怖くて堪らなかった。

いや、一宮が怖いんじゃない。

一宮から逃げようと思うのに、心の片隅で今直ぐ彼の首筋に手を伸ばしてしまいたいと思う自分を怖れていた。


きっと、此の季節のせいなんだ。

死に迫る暑さ、洪水のように溢れ返る蝉の鳴き声、青すぎた空に白すぎた雲、内側にしとりと濁る退廃の沼。

私の内側から滲んでゆく熱は、狂気と愛情の区別さえ出来ずに、

君の美しい死を見たがって、君の腐敗を求めてしまうのに。


「待てって云ってるだろっ」


一宮が少しだけ声を荒らげて、ついに私は彼に捕縛される。

ぐっと力を込めて掴まれた右腕の感触に、私は思いも掛けずに少し震えた。

其の震えは恐怖や不安と云ったものではなかった。


涼しげな顔をしているから、きっとひんやりと冷たいのだろうと何の根拠も無く思っていた、

そんな彼の掌の、其のあまりの熱さに、私はひどく驚いた。

持て余した狂気と愛と飢えが、弾けた。

眼鏡の透明なレンズの向こうから私を睨むように見つめる一宮の黒い眼を少し見上げ、

私は其のとろりと光りを反射する綺麗な眼がたまらなく欲しくなって、息を殺した。


熱い手に掴まれた腕から、私は緩やかに静かに傷んでいく。

真っ赤に熟した果実が腐敗していく瞬間にも似た、噎せ返るような恍惚の甘い痺れだった。












 

 


Fin.


 

夏は死の季節

気が遠くなる程深い退廃に飲まれ

私は私を見失う

(05.7.28)

 


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