黄昏の檻 18

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

飲み会だか飲まれ会だかわからなくなってきた丑三つ時、何だかんだでずるずると帰るタイミングを逃し続け、

気付けば結局は最後の最後迄、八人のうわばみ達に付き合った形になっていた。

 

総計何リットルのアルコールが消費されたのかを考えるのは早々に止めておいた。

あまり酒を飲みそうには見えないハヤテや、後から来たエビスでさえ私の数倍は酒を消費し、

其の上で顔色一つ変えずにけろっとしているのだから何とも云えない気持ちになる。

 

やっぱり忍者とは人間を捨てないと出来ない職業なんだなぁと、何度出したか分からない結論を、敢えてもう一度出してみた。

大事なことなので二回云ってみましたとかそういうノリである。

 

祖国の居酒屋のチェーン店なんかでやったら店員の顔が引き攣りそうな事態に見えたが、

こんないろんな意味ですごい忍者がうじゃうじゃしている里に店を構えているだけあって、

お会計を済ませて店を出ようとした私達に店主が向けたのは、爽やかな営業スマイルだった。

意図する所は「ありがとう金づる共!」と云った所か。尊敬すら覚える程に強かである。

 

私も此の世界でたくましく生きて行く為には、あのくらい強かになった方がいいのだろうかと少々考えたが、

すぐに、いや、それはどうだろう、と考え直した。

ああなりたいのかと問われると、否とは云わないが、是とも云い難いものが有る。

いやいや、慣れる事はいいとしても、感覚を麻痺させたい訳ではないのだよ、と自分に言い訳をする私であった。

 

そんな冗談はともかくとしても、私は私のペースで、此の世界に少しずつ適応して行ければ良いなとは思う。

ハヤテとカカシとの一件で、私はようやく檻から足を踏み出すことが出来た。

黄昏に囚われて、もう眼にすることはできないのだと勝手に決めつけていた暁を、今は再び迎える事が出来る。

 

私を囲ってくれる檻がもう無いと云うことは、あまりに広大な自由へと放り出されてしまったようで、少し恐ろしくて足が竦む。

けれど寄る辺無さに不安を覚えたのもほんの僅かの話。

私は、「檻」で閉じ込めて縛るのではなく、「家」と云う囲いの中でこそ得られる安息と云うものに気付いた。

 

此の世界は檻では無く家。幽閉ではなく居住。

それに気付いたとき、私は確かに「存在」することができた。

 

それが私にとってどれほどの意味を伴う事実であるか、きっと私以外の誰にも本当には理解しうることはないだろう。

そして、ハヤテの言葉が、差し伸べた手が、滲んだ温度が、どれほど得難いものであったことか。

つくづく月光ハヤテという男は不思議なひとだと思いながら、ふわふわと少し覚束無い足取りで夜闇の帰路を行く。

 

そして、その私の隣には、何故か月光ハヤテその人がいた。

遅く迄引き止めてしまったからと家迄送り届けてくれるとのことで、私はハヤテの家がどちらの方向にあるのか知らないが、

正直な所こんな深夜に一人で帰るのも心細かったので、申し訳ないとは思いつつもお言葉に甘えさせてもらうことにした。

 

少し欠けた月の淡い光が降り注ぐ夜更け、時折ぽつりぽつりと会話を交わしながらの静かな帰路は、まるでいつかの夜と同じだ。

もうおよそ一年も前の出来事ではあるが、あの時もこんなふうであったと私は確と覚えている。

ふと降りた小さな沈黙の後で、ハヤテに何気なくそのような話を振ると、ハヤテもまた、そんなこともありましたねと笑った。

彼にとってはとるに足らないだろう、あんな出来事などとうに忘れてしまっているかと思っていたのだが、意外にも彼もまた覚えていたようだ。

 

「それは勿論、覚えていますよ。

 なかなか印象深い出来事でしたからね…。」

 

「…それって、あまり嬉しくない感じなのですが…。」

 

少し憮然として云う私に構わず、ハヤテはゆるく微笑んでいた。此の男、存外いい性格をしている。

少し小さく溜め息を吐いて、やや諦めるような色を含ませて呟く。

 

「あれは私にとっては結構な失態なのですよ。」

 

「迷子がですか?」

 

「それもありますが…、って其れは余計なお世話です。

 それに、道に迷ったのは半分態となので其処は別にいいんですよ。

 あの状況の全てを指しての話です。」

 

足元を眺めながらぽつぽつと小さな声を落とすと、ハヤテが隣から視線だけで話の続きを促した。

私は今迄、結局一度もあの時のことに関しては言及していなかった。

わざわざ説明する必要も無い程些細で個人的なことであったからだが、今となってはもう時効だろうとも思う。

 

当時の自分はとても投げ遣りだったのだと苦笑いを零しながら云う。

生きているのか死んでいるのか、存在しているのかいないのか。

あまりにも常識を超えた事象に晒され過ぎて、自己の統一性に齟齬が生じたのではないか、と今になって思う。

少なくとも、祖国にて安逸を貪っていた日々の中では生じ得ない、特殊な状態ではあったはずだ。

元来の私はそんなに繊細な神経の持ち主でも無いのだから。

 

そんな背景を知らない時点においてのハヤテからして見れば、あの時の私は不審者以外の何者でもなかっただろうが、と発言すれば、

ハヤテは、正直すぎる程に気持ちよく、私のその言に対してきっぱりと肯定を唱えて来るので、

若干いらっとした私は、彼のポケットに大量のマシュマロを捩じ込んでやりたいような気分になった。

ハヤテさんって意外と失礼な事をさらっと云うひとですよね、と振ってやれば、彼はちろりと微笑んでしらばっくれた。

 

そしてふと思い至る。

一方的ではあるが自分に区切りをつける意味もあり、私はずっと、ハヤテには一言、「ありがとう」と云いたかったのだ。

丁度いい、今ならアルコールも味方しているのだからと自分に言い訳をして、笑みを噛み殺しながら足を止めた。

 

「ハヤテさん、」

 

突然立ち止まった私を振り返り、ハヤテは小さく首を傾げた。

闇夜に溶ける、かの人の輪郭を見て、相変わらず夜の似合うひとだ、と心臓の傍で呟いた。

 

「ありがとう。」

 

そうなんだ、ずっと、此の一言が云いたかった。

声に出して云えば尚更、其の言葉が自然に心に馴染むのがよく分かった。

私の唐突な言葉に、ハヤテはやや怪訝そうにしながらも、淡々とその意味の向かう所を問うた。

 

「いえね、改めて意味を問われると、説明を付けにくいのですけれども。

 でも、ハヤテさんにはお礼を云わねばならぬとは、私、ずっと思っていたのですよ。」

 

云いたいことの半分も言葉にはならなくて、気持ちばかりが上滑りしてしまうけれど、

ハヤテにどうしても伝えたかったことの全てはありがとうの一言で事足りるような気がしていた。

 

言葉など、本当にあてにならないものだ。

言葉にしなければ伝わらない事は沢山あるが、伝えたくとも言葉に成らないものも、人間の精神の中には無数に存在する。

そしてそんなものの中にこそ、真の想いの尊さと云うものが密やかに滲むのだろう。

だからこそ、私たちは、人は、人であろうとするのかもしれない。

 

「私は礼を云われるようなことは、何もしていませんよ…。」

 

不思議そうに瞬きをするハヤテがそう零した。

出会い頭に刃物を突き付けられた事を振り返れば、彼がそう思うのも最もだろうが、私にとって大事なのは其処ではない。

壁を、檻を、溝を、境界線を。彼がいとも容易く越えた事実こそが重要なのだ。

 

「そうですねぇ…。

 ハヤテさん、では、握手しましょう。」

 

「…はい?」

 

脈絡の無い其の言動は、アルコールのせいではなく素である。

確信犯を気取ってにぃと笑い、右手を彼に向かって差し出せば、ハヤテは釈然としない様子で躊躇ったが、

其の手を引っ込めるつもりが私には一切無い事に気付いて、彼は諦念を添えながら、己の右手を以て私の手をゆるく握った。

見た目よりもやや暖かい、細くて、けれど私より大きな、しっかりとした手。

私は何故かすこしまた泣きたい気持ちになった。

 

「つまりそういう事なのです。

 あぁ、そう云えば、ハヤテさんの手は、見た目よりも暖かいですよねぇ。」

 

さんの手が冷たいだけなのでは…?」

 

「あぁまぁ…それもあるかもしれませんが。

 いやいや、論旨は其処では無くてですね。」

 

その温度に意味が有るのだと云うような事を、私は論理的かつ系統的に滔々と説明しようとしたのだが、

そもそも感情を論理的に説明しようとする事の矛盾があまりにナンセンスに思われたので、

私は途中で過去から現在に至る自己に関する論説の放棄を頭の中で可決した。

 

一瞬黙って、けれどすぐに、まぁいいや、と云って自分から振った話題を丸投げすると、

ハヤテはちょっとだけ疲れた顔をして、まぁいいですけど、と呟いて溜め息を吐いた。

 

そしてするりと呆気無く掴んだ手を放したので、私も其処で右手を引っ込めようとしたのだが、思わぬ形で其れを引き止められる。

ハヤテの右手が離れたかと思えば、今度は左手が、私の其の手をやんわりと掴んだ。

そうして、何事も無かったかのように、そのまま私の手を引いて彼は歩みを再開し始める。

 

困惑するような恥ずかしいようなくすぐったいような呆れたような笑い出したいような、

奇妙な均衡を保つ感情が、もやりと撓んで私の鼻先を過る。

…これは、なんとなんと。

緩やかにハヤテに手を引かれて、ほろほろといい加減な歩行を繰り返しながらじっとハヤテの横顔を斜め後ろから見上げていると、

酔っぱらいはさっさと家に帰って寝なさい、と云うような内容を丁寧にオブラートに包んだ、遠回しな発言が降って来る。

 

さも其れが自然な成り行きであるかのようなハヤテの振る舞いに危うく騙されかけたが、

いやいやいや、待て待て、全然これは不自然だぞ、と、思わず納得しかけた自分に突っ込みを入れる。

 

「…あの、一応云っておきますが、私、そこまで酔う程、飲んでないですよ。」

 

「大抵の酔っぱらいは、自分が酔っているとは自覚していないものです。」

 

「っていうか一連の言動は素なんですけど…私はいつでも超本気なんですけど…。」

 

其れは何か、私は普段から酔っぱらいみたいな様子のおかしい人間だと云いたいのか。心外である。

考えるに、顔に全く出ていないので考慮に入れていなかったのだが、むしろ酔っぱらっているのはハヤテの方なのではなかろうか。

だとしたら相当分かりにくい酔い方をしているものだと考えるに至り、呆れと共に溜め息を飲み込んで、

ゆるやかに繋がれた、曖昧な立ち位置を彷徨う其の手に、私はほんの少しだけ力を込めた。

 

「随分と意図しない所でのことにはなりましたが、でもまぁ、

 割と正確に謝辞の意味を汲んで頂けているようで、何よりで御座いますよ。」

 

事勿れ主義的な結論を下して勝手に頷いていると、ハヤテがそうですね、と分かっているのかいないのか、適当な相槌を寄越して来た。

ハヤテさんもしかして酔っていらっしゃいますか、と、まじまじと彼を見上げ、其の涼しい横顔に問い掛ければ、

大抵の酔っぱらいは、自分が酔っているとは自覚していないものです、なんていう先程と一字一句違わぬ言葉が繰り返された。

この、酔っぱらいめ!と云う言葉と共に込み上げる笑いを、私はきゅっと唇を噛みながら我慢した。

 

まぁいいや、それも悪くないから、なんて、そんな言葉は勿体無くて云う気にもならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

next.

 

(10.4.1)

 

 

 

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