黄昏の檻 19

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

床にぺたりと座り込んだ脚がじりりと痛みを訴えた時、私はようやく我に返って視界に映る映像を正しく認識し始めた。

尽きる事の無い思考の渦は、時化のように絶え間なく、止め処なく、シナプスを駆け巡っていると云うのに、

思考を思考として受け止める事が出来ずに居る私の感情は、自覚した今でさえもひとつも働こうとはしなかった。

 

ばかだな、こうなることなんてわかっていたのに。

 

頭の中が真っ白に塗り込められたままでほろほろと自嘲して、私は薔薇の模様が彫り込まれた真鍮製の懐中時計を、震える指で握り込む。

恨み言や悪態を吐き付ける対象が有るのなら、そうするのも感情の整理には一役買ってくれた事だろうが、

生憎とそんなものをぶつけるべき対象は何処にも存在しないのだ。

結局の所、そういったもやもやと蟠る負のものは自身に対する怨嗟に変えて腹の底に溜まって行くだけで、処理さえ適わない。

 

愕然としているのにけれど妙に理性は落ち着いていて、痺れた脚を解して立ち上がり、

差し当たって必要なものとそうでないものを選別する作業に着手した。

 

数えてみれば其れは一年と三ヶ月と八日。

長いと云えば長かった。短いと云えば短かった。

辛かったのは最初だけ。泣いたのは二回だけ。

知り合った人はたくさんいる。私を檻から出してくれた、ひとがいる。

 

ばかだなぁ、本当に。わたしは今、本来ならよろこばなければならなかったはずなのに。

 

「…あんまりです、ええ、そりゃあんまりなんですよ、主様。」

 

ベッドの上に鎮座する、黒い布に包まれた長細いそれをじっと見下ろして、私は笑うのに失敗した顔を小さく歪めて呟いた。

全体に施された美しい金細工。鞘に散りばめられた艶めく五色の玉。色糸と金糸を複雑に編み込んだ房付きの飾り紐。

厳重に黒い布にくるまれた其の中身の意味を、私は最初から知っていた。

 

私の視線の先、黒布の内にて静かに燻る眩い輝きは、此度の依頼が確かに達成された証。

全ての事の発端にして、全ての事の終着を意味するは、黄金の太刀、其れそのものだった。

 

 

 

 

 

 

 

家具類は元々部屋に備え付けられていたのでそのままにしてある。

いずれ去る時の事をずっと考えてはいたので、出来うる限りものを増やさないようにはしていた。

少ない荷物を更に選別して余分な物を全て処分し、この里で得たものは全てこの里に置いていく事にした。

 

出来上がった荷物は、来た時と殆ど同じ、鞄一つ。

申し訳程度に部屋の掃除を済ませてしまえば、初めて此の部屋に脚を踏み入れた時と同じ景色になった。

ただ一年前と違うのは、私の髪の長さと、黒い布に包まれた細長い荷物が増えたことだけだ。

 

懐から懐中時計を取り出して時間を確認すれば、丁度正午に差し掛かろうと云う頃合い。

もしも今、此の太刀が此処に戻って来ていなければ、今日もまた「いつも」のように、あの食堂で目紛しく立ち働いていたはずの時間。

あの夫婦には随分とお世話になっていたので、何も告げずに突然去る不義理に、私は心底申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 

けれど、挨拶をして行く事など、私には到底出来そうも無い。

私は冷静だった。私は落ち着いていた。けれど、焦っている。見ない振りをしていたいが、躊躇する気持ちも、本当はある。

作るべきではない選択肢を作ろうとする気持ちを必死で噛み砕いているのは、自分に嘘を吐きたがっている証左である。

其の選択肢は選べない。だから、私は不義理とわかっていて、敢えて其れを押し通さねばならないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今朝早くに、突然火影の使いを名乗る忍者がこの部屋の呼び鈴を些か乱暴に鳴らした。

前置きも程々に、突然本題を切り出すに、曰く、太刀を取り戻した、と彼は云うのである。

寝起きの頭で解するには余りに唐突な話で、状況がまだよく飲み込めず眼を白黒させている私には構いもせず、

その忍者は、とにかく火影が呼んでいる、との旨を伝えて、私の返事も待たず、あっという間に姿を消してしまった。

 

まだ夜も明けたばかりの、薄暗い朝靄にけぶる景色を前に、暫くの間、呆然と玄関先で立ち尽くしていたが、

我に返った私は慌てて室内へと舞い戻り、適当に身形を整えると、すぐさま部屋を飛び出して火影を訪ねるに至った。

 

それからはもうあまりに呆気無くて、どうにも気持ちが追いつかないままに、事実だけが時間の歯車を粛々と動かしていた。

 

曖昧な表情を浮かべて瞬きを繰り返す私を少し困ったように見遣りながら、火影は黄金の太刀の包まれた黒い布の塊を私に手渡した。

何を云うべきか迷った私は、受け取った太刀には一瞥しかくれず、ただ定型文にのっとって謝辞を述べた。

動揺を押し殺すようにゆるりと微笑み、深く頭を垂れる。

自分では笑ったつもりだったが、ちゃんと笑えていたかどうかの事実関係については言及しない事とする。

 

手にのしかかるずっしりとした重み。

思ったよりも冷静な自分が、これから己のとるべき行動を考えて、着々と頭の中でその段取りを立てていた。

火影は、どうする、と端的な質問を投げかけた。

どう、と問われてもなぁ、とぼんやり考えつつも、私は頭の中で作った行動スケジュールを以て、淀み無く其れに答えた。

 

「急な事では御座いますが、今日中に里を出立致したく存じます。

 私の仕事は、依頼達成を以て、速やかに太刀を我が主の元にお届けする事に御座います故。

 つきましては、御借りしていた部屋と食堂の仕事についてなのですが、」

 

するすると出て来る其れ等の言葉に対して、火影はほんの少し何かを云いたそうな顔をしていたが、

結局、彼はその言葉を飲み込む事を選択したらしく、小さく溜め息を吐いてからゆっくりと口を開いた。

 

「…そうか。

 部屋と仕事の件に関しては、こちらから対処しておこう。

 おぬしはおぬしのすべきことに専念すれば良い。

 こうも長く引き止めてしもうたのは、こちらの手落ちじゃからのぅ。」

 

「いいえ、いいえ。そんなことはありません、」

 

思わず語調がきつくなってしまった事にはっとして口を噤み、少しばつの悪い表情を禁じ得ないながらも、

火影とこの里の人々に対して、自分は心から感謝しているとの旨を静かに伝える。

火影は緩やかな手付きで煙管の煙を呑んで後、全てを見通すような眼をして鷹揚に微笑んだ。

 

「しかし、皆に会って行かんでよいのか?」

 

この老翁は、分かっていて云っているのだな、と、私は苦い気持ちになる。

何も無い振りをして適当な返事を寄越せれば良かったのだけれど、実際は少し俯いて小さく頷く事しか出来なかった。

 

もう少しこの里に居たいと希求する心に反して、理性は胸の灼けるような焦燥と共に、一刻も早くこの里から出なければならぬと私を急き立てた。

誰にも会ってはならぬ、誰にも悟られてはならぬ。一刻も早く、この里から出てゆけと。

それが裏を返せばどういう意味であるのかなど、考えずとも分かると云うのに。

 

 

、おぬしはこの里が好きか?」

 

 

私の答えを知った上で敢えて問うなどと、随分と無体な事をする。

太刀をぎゅっと両腕で抱きとめながら、私は少し無理をしてきれいな作り笑いを浮かべ、是、と答えた。

 

「ならば、わかっておるのだろう?

 望みがあるのなら、言葉にせねば叶わぬぞ。」

 

貼り付いた作り笑いを少し疲れた微笑みに変えて、私は黙って深く拝礼し、そのまま静かに火影の御前を辞した。

 

「…おぬしも、難儀な質じゃのぅ。」

 

そんな笑みを含んだ小さな呟きが私の背中に小さく掛けられたが、私は聞こえない振りをして部屋の扉を静かに閉めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

執着心はわりと強い方だと自負しているが、未練に思う気持ちとはまた別の所に、同じく覚悟もあった。

それもこれも、最初から決まっていた予定調和の想定範囲内。

だからあんまり慣れてしまいたくないと思っていたんだけどなぁと独り言ちたところで、今となっては最早ナンセンスだ。

 

一年ぶりに旅の荷の重みを身体で感じながら、人通りの少ない路地を通って足早に里の出入り口の大門を目指す。

往路にては、あまりにも大雑把過ぎる地図のせいで道に迷って一日分の時間をロスしてしまったが、今度こそは迷うまい。

さっさと岸辺邸に戻り、待ちくたびれているだろう主様に早急に太刀をお渡ししなければとそれだけを考えて歩を進めていた。

 

高い塀に囲まれた巨大な門が見えて来た。其の両側には、いつかと同じく門番を務める忍者さんの姿が二つある。

周囲には彼ら以外に人の姿は見当たらないので、里を出てしまえばもう殆ど誰かと会う可能性も無くなるだろうと、少し安堵の息を吐いた。

 

淀み無い足取りで、門近くの土産物屋の前を通る。

平生なら厚意半分嫌がらせ半分で主様への土産の一つでも見繕ってやろうかと思う所だが、

流石に今の私にはそんな元気も余裕も余力も無かった。

 

折角忍者の隠れ里なんて恰好のネタスポットに来ていたと云うのに、面白いネタの一つも仕込めず、

まっこと申し訳ありません主様、などと余計な事を呟くのは忘れなかったが。

本懐は其処ではないだろうと私に指摘してくれる親切な人間は、残念ながらいなかった。

 

下らない事を考えながらも、安堵とともに門番に軽く会釈しつつ、ひょいと足早に敷居を越える。

さぁ旅路を急ぐかと気合いを入れ、改めて歩を進めようとした其の時。

 

突然誰も居ない筈の背後から肩をポンと叩かれ、一瞬全身の肌がぞわっと粟立ったような心地がした。

 

「……っっ!?!!」

 

私は驚く余り、思わず手にしていた太刀をぎゅっと抱き締めたままその場にしゃがみ込んだ。

勘弁しろよ。マジで心臓止まるかと思った。

ばくばくと脈打つ左胸を押さえながら、おそるおそると云った態で振り向く。

…あれ、何かデジャヴュ。しかも三回目くらいの。

 

そうして振り返り、仰ぎ見たその人物を見て、私は眼を見開いた。

どうして貴方が、よりによって貴方が此処に居るのだ。

なぁ、月光ハヤテよ。

 

 

「…普通、突然、後ろに人が立っていたら、大抵の場合は驚くものだと、以前も申し上げたかと思いますが。」

 

「それはすみません。」

 

悪いとは微塵も思っていない様子で飄々と謝罪を口にするハヤテに少々呆れながらも、

あの時のようにまたハヤテに手を差し伸べられる前に、私は気を取り直して自力で立ち上がった。

荷物の重みで少し蹌踉けたところ、ハヤテがさりげなく腕を掴んで支えてくれた。

この人は本当に素で紳士だなぁなどと思いつつ。

 

「…本日この里を辞する事と相成りました故、それでは、私はこれにて失礼致します。」

 

小さなお辞儀で以て立ち去ろうと、さっさと踵を返して歩き始めたと云うのに、

ハヤテと来たら何故か私の後ろを黙々と付いて来るではないか。

怪訝に思って、少し彼を振り返ってみても、相変わらず咳込む声と共に表情に乏しい黒眼でゆるりと見返されるだけだった。

 

暫くはまた前を向いてそのまま歩いていたのだが、よく分からない状況に業を煮やし、

溜め息を押し殺しつつも、ハヤテさんはどちらに行かれるのですか、と仕方なく尋ねた所、

岸辺様の屋敷迄ですが、とさも当然であるかの様に返して来る。

私は思わず立ち止まって振り返った。

 

「何で。」

 

「私は、火影様よりさんの護衛を仰せつかっていますから。」

 

「………聞いていませんよ、そんな事。」

 

「ああ、では、云ってなかったのですねぇ…。」

 

え、何このゆるい会話。

突っ込む気力も失せて私はがくりと項垂れた。

 

ああそういうことかと合点はいったが、してやられた、という心持ちは拭えない。

往路とは違い、此の復路に於いては黄金の太刀という狙われやすいファクターがきっちり備わっていることを思えば、

火影が不測の事態に備えて護衛を寄越すのも予想がつくはずだった。考えの至らなかった私の落ち度だ。

 

よくよく常識に照らし合わせて考えてみれば、そもそも此の場合、本来ならこちらから護衛を要請するべき所であったのだ。

そんな基本的な事も失念するくらいには、実は私はあまり冷静ではなかったという事実を改めて実感してしまい、私は自分に心底呆れていた。

 

うっかりにも程があるな、と適度に動揺と狼狽に対して諦めを付ける。

恐らくは火影は私の斯様な状態さえ全部まるっとお見通しだったのだろう。

しかしながら其処に敢えてハヤテをぶつけてくる辺りは、偶然なのか作為的なのかは私には判断がつかなかったが。

 

確かに全く知らない人間に三日間張り付かれてるよりは、知り合いの方が随分と安心感はあるものの、

誰にも何も云わずに、自分の痕跡ごと里からさっさと姿を消してしまおうと若干卑怯な事を考えていた手前、

ハヤテがそれに対して何とも思っていなかったとしても、私的には少々ばつの悪い思いがしていた。

 

「…お手数をお掛けしますが、道中の護衛、改めて宜しく御願い致します…。」

 

「了解致しました。」

 

ハヤテは何食わぬ顔で頷いて、いつものように空っぽな咳をこぼした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

next.

 

(10.4.1)

 

 

 

SEO [PR] !uO z[y[WJ Cu