黄昏の檻 12
翌朝、未だ少し眠気を振り払いきれていない頭を働かせるように今日の予定を組んで行く。
と云っても、散歩か買い物かくらいの選択肢しか無いのでほとんど無駄な作業なのだが。
部屋着の上から羽織を肩に掛け、いつものように窓を開けて部屋の空気を入れ替える。
外を見れば、薄雲のたなびく空の中、鳶がその茶褐色の美しい両翼を広げて青を泳ぐ。
すいすいと旋回する様子は飛び続けねばならぬ鳥の性の過酷さを思わせない優美な姿であるように見えた。
そう云えば忍者もなんやかんやしたら空とか余裕で飛べてしまうのだろうか。
まぁ何があってもどんなことしても「忍者だし」で済ましてしまえるものな、と好き勝手な事を考える。無知故の暴論である。
腕を組みながら窓枠に額を預けてぼーっと外の景色を見ていると、ピンポーン、と、何やら久し振りに聞く音が部屋に響いた。
玄関の呼び鈴の音。
こちらの世界に来て、呼び鈴の音なんて聞いたの始めてなんじゃないか、と面食らう。
ましてや此の里で私を訪ねる人にさして心当たり等無いのだから。ナルトだったらもっとうるさいのですぐにわかる。
(後で、その訪問が任務完了の知らせであるとは微塵も考えなかった自分にものすごくがっかりした。)
なるべく音を立てないようにそっと玄関扉に近寄り、覗き穴を覗き込む。
少し汚れた魚眼レンズの先にぼんやりと見えたその人を見て私は思わず眼を見開いた。
何でカカシが私の部屋の前にいるんだ。
扉を開けるべきか開けないべきかを一瞬でものすごく考えてしまったが、居留守を使うのもどうかと思い、
鍵を開けてそぉっと扉を開けると、扉の隙間から見上げたカカシは、両手をポケットに入れたまま可笑しそうに笑っていた。
「おはよう、さん。突然ごめーんね。…そんなに警戒しなくても、何にもしないよ?」
「おはようございます。あー、いえ、あの、此処に住み始めてからこっち、
呼び鈴鳴らされたの初めてだったもので。つい。(しかもまさかカカシさんだとは思わなかったし。)」
今日は窓じゃないんですね、と危うく云いそうになった。
まぁいつまでも其のネタを引き摺っていてもしょうがないので黙っていたが。
「はは、そっか。
ところで、昨日の件なんだけどね。特に問題は無いだろうからって事で、許可降りたよ。」
「え、もう?…いいんですか?」
「もちろん。アスマの云ってた通りだったでしょ。
そんなに身構えなくて良いから、ま、気楽にやんなさいね。」
「…ありがとうございます!」
つい嬉しくて顔が緩んでしまい、そう云ってへらりと笑いながらカカシを見上げると、やたら微笑ましいものをみるような眼で見られた。
うん…何だろう、その素直に喜べない感じの表情…。
飼い主の元へ駆け寄って来る犬をみるような眼、とでも云おうか。私は思わずカカシから微妙に視線を逸らした。
ついでに、希望するなら仕事の斡旋もするが、との事だったが、そちらの方は丁重に辞退する事にした。
此れ以上私的な事でお世話になるのも気が引けるのでとやんわり断りながらも、まずは昨日の食堂をあたってみるかと考えた。
こちらの世界で働くにも履歴書っているのだろうか。だとしたら経歴のあたりがちょっと誤魔化しづらくなりそうだ。
そうは思ったものの、私は其の事についてはあまり深く考えていなかった。
真実にほんの少しの嘘を混ぜて行けば何とかなるだろう、と。
「それじゃ、俺はこれからあいつらを任務に連れてかなきゃいけないんで。」
「あ、お仕事の前だったんですか、すみません、わざわざ此処迄ご足労頂いてしまって。
ありがとうございました。」
またね、と手を振って去って行ったカカシを見送ってから、ふと、ん?と眉根を寄せた。
そう云えば、ナルトは既に二、三時間前に出掛けて行ったはずだが。
…カカシの遅刻を責めていた子供達の気持ちが今ようやく理解できた気がする。
(ていうか私を遅刻の口実にするとかほんと勘弁してほしい。)
「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ。」
にこりと営業的な笑顔を無駄に振りまきながら、ホールをくるくると慌ただしく動き回る。
注文を取り、厨房に伝え、料理を運び、皿を下げ、テーブルを拭き、時々レジを打ち、また注文を取り。
昼時のめまぐるしさに軽いパニックを起こしそうになりながらも、取り敢えず笑顔を維持することだけは忘れない。
…例え中身が空っぽであったとしても。
「お疲れ、ちゃん。今日はもう上がってくれていいわよ。
すぐ賄い持ってくから、食べて帰んな。」
ようやく人の波が途切れた午後3時頃、奥の厨房からひょいと顔だけを出した年配の女性が私にそう声を掛ける。
彼女はサトさんと云う、此の食堂を営む店長の奥方だ。小柄ながらも何とも明るくエネルギッシュな人である。
私はエプロンと三角巾を外しながら、食堂の一番隅っこの席に座り込み、思わず深く息を吐いてテーブルに突っ伏した。
…疲れた。
そういう訳で、私は結局あの食堂でこうして働かせてもらうことになった。
火影からの許可を携えてカカシが私の元を訪れてから、四日後の事である。
取り敢えずまずはサトさんに此処で働かせてもらえないかと声を掛けた後、私の面倒くさい事情を夫妻に一通り説明し、
やはり必要だった履歴書を、経歴を適当にでっち上げて記入し、何かつっこまれやしないかと内心そわそわしながらも手渡した。
初っ端から嘘を吐かなければならぬ罪悪感も少しある。
けれど事実のみを述べる事が必ずしも良い結果を生むとは限らないのが世の常だ。
出身地は主様の屋敷のある街の名にしておくとして、主様に出会う前迄の経歴について頭を悩ませる。
主様には私の本当の出身を話した事はあるが、非科学的で非現実的にも程がある話だ、
あまり細かい事は気にしない人なので、恐らくはまぁ家も家族も無い孤児のようなものだと認識されているらしかった。
此の世界に於いて云うならば、その認識もあながち間違いでもない。
結局あの街で生まれ育ったが家族と死別して一人になり、困っている所を拾われた、と云う、
まるで三文芝居を見ているかのような月並みなシナリオしか思いつかず、
自分の発想の貧困さに溜め息を吐きながらも今回はそれで無理矢理押し通す事にした。我ながら強引である。
そうして無い頭を振り絞って嘘と本当を塗り込めながら、ようやく今日の初出勤に漕ぎ着けたと云う訳だ。
何とも眼の回るような慌ただしい四日間であった。(主に私の脳内が。)
だいぶお疲れみたいねぇ、と賄い料理の乗った盆を片手に笑うサトさんに苦笑を返す。
主様の元で使用人として働いていた事を思えば、無茶苦茶なことを突然言い付けられたりしない分、精神的にはまだ優しいかもしれない。
そう思える自分は、前の世界に居た頃よりも、また随分強かになったものである。
サトさんは仕事にはこれから徐々に慣れて行けば良いと励まし、私の背中を勢い良く叩いて笑いながら厨房に戻って行った。
暖かく力強いその手に、感謝するやら、めっちゃ痛いやらでちょっと涙眼になった。正直、主に痛さの方でだが。
実はサトさん忍者だったりするんじゃないのかと少し本気で考えつつも、暖かいうちにと賄いを頂く。
食事に関しては普段は主に自炊しているが、やはり人の作ったご飯は美味しい。
此の食堂は家庭的な料理が中心になっているので、母や祖母の作った食事を少し思い出して懐かしい気持ちになる。
(味付けとかも全然違うのに、懐かしいって反則だよなぁ…。)
食育と人格形成について無駄に本気で考えながら黙々と食事をしていると、ふっと手元が暗くなったのを感じて顔を上げる。
…また貴方ですか。
内心そう呟きつつ箸を置けば、にっこり笑う銀髪の男が圧迫感たっぷりに私を見下ろしていた。
そして近い。
またしても近い。
ものっすごい真横に立ってるんだけどどうなのこれ、何でいつもそんな近いのこの人。
「…あの、カカシさん、とりあえず、近過ぎるんですけど…。」
「ま、気にしないで。」
「(気にするわ!)…はぁ。」
ゆるく笑うカカシに取り敢えず妥協して向かいの席を勧めると、それじゃあお言葉に甘えて、と彼はのんびり椅子に座った。
机に軽く頬杖をついて笑みを絶やさないその顔は、笑っているはずなのに何の表情も感情も読み取る事が出来なかった。
あ、こういう表情が何だかこの人が苦手と感じる原因なのかと思う。
表情が無いなら無いであまり顔に表れない人なのだと納得もできるし、表情が豊かなら其処からある程度は相手の気持ちを慮る事が出来る。
けれど笑顔で全部覆い隠されてしまっては、そう観察力が著しく良い訳でも無い私には、まるで疎外感のようなものを感じるのだ。
この人が何かと私を構うことと、けれど拒絶するような表情。それでも知っているのは、実際とても優しい人である事実。
本質を見抜ける程の眼を持たない私にとって其れが戸惑う原因になっているのかもしれない。
本当に難解な人物だと溜め息を吐きたくなった。
「やっぱり、此処で働く事にしたんだね。」
「あぁ、はい、そうなんです。
何時此の里を離れるかは解らないので、其れ迄の間だけ、という我が儘も快く聞いて下さって。
此の里の方は皆様、本当に親切でいらっしゃる。」
カカシから視線を離し、おもむろに窓の外の通りをぼんやりと眺めながら云う。
少し眼を細めて眺める先では、様々な人間が行き交っている。
人の暖かさに抱えきれぬ程の感謝の念を抱くと共に、何処かで私の心が息苦しさに悲鳴を上げる。
それは、相手を本当に信じていいのかわからない不安であったり、疑う自分への嫌悪であったり、些細な嘘から来る罪悪感。
そして目の前で起こっている事なのに、何処か遠い所での出来事であるかのように感じる、自分の存在の根拠の希薄さ。
…私はいまだ、あの日の黄昏の檻の中に囚われたまま、明けぬ夜の沼に沈みながらもがいているだけなのかもしれない。
這い上がる事の叶わぬ岸を、必死で求めながら。
「さんはいいこだねぇ。」
カカシからの突然のそんな見当違いな発言に一瞬とてつもない嫌悪を感じたが、
其れを腹の奥だけで飼い馴らしながら私はいい加減な笑みを浮かべた。
「あはは、いいこだったら人にこっそり不法侵入者なんてあだ名付けませんよ。」
「…それあだ名だったんだ…。」
「素晴らしいネーミングセンスで御座いましょう?」
何食わぬ顔でそう云うと、カカシが可哀想な者を見る眼をしてきた。失敬な。
その視線を例によってスルーしながら少し残っていた食事を続け、ごちそうさまでしたと呟きながら手を合わせる。
先日の仕返しのつもりか、その間もカカシは私の向かいで頬杖を付きながらにこにこと私を見ていた。
他人に食事をしている所を見られるのが生理的にどうも好きではないので、
少し眉間に皺が寄っていたかもしれないが、無意識なのでどうにもならなかった。どうにかする気も無かったが。
食器を返して店を後にした私の隣を、当然のように余りにも自然に歩くカカシに、一瞬の間を置いてからはたと気付き、
今更ではあったがそういえば何か私に用でもあったのかと尋ねた。
聞けば、特に用事はないときっぱりと云いきられ、首を傾げる私を少し覗き込むように屈んでくる。
「いやー、あの店の前を通り掛かったら、ちょうどさんが一人寂しそうに座ってたもんだから、
ついつい構って上げたくなっちゃって、ね。」
「寂しければ自分の尻尾でも追いかけて遊びますから、放っておいて下さって構いませんよ。」
若干カカシから距離を取りつつ、呆れた気持ちを隠さずに肩を竦める。
私にはどうしても、不自然な程私に構う此の男の真意が解らなかった。
悪意も善意も感じないのが、なおさら不可解に思える。
「明日も仕事?」
「はい。」
「じゃあまた明日、アスマとか紅あたりも連れて来ちゃおうかなぁ。」
「…はぁ、左様に御座いますか。」
…随分と野次馬根性の旺盛な忍者である。
どう答えていいやらと気の抜けた返事を返すも、カカシは全くそんな事には構いやしないらしく、
帰宅しようと家路に着く私の隣をのんびりと歩いてついて来る。
何処迄ついてくるつもりなんだろう、まさか家迄来る気じゃないだろうな、とちょっと引きつつも、
そう口数の多い人間では無いと思っていたカカシからぽんぽんと質問や話題が飛び出して来る。
どれも差し障りの無い世間話なので、其のペースにつられるように私も至って普通に受け答えしていた。
「仕事の方はどう、頑張れそう?
岸辺様のとこで働くのとは、また勝手が違うんじゃないの?」
「そうですね、まだ今日が初日でしたので何とも云えませんが。
ああ、でも、…主様よりは食堂にいらっしゃるお客様を相手にする方が、気が楽ではあるかもしれませんねぇ…。」
「ああ、なるほど、ね。岸辺様もかなり癖のある方だからなぁ。」
「カカシさんは、主様にお会いした事があるのですか?」
「ん?ま、お得意様だからな。何度かこの里にも足を運んでこられた事があるよ。
今のさんみたいに、代理人を寄越す事の方がもちろん多いけど。
そう云えば、さんは屋敷で働いてどのくらいになるの?
此処へは初めて来たって云ってたけど。」
「…そうですねぇ、二年半にはなるでしょうか。」
「前に、岸辺様に拾われたって云ってたけど、其の時から?」
「…ええ、そうです。」
次第に自分の返事が歯切れ悪くなって行くのを自覚して、此れは不味いかもしれないと内心冷や汗が出てきそうだった。
相変わらずにこにこと何の変哲も無い態度で普通に会話しているだけなのだが、
カカシとの会話そのものがまるで誘導尋問であるように思えて、其処から先を問われることに怯えている自分がいた。
この人相手に、上手く誤魔化す自信が無い。それでも私は動揺を押し殺して何でもないように口を開いた。
「森の中で道に迷ってしまって、其の時、野犬に襲われそうになった所を主様が助けて下さいました。
其処から何がどうなったのか、気付いたら何故か主様の使用人をしておりましたよ。
世の中何が起こるか分かりませんね。
こうして忍者さんの隠れ里で生活するようになろうとは、それこそ思っても見ませんでしたよ。」
何気なく話が別の方向へ舳先を向けるように仕向ける。
頼むからそちらに話題を進めて行ってくれ、と信じてもいないかみさまとやらにご都合主義よろしく祈ってみる。
「はは、これも何かの巡り合わせってとこかな。
…まぁ、まだ暫くはさんを岸辺様に返してあげられないみたいだけどサ。ごめーんね。」
「いえ、そんな。皆様が頑張って太刀の行方をずっと探して下さっているのは知っています。
早く戻って来て欲しいとは確かに思いますが、無茶な事を云って責めるつもり等、ありませんから。」
お気遣い有り難う御座います、と微笑みながらも安堵を飲み込む。
こんなにも無意味で、其れでいて緊張を要求される会話も他にあるまいに。
そんな調子で「世間話」を続けながら、結局カカシと共に家の近くの通り迄歩くことになった。
家へと曲がる手前の角で彼はようやく、じゃあ俺はこっちだから、と別れを切り出した。
「じゃあ、さん。またね。」
「はい、 さようなら。」
カカシがにっこり笑っていつも云う、「またね」という再会へ向かう挨拶を、
私は少し逡巡して、「さようなら」と云う別れの挨拶にして返した。
其処に特別意味を込めたつもりは無かったのだが、
声にしてみると何だかやけに切実な拒絶の色を含んでいるような気がして、自分でも少し驚いた。
けれど恐らくその意図は、何もカカシにだけ向けられているのではないのだと私には分かっていた。
さようなら。
いつだって私と他者の間には、もう一度会えるような繋がりを結ぶ事が出来ないのだと、其の言葉は何よりも物語っていた。
それは、全て硝子の向こう側の出来事なのに。
(10.4.1)
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