午后三時の朝











ハヤテは浅いような深いような眠りの淵から這い上がって視界に灯を点すと、何故だか違和感を感じた。

窓には平生と変わり無く黒の斜光カーテンがきっちりと引かれ、外界を拒絶するように儚い闇を護っていた。

別に日が昇る前に目覚めた訳でも無いのに、何がどうおかしいのかは分からない。

しかし彼にとって何か平生には無い面妖な事実が其処にあるような気がして、

決して目覚めの良く無い彼はまだ朧げな瞼をひらひらと瞬かせた。


ベッドから起き上がるのが酷く億劫で、しかしけだるく軋む身体をきりっと伸ばして払ってしまいたい気もした。

両者を尊重した結果、彼はのろのろと寝返りを打ち、布団を引き寄せる事に落着いた。

ベッドや床板か何かが軋むような音が微かに聞こえて、彼は段々そんなものに覚醒を導かれた。


すると先程迄は耳に入って来なかった窓の外の微かな人の話声や葉擦れやらの雑音が聞こえて来る。

自分が覚醒していることを今更ながら自覚して、ハヤテはとりあえず身体を起こす事にした。

少し冷えた空気が背中を撫でて神経が粟立つ心地を無視した。


のろのろと立ち上がると地面がぐにゃりと揺れたような視界のぐらつきを感じて少しよろけた。

目覚めたばかりと云うのは身体が未だ自分の手元に返ってこないかのような、まるで赤子のような覚束無さがある。

夢からの帰り道を急ぎ戻っているような気がして、夢と現の境にある扉が閉まる前に何とか滑り込まなければならないのだ。

彼は人間とは身体的にも精神的にも何と不自由な拘束に搦め取られて世知辛い存在感しか持たないのだろうと思う。


思考が浮いて絡まるので彼は髪を掻き混ぜて振り切るように洗面台へ向かい、銀色の蛇口を捻った。

最初はぬるんだ水がとろりと流れ出て、其処から管から溢れ出した水の蛇は急激な変化を伴い、冷える。

ハヤテは粛々とメランコリックがこびりついたような手を洗い、顔を洗って熱を殺ぎ落とした。

タオルで乱雑に顔を拭えば、視界と脳が少し先程よりもクリアになっていた。


漸く本当に目覚めたような気分になったので、彼は取り敢えず居間に向かい、食事を摂取することにした。

胃が空白なのは自覚もあったが、別段それを苦しく思う事も無かった、むしろそれが清々しくさえあったので、

精神は食物を欲してはいなかったが、それはもう殆ど義務的で事務的な作業だった。

習慣とは刀のように裏腹な面を持つ。


そういえば昨日人を斬ったので刀を砥いでおかなければならないと思い出して彼は少し右手を握った。

彼にとって確かに人を斬る事はそれほど心地の良いものでもないが、

もう特に懺悔するような殊勝な心境も持ち合わせがなかった。


昨日斬った感触も忘れているくらいの程度のもので、感触よりもむしろ飛び散った血液の鮮やかさがちかちかした。

殺すには動脈を断つことが尤も適するわけだが、彼にとって動脈の鮮やかすぎる赤はあまり眼に良いとは云い難かったので、

どちらかというと視覚に納めるなら静脈の赤黒い濁りの方が良かったのにと彼は思った。

其の事は決して不謹慎なものの発露ではなく、ただの主観的な感覚に過ぎない。


居間に近付いたところで、ハヤテは異変に気付いて瞬時に気配を断ち、

息を潜めて夜着代わりの着物の袖から小さな針状のものを掌に添わせた。

針には少量の毒が仕込まれており、刺さった時点で毒が対象物の体内に飛散する仕組みになっていた。

一応そんなものを取り出しては見たものの、どうにも溜め息を尽きたくなるような心地を感じつつ、

僅かに話声や笑い声、かちゃりと何かが鳴る音が聞こえてくる居間の戸を慎重に開いた。


「あっれー、ハヤテおはよー。」


いつもは額宛で覆っている方の眼を眼帯で隠し、暢気に珈琲を飲んでいたカカシが当然のように云ってのけた。

テーブルには茶菓子の類いが広げられ、人数分の飲み物の入ったカップが置かれており、雑然としていた。

其れを囲うようにごくごく当たり前なふうでアンコ、ゲンマ、ライドウ、アスマ、そして何故かサスケが座っていた。

皆忍装束ではなく私服であった。


少年は大方カカシにでも訳も分からないままに連れて来られて無理矢理其処に座らされていただけのようだった。

サスケは眉根を寄せてぎゅっと口元を引き、ひどく居心地悪そうな複雑な顔をしてハヤテを見た。

突然現われたハヤテを見て驚いた様子もあったが、それよりも助けを求めるような心情の方が強かったらしい。

しかしハヤテは少年の助けを請う視線を意図的に無視した。

少し愕然とした様子が眼に見えて、ハヤテは可哀想ではあったが少年を微笑ましく、可笑しく思う。


「ぎゃはは、おはやくねぇ、おはやくねぇって、カカシさん!」

「そーよー、ハヤテってば遅すぎるわ、あたし、もうお茶するのも飽きて来ちゃったじゃない。」


何が可笑しいのかわからないがゲンマが苦しそうに笑いながら机を叩きながら云うと、

隣に座っていたライドウが落ち着けと云わんばかりに涼しい顔でゲンマの頭を叩いた。

そしてちらりとハヤテを見て苦笑した。


ゲンマに続いて云ったのは、目の前の皿に団子の串を積み上げて不機嫌そうにお茶を啜るアンコだ。

アスマは黙ってテーブルに向かう面々を眺めながら静かに煙草を蒸かしていたが、

彼もまたハヤテを横目で見遣り、にやりと不敵に皮肉った笑みを浮かべていた。


「はは、何だか面白いなぁ」


「…カカシさん、これは、どういうことでしょうか…。」


ハヤテは溜め息を吐いても吐ききれない心持ちで、マイペースを崩さず笑うカカシに様々な意味合いを込めて問うた。

現状が把握できているようないないような、取り敢えず投げ遺りなふうだった。


「なぁ、ハヤテ、見た?」


くすくす笑いながらカカシが何処かを指差すので、ハヤテは首を傾げた。

カカシは依然笑ったまま何も云おうとはせず、指を差すばかりだったし、アンコやゲンマやアスマもにやついているだけ、

ライドウは苦笑し、サスケはもはや諦めきったような苦い顔でふいを虚空を睨んでいた。


皆の顔を見渡してから、漸くカカシの指差す方を見たハヤテは、

その先にあった古めかしい壁掛け時計の短針が「3」を差しているのを見て、

付き合いの長い上忍達にしか分からない程微かに彼は狼狽した。

確かに、今現在の時間は午后三時だった。

其の様子を見た上忍達5人はそれぞれに声を上げて笑い、

彼等のそれまでの様子を無視していたサスケがびくりとして、異様なものをみるように訝しげに彼等を振り返った。


「あはは、あー、可笑しかった。

 今日俺らで昼飯食いに行く約束してたの素で忘れてたろ、ハヤテ。

 いつも神経質なハヤテが、あー、珍しい事もあるもんだよね、ははっ。」


心底可笑しそうに笑いながら、それでも穏やかに眼を細めてカカシが云った。


「お前が待ち合わせの時間になっても来ないからさ、カカシさんが無理矢理家に押しかけせたんだよ。

 そしたら珍しく熟睡してるみたいだったから、起こさずにいたんだけど。」


「あっ何それライドウ、それじゃ俺だけが悪いみたいじゃないの。

 アンコもゲンマも乗り気だったじゃないかー。」


「提案者はあんたでしょ、カカシ!

 あたしらはそれに賛成しただけですもの。」


平然とアンコが言い放ったのを他所に、ハヤテは溜め息を吐いて少し頭を抱えた。

サスケが相変わらず戸惑うように眉を顰めて、周囲のどうしようもない大人達を見ていた。


「…約束を忘れていた事は謝ります、すみませんでした。

 でも、それはそうとして、人の家で何をしていらっしゃるんですか、あなた方は…。」


「見てわかんねぇか?アフターヌーンティーだろ!」


目尻に涙を溜める程笑い転げていたゲンマが、まだ腹を抱えながら云うと、

ハヤテは呆れたように髪を掻きながら、仕込み針を彼に向かって見えない早さで投げた。


「うおっ、危ねぇ、何で俺だけ!」

「日頃の行いが悪いからじゃないの?」

「そうそう、俺らは日頃の行いが良いからー。」

「なっ…、嘘つけ!あんたらが一番質悪いじゃねぇか!」

「そう?」

「あんたに云われる筋合い無いわよ!」


ゲンマ、アンコ、カカシの三人が程度の低い応酬をしている間に、

ハヤテは取り敢えずテーブルの隅、アスマの隣に座った。

アスマは変わらずただ煙草を蒸かしていたが、心底疲れ呆れたようなハヤテを見下ろし、

苦笑して彼の頭をくしゃりと混ぜた。


「あんなでも、悪気はねぇさ。」


低く落着いて云うアスマに苦笑を返して、ハヤテは賑やかな室内の滲みを肌に感じながら虚空を見上げる。

そして、わかってますよ、と、呟いた声音が自分でも驚く程穏やかであることに気付いた。

きっと目覚めたばかりで体内の歯車が上手く噛み合っていない。

珈琲の香ばしい馨が妙に心地よさげで馴れ馴れしいのだ。


「君も災難ですね。」


テーブルに頬杖を付きながら、向いの席で複雑に顔を歪めていたサスケにふと声を掛けてやると、

少年はハッとして、意外そうにハヤテをまじまじと見て、悪態をつきたいのを我慢するように口を結んで視線を逸らした。

隣でアスマがくつくつと笑うのを聞きながら、ハヤテも幾分微笑ましい気持ちで静かに眼を閉じた。











fin.




(04.10.29)

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