落ちたなら其の背に手を振ろう
とても天気の良い、つまり、とても天気の良すぎる晩夏の日射しを極力木陰で除けながら俺は歩いていて、
もちろん俺は汗一つかかないわけだけれども暑いのは普通の人と同じように暑いと感じるので、
忍装束と云うのは確かに任務時には機能性は高いが、日常生活には不適合だと思ってマスクの下で舌打ちをした。
其の舌打ちは、だからといって、そう不機嫌なものでもなく、
どちらかと云うと暑さに対して反応する為にする、ごく義務的な作業に過ぎなかった。
人間をやっていき、なおかつ忍をやっていくということは、
極めて面倒なそういうフローチャートの踏襲も必要だったりするものであり、
俺は割と律儀だと自分では思うので、何となく遵守してみたりして、自分で自分の失笑をかったりする。
生きることどうこうに今更何の感想も無いが、いろいろと面倒な事は本当にたくさんあるものだと俺は思った。
大きな建造物の傍を、小さな影に足だけを突っ込みながら爪先を見て歩いていると、
真直ぐだった影の縁から唐突に丸い影がひょいと直線を破ったのが爪先の10センチ先に見えた。
ので、俺は足を止め、真上に上った太陽を直接見ないようにしながらも器用に建造物を見上げた。
建物の最上階、屋上の手摺から黒い丸いシルエットが逆光に縁取られながら地面を見下ろしていた。
多分人間の頭だ。
手摺から身を乗り出しているものなんてそのくらいしかなかろう。
申し訳程度に右手を、露出している方の右目の上に掲げて庇を作りながら、おそらく5、6階程度の高さを見上げる。
どうせ其の高さと逆光じゃ身を乗り出している人物の判別なんて付きもしないが、
向こうが見下ろしているならこちらは見上げるべきだろうかと、律儀と云う自己認識を引っぱり出して暇潰しをした。
乗り出している人物が、中途半端に左手を上げた。
教師に質問する時に挙げるような手の動きにしてはあまりにも意志を感じないやる気の無い手の上げ方だったし、
挨拶するにしてはやたらと面倒臭そうでこれもまた挨拶をしようという意志を感じない。
かと云って対象人物をないがしろにする気も無さそうだったので、余計にそれは中途半端な手だった。
しかし、其の中途半端さで顔は見えなくとも俺は其の人物が誰なのかすぐにぴんときた。
根拠は無いが何となくこんな手の上げ方をするのはハヤテだろうと思った。
俺は漸く身を乗り出す其の逆光の人物を承知したので、
俺は中途半端な手からすぐに視線を下ろし、建物の入り口を探した。
建物は廃虚然としていて、赤錆と塗料が浮いたぼろぼろの鉄製の扉を押すと、
ざりざりと砂を嚼むような音を立ててそれは開いた。
硝子の割れた窓には全て内側から薄い板切れが打ち付けられてあるので、建物内は薄暗く、
黴びたような陰気な空気が少し冷たく湿り気を帯びていた。
残暑に蒸されている屋外に比べると涼しくはあるが、通常の感覚で云うならばあまり居心地の良い空間では無かった。
建物内部は随分と荒れており、漆喰が禿げて所々板が剥き出しになった壁にはスプレーの稚拙な落書きがあった。
床板は何年も風雨に晒されたかのように白っぽく変色し、表面が少し反っていた。
中央近くには踏み抜いた痕跡すらあり、相当の年月を荒廃に任せていたのだろうと思われる。
室内には壊れたり埃を被ったりして風化しかけた椅子や机、
色褪せ文字の読めなくなった書類に何年前のものなのか分からないカレンダー、
中綿の散乱するソファー等、退廃に朽ち行くのを静かに待っているものばかりが無造作にばら撒かれていた。
完全なる廃虚だ。
妙に視覚としてしっくりくる荒廃ぶりに眉を上げ、数秒の間を置いてから無遠慮に室内に踏み入った。
暗さに馴れ始めた眼に、部屋の奥にある階段が見えた。
取り敢えず使用しても危険は無いようなので、躊躇なく其の階段を使って真直ぐに最上階迄上りきった。
途中の階にある部屋も一階と似たような荒廃ぶりで、ただ、汚れた本や雑誌の類いだったり、
布団や枕やベッドカバーだったりと、散乱しているものが少しばかり違っているくらいの差異しかなかった。
屋上に通じる扉は、入り口と同じく金属製の扉で、しかしこちらには緑青が付着していた。
両手をポケットに突っ込んだまま、数センチ程開いたままの扉を足先で押してやると、
ぎりぎりと音を立ててぎこちなく開いていく。
「カカシさん、何で足で開けるんです。」
開いた扉の向こう側から、言葉の意味といまいち噛み合わない、たいして何の感慨も無さそうな声が聴こえて来た。
やはりそれはハヤテの声だった。
「両手がポケットの中だからねー。」
扉を潜ると、何の変哲も無い屋上の何の変哲も無い空間でただ立っているだけ、
と云う風情のハヤテが、顔だけこちらに向けていた。
俺の返答なんて微塵も期待していないと云うふうの無表情だった。
「ハヤテ、あんたこんな所で何してんの?」
「あぁ、あれですよ。」
殆どどうでも良さそうにやる気の無い空気のまま、ハヤテは先程彼が身を乗り出していた手摺の方を指差した。
屋上は、先程くぐり抜けた扉と手摺しか無いと云う極めて素っ気無いものだ。
ハヤテが指差す方向にはただ手摺があるだけで、
それがどうしたのかとちらりと横目で彼を窺うと、もっと下です、とだけ云った。
云われた通りに視線を手摺から下にずらしていくと、コンクリートの地面に、
唐突に赤い小さなものが2つ、きちんと揃えられて置き去りにされていた。
よくよく眼を凝らすと、それは靴のように見えた。
「…靴?」
「靴。」
頷いて鸚鵡返しにするハヤテに苦笑しながら、俺は何だかもうどうでもいい気分になりながらも、
もう一度眼を凝らして其の靴を見た。
ハヤテもただけだるそうな無表情で靴を眺めていた。
小さな一足の赤い靴が、ちょうど手摺の方に向かうように、きちんと揃えて置かれていた。
柔らかそうな皮靴で、大きさやデザインから見て、まだ十代の少女が履いているようなものに見えた。
荒廃した建物の、退廃の侵食する無色の屋上で、其の鮮やかな色彩は一種の異物に見えた。
しかし、そのコントラストの異常と場違いさよりも、むしろその靴の揃え方の方が気になった。
あれではまるで。
「自殺かと思ったんです。」
何度か咳をしてから、ハヤテは俺の思った事を汲んだように唐突に云った。
「ここへは里の見回りをしていて、偶然通りかかったのですが、
どうにも、目立ちますでしょう、あれ。
揃え方に、置いてある向きも少し気になって。
でも遺書とかそういう、ほのめかすようなものが何も無いんです。
ただ、置いてるんですよねぇ、あれ。」
少し考えるように口元に手を当ててつぶやきながら、彼はまだ靴を見つめていた。
其れをみて、俺はあぁなるほどと、今ようやく合点がいく。
「そっか、だから手摺から身を乗り出して見てたのか。」
地面に叩き付けられた少女の死体があるかどうかを。
其の言葉をうやむやに飲み込んむと、ふと頭にそのような光景が浮かんだ。
手足が通常の人体にはありえない方向に捩じれ、血を流し、ぐったりと地面に横たわる少女の死体。
血を吸った砂が固まり、彼女の肉体が温度を無くし始めた頃から、残暑の中で徐々に腐敗を始める。
此の周辺は里の中でもずいぶんと辺境の場所であり、人通りも殆ど無いので、
少女の死体は誰にも見つからないまま、ただ静かに腐り落ちていく。
光景としてはそれはグロテスクで痛々しい、そしておぞましい姿ではあるのだが、
一見それは何処か神々しい自然への帰着にも思える。
少女が還るところは胎内でも海でも天でも無く、蒸し暑く生温い風が雨を呼ぶのを待っている、渇いた砂の中なのだ。
「ハヤテさぁ、もし本当に死体があったらどうするつもりだったわけ?」
「どうするもなにも、報告するでしょう、普通。」
ナンセンスだとは思いながらも興味本位で尋ねると、至極真当な返事が呆れたような声音で返ってきた。
「…まぁ、でも、まずは、手を振りますよ。」
「手を?」
「そう、手を。」
彼は、溜め息では無いが、小さく息を吐いた。其の静かな動作は、ほんとうに呼吸そのものに見えた。
青白い彼の頬が強く真上からの光に刺され、一層白く見えた。
昼間に見る彼は、どうにも陽炎のようなあやふやなもののようなのである。
それは儚さ等とは違う、彼自身が世界を無視しているかのような法則の無い無感動な疎外だ。
「あぁ、確かに、そういう見送り方はいいかもしれないねぇ。うん。」
片目だけでにやにやと笑いながら云うと、ハヤテは少し胡散臭そうに俺を一瞥してから、
しかし彼もまた少し口端を上げて不敵に笑んだ。
風がいよいよ蒸し暑くなってきたので、きっと陽が傾きかけた頃、夕立ちがくるだろう。
意義を失い、靴はただの靴であるままに、これから廃虚と共に風雨に侵食される。
「折角だから手でも振っていく?」
どちらからとも無く扉に向かって歩き出しながら、俺は少し前を歩く彼にそう問い掛けた。
振るんですか、と逆に問い返されたので、曖昧ににやりと笑うと、彼もにやりとした。
「そんなもんだよ。」
そう云うと、ハヤテは少し振り返りながら戯けるように肩を竦めて、するりと扉の向こうの薄闇に溶けた。
fin.
(04.10.27)
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