Cocoon











このままこうして私達が同じ家の中に眠り続ける事は不可能だと思うのです、私がそう彼に告げると、

彼は伏せた眼を銀色の髪で覆いながら、指を胸の前で組んで小さく溜め息を吐いた。

其の様子があんまりに哀しげに見えたので、大丈夫ですか、と、

思わず問い掛けそうになるのを、私はただ胸の奥底の方に嚥下して、

しかし其の言葉が固体化して私の管の奥をひっそりと塞いでいるのが分かる。


彼は恐らく疲れていた。

それは私にも確かに云える事で、私も真実疲れていた。

でも不思議と私には其れと云う決別がちっとも哀しいことには思われなくて、

穏やかで柔らかい絹のような節目を形作る切欠のように感じられる。

哀しむ事は何も無いのだよと彼に伝えてあげたかったが、生憎私は言葉が足りなくて、

肝心な事になればなるほど口を噤んでしまう悪癖があった。


此れが任務であるならば、手垢に塗れて辱められ腐敗した言葉を彼の傷に塗り込む事さえ何とも思わないが、

そんな上滑りするよごされた言葉等、今こうして私の眼前で眼を伏せる彼に何の意味があろうか。

間違っても今は私と彼とは同業者であっても仕事を介した関係性は無いのであるから、

私自身の元来持っているものなんかでは、彼の肩に掛けてあげるべき暖かな布地の一枚も見つけられない。


私は誰かの肩を暖められるだけの布を必要とした事等今迄にも多分無くて、

此れからも無いと思っていた為に、彼と云うごく傍にいる人間の予想外の成立に未だ戸惑い、

無いものを探して手探りをして、結局無いのだと正直に告げる事も出来ず、

何も云えないまま黙って彼を寒空の下にただ突き放して放り出そうとしている。

直接手を下さない緩やかな疑似死刑を執行しようと云う傲慢で無資格な裁判官気取りなのだ。


私がこうも自分を悉く貶し詰っているのには自虐性と似て非なる理由があって、

其の理由と云うのがつまり自虐の根本に繋がっているかもしれないけれど、

確かに私にとっては其れらは全く別の事象であるのだった。

理由と云うものは勿論あるのだが、其の理由の具体的な内容は私の身体に刻まれているだけで、

私自身の意識には解明出来ない或る種遺伝子のように意識に対して暗号めいたものなのだ。


「ねぇハヤテ、」


いやに落ち着いた彼の声に反応して、殆ど反射的に彼を見ると当たり前のように視線が合う。

思考の底無し沼に沈みかけていた私をいつの間にかゆるりと見つめていた彼の色違いの赤と黒の眼球。

彼の眼を切り裂いた其の一筋の傷跡に私が指を這わせたのはついこの間の話だった。

憶いの深さに比例して傷は綺麗に皮膚を裂いたそのままの姿で記憶を具現化し続ける。

そんな彼の深みを覗き込むような真似を不謹慎だと思いながらも触れたくて仕方が無かった。

そして其の時あわよくば彼の傷を抉りたいとさえ思ったサディスティックなマゾヒズムが私の脳裡を掠めた。


「なんですか。」


私は意外と自分の声が落ち着き払っている事に、声を出して其れを耳にして初めて気付いたのだった。

落ち着くも何も、私は最初から何も動じてはいなかったのだが、

しかし私は自分がもっと動揺してもいいかもしれないとの期待もあったように思う。


決別に対して動揺し、心象の輪郭にぶれを生じて何か意味を見いだせたなら、

彼に与えられる人間的な何らかのものが見つかるかもしれないとそんな打算的な狙いがあった。

しかしそれも悉く潰された可能性だ。


そんな私の渦巻くような濃い灰色の汚濁を知ってか知らないでか、彼は相変わらずだった。

私にとっての彼の印象と云うのは、何年付き合いを深めようと、結局のところ一向に変わらなかったのだ。


「厭だと云うのは此の場合の役割的に云うと俺の方なんだけどさ、

 ハヤテそれじゃまるで逆だよ。」


「カカシさん、貴方の其の謎掛けのような語り口は、私よく分からないんですが。

 貴方の真意を汲むのは非常に回りくどい課程が必要で困りますよ。」


切り口を丸く削った皮肉なら幾らでも云えそうで、私は自分の悪癖を思うと窒息しそうな気がした。


「はは、物分かりの悪い子だなぁ、あんたはさ。

 ハヤテって見た目ばっかり大人で中身はまるで子供なのよ。」


「其れ、カカシさんに云われるのは心外です。」


「おう、云ってくれるねぇ。」


彼の掴み所の無い何処かに漂う危うさに酷く焦るような気持ちになって、言葉を急くように皮肉を返した。

其れに対したって結局、やはり彼の飄々とした、私の危惧する不安要素を孕んだ言葉に躱されて、

私は後味の悪い不安ばかりを噛み砕かなければならなくなるのだ。


嗚呼、思えば私は彼の事は嫌いじゃないが、彼が私に与えるこんな心地が厭で厭で仕方が無かった。

彼を切り離すなら今だと思って私は今日こんな話を切り出したのかもしれない。

早く話を終わらせてしまいたくて、そして早く一人きりの此の広い家で静かに蹲って眠りたかった。


私は夜の隅で前後不覚の孤独の眠りを貪りたいのだ。

同じ家に聞こえる彼の鼓動と呼吸が生々しくて変に浮ついて戻れなくなるのが怖くて眠れなかった。

存在と云うものは何と生々しいのだろう。

その生々しい存在と云うものを研ぎ上げた刀でもう何度切り捨てたかも分からないのに、

彼と云う生々しさに今更私は怯えているような気がしてならない。


「俺を切り離そうとしてるのはハヤテなのに、

 なんであんたの方が切り離されたみたいな顔してんの。

 そんな不安そうに考え込まなくってもさ、俺は別に後を追ったりしないし、

 ハヤテのこと捕まえて縛り付けたりもしないよ。

 俺がそんな事するような質じゃないことくらいわかってる癖にさ。

 あんたは本当は何をそんなに心配してんの。」


「…私には貴方の云ってる事がよくわかりません。」


物わかりの悪い子だなぁ、とまた繰り返し云って、彼は私を見て眼を細めながら笑った。

どうして彼は今の私を見てそんな笑い方ができるのだろう。

彼は私を好きだと云った。

其の気持ちは今も変わっていないらしいのに、

そんな彼を切り離して捨てて逃げようとする私に、こうして穏やかに戯けてみせて、

何も無い場所に納得するような無茶な理解を受け入れている。

こんな理不尽な話があるだろうか。

私にとっても彼にとってもひどく理不尽な結末を用意した私を詰りもせず、何処へ行くつもりなのだ。


「ハヤテは俺のこと分かり難い奴だって思ってるらしいけどさ、

 俺、自分ではこんなにお前に対して分かりやすい事してるのになぁって思うんだよね。

 お前は自分の事をひどく難しく考え過ぎるから、俺の事も難しく考え過ぎてるでしょ。」


「カカシさんは実際分かり難いじゃないですか。」


「仕事ん時はそーかもしれないけどねぇ。

 ちょっと落ち込むなぁ、俺、お前に対しては気持ち悪いくらい素直な人間なのよ?」


「…何故。」


「何故!何故って!」


私の小さな疑問の声を耳聡く聞きつけて、一瞬眼を丸くした彼は、唐突に机に突っ伏した。

小刻みに揺れる肩と、机の下で腹部を必死で押さえる両腕を見る迄も無く、

彼は心底可笑しそうに笑いを必死で堪えていた。

私は其の様子に少し面白く無いものを感じて眉を顰め、幾らかの咳を零した。

むっとした私を気にも止めないで、彼は暫く机に突っ伏したまま笑い続けていた。


「あのさぁ、」


しきりに眦に溜まる涙を指で拭いながら、ようやっと笑いを収めた彼が云う。

其の声はまだ少し可笑しそうな含みの残滓がありはしたが、先ほど迄とは違う真実味があり、

私は其処に彼の持つ圧迫感のようなものを感じて少し身構えた。

こう云う気配をもって彼が私に対峙する事は滅多に無かったので、私は少し戸惑う。


すっと私を見つめた彼の赤と黒の虹彩の、鋭く強く。


「望むなら、俺はあんたの目の前から何時だって消えるよ。

 でも覚えといてね、俺はハヤテを一人にしたくないって事。」


抉るように深く、彼は私の沼を一瞬で捩じ伏せた。

それ以上彼の眼を見ている事が出来ず、私は思わず眼を逸らし、

彼と云う底無しのくらやみを垣間見て、自己認識の間違いに気付かされた。


決別を決めても哀しみを思わずにいられたのは、

所詮、私は彼との決別など最初から出来ないと云う事に、頭の何処かで気付いていたから。


私は疲れていた。

彼も疲れていた。

偽証を明かせば、恐らく私たちは楽になる。


ただ、もう二度と「此処」へは戻れなくなるだけのこと。













fin.




柔らかな拘束の繭の中

其処から出る術も知らない

(05.5.16)


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送