白い爪の先


貴方が生きている証


一緒に居た事を覚えていてもいいのなら


僕には何の悔いも無かった













白い爪














もうほとんど暗くなっているアカデミーのグラウンドを、砂利を踏みつけながら歩く男の姿があった。

その人物は、グラウンドを取り囲むように植えられた樹の下を通っている為、

夜の足音が響く闇よりも濃密な木陰に隠れており、辛うじて動いている事が分かるくらいだった。

彼の足取りは躊躇い無く校舎の傍にある水道に向かっていた。


アカデミーにあるグラウンドの、校舎寄りの隅に、乳白色の石造りの小さな水道が備え付けてある。

夏場にはアカデミーの多くの候補生達がそこで手を洗ったり、冷たい水で喉を潤したり、

怪我を洗ったりと頻繁に使用されている。


しかし、冬ともなれば誰もが手を冷やす事を嫌がり、使用される回数は減る。

その上かなり水道は古びている。

寒さの為に凍り付いて水が出なくなる事もしばしばだった。


やがてその姿は木陰から姿を表わした。

月の無い濃紺の空に白い顔が浮き彫りにされる。

もともとそれ程顔色が良く無いのであろう、白いと言うよりはむしろ青白い顔色で、

目の下の隈や時折咳き込むのも手伝って、とても生気等感じられなかった。


無表情のままつやりと生々しく光る蛇口を汚れた手で少し捻った。

手の汚れ、それは一見泥のようにも見えるが、紛れも無く人の血が変色したものである。

それを物語るように、彼が身につけている忍装束には、

どろりとした液体が赤黒い花のようにしっかりと染みを作っている。


流れ出した凍てつくような冷たい水道水をその手に浴びると、

乳白色の石の台にぽつりとある赤茶けた排水溝に薄紅い水が吸い込まれていく。

たちまちに石は赤く染まり始め、水の赤はより濃ゆくなっていった。


しばらく蛇口から溢れる水にただ手を打たせていたが、


今度はゆっくりと手を摺り合わせるようにこびりついた血の塊を綺麗に洗い流す。

しかし一度皮膚に染み込んだ血液は指紋や爪の隙間をしっかりと染め上げ、どうしても綺麗にはならない。

表情の無かった彼の顔は、今では苦しく、悲しそうに歪んでいた。


長い間水に触れていた為にすっかり冷たくなった手で蛇口を閉めて、

彼はそのままふらふらと項垂れながらグラウンドの出口へと歩いていった。

濡れた手には、未だ紅い染みが拭いきれないでいるままだ。










「おかえり、・・・なさい。ハヤテ。」


そう言って、開け放たれた窓の縁に腰をかけていたカカシは、小さく口を歪めて右手をそっと上げた。

彼がいつも口布で隠している顔は珍しく曝け出され、一筋の傷を残す左眼すら露にされていた。

夜風にカーテンがはためき、銀色の髪が揺れる。

闇に溶け込むように、そこにいる事に違和感すら感じさせない自然な気配だった。


誰もいないはずの自分の家に帰って来たハヤテは、少しも驚いた様子を見せないで、

勝手に自分の家に侵入していたカカシを咎める訳でも無く、

しかし構う訳でも無く、薄暗い洗面台へと向かって歩いて行った。

それを追うようにカカシも窓から降りて来て足音も無くゆっくりと洗面台へ向かう。


「取れないんでしょ。血。」


手をただひたすらに、無心に洗っている丸めた背中に向かって、カカシは抑揚の無い声をかけた。

ハヤテは何も答えなかったが、それは肯定でもあった。

真っ白な棚に無造作に散らされた使われた形跡の無い白いタオルを取り、カカシはハヤテの手首を掴んだ。

暗い瞳で黙ってハヤテが腕を預けるのを見て、

カカシもまた何も言わずにタオルでハヤテの手を擦り始めた。


「・・・・・・とれますか。」


静まり返った部屋にぽつりと呟いたハヤテの声が、小さな声なのにやけに響いて聞こえた。

夜の空気は少し震えているみたいだった。


「ん、多分ね。・・・ちゃんと綺麗にしてあげるよ。」


アリガトウゴザイマス、とやけに機械的な言葉を造り上げながら、

暗がりに浮かぶハヤテの表情が、カカシには泣きそうに見えた。







暫く湿ったタオルでハヤテの手を擦り続けていたカカシは、ようやくその手を解放した。

はい、と短く言って、微かに赤みを帯びたタオルを空っぽの洗濯篭に投げ入れた。


「痛いです・・・。」


「あはは、ごめんごめん。ちょっと擦り過ぎたかな。

 でも、擦って赤くなってるのを除けば、ちゃんと爪の中の血までとれたよ。」


にこりと不器用に笑みながら彼はもう一度ハヤテの手をとった。

ハヤテの白い手は、摩擦によって赤くなっている。

その中で、少し伸びた白い爪は綺麗に揃っていた。

手をじっと見つめている真剣な顔つきをしたカカシにハヤテは少し首を傾げる。


「・・・爪、伸びてるね。」


「ああ、ついいつも切るのを忘れてしまうんですよ。」


「別に、そんな切らなくていいと思うよ。」


「どうして、」


「なんか、生きてるって感じがするじゃない。」


爪が伸びてくるから、

髪が伸びてくるから、

ちゃんと身体が動いてて、

ちゃんと此処で生きてるって実感出来るじゃない。


そう繰り返して、カカシはハヤテの顔を見て、頬に影を落としながらとても柔らかく笑った。

ハヤテは今にも泣きそうな、悲しそうな表情のままどうしてよいかわからないといったように、

闇に蝕まれて朧げな輪郭が見えるだけの暗い部屋を見つめていた。

そして、カカシに握りしめられている自分の手の爪に視線を落として、そっと眼を伏せた。


自分の爪よりも、短く切りそろえられたカカシの爪の方が、よっぽど瞼に残っている。

彼の爪も、今もずっと少しずつ伸びて、絶え間無く「生きて」いる。


温かかった彼の手は、今はハヤテと同じくらいに冷たくて、まるで少し震えているみたいだった。
















end.


(02.3.27)


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