沈む箱船と共に
私はいつだって、陛下だけをみていた。常にそのお傍に付き従い、与えられた命令を忠実に守り、余計な口答えはせず、
己の手を血で汚す事すら厭わず、その至高の存在を心から畏れ敬い、忠誠を誓って頭を垂れてきた。
ピオニー陛下を本当に尊敬していた。
尊敬している。皇帝としても一人の人間としても、かけがえのない主だった。
お傍にいる事を赦されている限り、私は彼の方に降り掛かるあらゆる災いを退け、守り、
そして最期は此の方の為に命を賭して逝きたいと思っていたし、そうあることを信じて、一片たりとも疑わなかった。
そう、信じて、いた、のに。
「…ずっと、俺を殺したかったんだろう?」
陛下は小さく顔を顰めただけで、痛みに呻くでもなく、静かに低く擦れた声で私にそう問うた。
見る間に鮮血がじわじわと滲んでいく脇腹を片手で押さえながら、
金色の指輪を填めたその手指が、どろりと溢れ出した赤色の中に埋もれて行く。
もうとっくに見慣れている筈だったその色が、私の瞳に恐怖と共に焼き付いて離れない。
陛下は傷口には見向きもせず、ただ私を見下ろしていた。
違います、と咄嗟に反論しようとしたが、私の喉はひゅうひゅうと空回るばかりで、
唇は戦慄き、振り絞った言葉の一滴さえ伝える術が無かった。
私は愕然とした。
(…違う、違う!)
私は膝と手を床に付き、陛下の足元で不様に這いつくばっていた。
傍らに堕ちている赤くぬめるナイフの刃先が、やけに視界の端をちらついている。
テーブルに凭れるようにして立っている陛下を、私は息苦しさに喘いで茫然と見上げるばかりだった。
違うのだ。
私は陛下を、敬い、守り、そして、だから。
…だから、決して、決して、こんな酷い裏切りを望んでいた訳では無かったのに!
どうしてこうなってしまったんだろう。
私は何処で何を間違った。
私は、何故、陛下に、ナイフを。
衣服の赤い滲みがじわじわと広がりゆく様を見上げて、私は青褪める。
陛下にそんな傷を負わせたのは誰だ、陛下を傷つける不届き者は始末せねばならない、
だって私は陛下をお守りするのが仕事で、義務で、誇りで、私は、私は…!
「お前は、俺を殺したかったのだろう。」
再び静かに注ぎ与えられたのは、もはや疑問ではなく断定の言葉だった。
目の前が闇に閉ざされたような絶望的な思いに心を握り潰されて、両の眼から腑甲斐なく涙が溢れてくる。
滔々流れるそれを拭う事も忘れて、見開いた瞳に陛下の姿だけを映し、震える唇を抉じ開ける。
「…ち、ちが、…ちがいます、陛下、…!」
そんなこと、嘘です、ひどいことをおっしゃらないでください。嘘です。私は、陛下を、だって、違います。
違う違う違うちがうちがう違うちがう違う違うちがう違う違う違う違うちがう!
泣きじゃくりながら陛下の御前で這い蹲る私は、さぞや醜く惨めであったろう。
しかし私はどうしていいか本当にわからなかったのだった。
此れが自分の全てだと信じ貫き、その矜持を支えてきた柱が、まるで呆気無く崩れていくようで。
だとしたら、今までの私の存在価値の全ては、偽りであったとあなたは云うのか。
「私は…自分さえ、見えていなかったと仰るのですか…。
わ、私は確かに…陛下をお守りしたかった…!」
その気持ちはほんものであったはずなのに。
陛下は少し淋しそうに微笑んで、ゆっくりと首を横に振った。
その動作が何を意図してのものだったのかはわからない。
しかし、どこか悲しいやさしさに満ちた陛下の青い眼差しが、暖かい雪のように私に降ってくる。
呆然と涙を流しながら陛下を見上げ、私は物語の結末を知る。
ああ、今、やっとわかった。
私はきっと、陛下を殺めたかったのではない。
もしかしたら、此れを望んでいたのかも、しれなくて。
(---------我が君に、命のすべてをかけて幸いを願う)
陛下は、おもむろに壁に掛かっていた美しい装飾の長剣を手に取ると、私の目の前で、ゆっくりと其れを振り上げた。
私は身動きすることも忘れて陛下をぼんやりと見上げながら、涙の流れる瞳のままに、小さく微笑んだ。
陛下はそんな私に優しく微笑み返してくださった。
その御顔は、微笑んでいるのに、まるで泣いているみたいだった。
fin.
(11.7.9)
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