※キャラはほぼでてきません。もはや夢小説ではありません。主人公はだいぶ頭が飛んでます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

謳う福音

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は虜囚である。

 

 

私はケテルブルクと云う、北の果ての大陸にある街に住んでいる。

年中つめたい雪にすっぽりと覆われた、白い白い砂糖菓子の様な閑静な街である。

 

偉大なるカール三世によって開拓された此の街は、マルクト帝国の領土の中でも最も有名なリゾート地だ。

また、此の地は、現マルクト皇帝であらせられるピオニー九世陛下が、幼少の砌を過ごされた場所でもある。

マルクトが生んだ天才と名高いバルフォア博士とネイス博士のお二人も、此の地にてお生まれになった。

これらを踏まえただけでも、マルクト帝国において、此処が首都に次ぐ著名な街であることは明らかであろう。

 

私はそんな、誇らしくも疎ましい此の白銀の街に生まれ育った。

けれど私は未だに街から一歩も外へ出た事が無い。

酷く矮小な、心の弱い人間である私は、街の外が恐ろしいのである。

 

魔物の跋扈する街の外へ出るのが恐ろしい。

暗く深く横たわる海を渡るのが恐ろしい。

見知らぬ土地で見知らぬ人々に囲まれて、脆弱な此の心が押しつぶされてしまうのが恐ろしくて仕方が無いのだ。

けれど私が外に出る事を恐れる一番の理由は、何より、

私が此の街の外に足を踏み出す、と云う預言が、まだ一度も詠まれた事が無いからだった。

 

 

私は虜囚である。

 

 

私の両親は敬虔なローレライ教の信徒だった。

始祖ユリア様のお教えを護り、崇高なる導師様を敬い、ローレライに粛々と祈りを捧げる、敬虔な人達だった。

其の両親の愛情を受け、慈しまれて育った私もまた、幼い頃から敬虔なローレライ教徒であった。

 

どこにでもいるような、ただの、敬虔な、ローレライ教徒であった、のに。

 

私は一体、何処で何を間違えてしまったのだろう。何がいけなかったのか。

いや、それとも、私は生まれながらに狂人の素質を持つ、異端者であったのだろうか。

私はそんな己の事を考えると酷く心が軋み、悲鳴を上げたくなるのだ。

 

成長するにつれて、私の慎ましく清らかな信仰心は、徐々に歪み始めた。

いつ頃からそうなったのかは覚えていないけれど、私は次第に、預言に深く依存し始めたのだ。

 

毎日欠かさず教会へ足を運んでは、美しいステンドグラスで描かれたユリア様の御前に跪き、

何処か急き立てられるような、端から見れば鬼気迫る切実ささえ伺える程に、ひどく熱心に祈りを捧げた。

基本的には毎週レムに行われるミサの日だけであるところを、預言士様に少々の無理を聞き入れて頂き、

毎日毎日、私は執拗な迄に預言を詠んで頂くようになった。

 

そんな私の切実な、むしろ異様な迄の有り様を、

けれど預言士様は鷹揚に微笑まれて、私の敬虔さに感嘆のお言葉さえ下さった。

信徒たる私の為になるならばと、毎日毎日つまらぬ瑣末事についてさえ、

私が乞うままに須らく預言を与えて下さるのだった。

 

預言士様の御慈悲に深く感謝と尊崇を覚えると同時に、

私の奥底にある闇の中でひび割れ行く心の隙間を、絶望にも似たおぞましい恐怖が埋めていくのを感じていた。

其れが表に滲み出してこないよう、心の扉を閉めてきつくきつく鍵を掛け、私は必死に見ない振りをした。

見ない振りをしながら、日々与えられる預言に、生きる事の全てを病的な迄に依存していった。

(自分が病的と呼んで相違無い程に狂気を孕んでいることに自覚はあった。

 ただ、其の事実さえも見ない振りをしていたのは、偏に私の卑しい弱さに過ぎない。)

張りつめたか細い枝がやがて折れてしまうのに、そう時間は掛からなかった。

 

(天気はどうだろう、今日は何をするべきだろう、何処に行けばいいのだろう、

 何を食べればいいだろう、どんな服を着れば、誰に会い、何の話をして、

 どんな行動を、どんな表情を、何を、どれを、どうやって、どうして、何で、どうしたら、

 ………ああ、どうすれば、こんなの、どうすればいい!)

 

ある日、とうとう錠を壊して扉を喰い破り、

私が目を背け続けてきた心の奥底から湧き出るおぞましいものが、ついに表出してしまった。

此の身の全てをあっという間に浸食してしまったどす黒い其れは、

私の心をどうしようもない絶望の檻に幽閉する。

 

 

私は虜囚である。

 

 

預言を戴き、預言の通りに粛々と慎ましく生きる事が美徳であり、正しい事なのだ。それは間違いない。

なのに、そのはずなのに、私の純粋な信仰心は、いつの間にか酷くおかしなことになってしまっている。

 

強迫観念とさえ云える程の途方も無い不安と焦燥に駆られ、預言無くしては何が起こるのか不安で外出もままならない。

もはや此れは病であった。けれど何がいけなかったのかがわからないのだ。

自分が何処で何を間違ったのかが分からない。

預言の通りに生きる事が正しいのは誰もが認める所の真理である、にも関わらず、

その真理に沿って生きているだけなのに、一体何がこんなにも私の心を責め苛んでは追い詰めるのだろう。

 

自分でも理解し得ない齟齬を来した歪な心情を、まして他者になど、説明ができよう筈も無い。

そしてそんな勇気も無い怯懦な私は、誰かにこの恐怖を伝えて助けを求める事も出来ず、

じわじわと精神が追い詰められていくのを、身を震わせながら耐えるしかないのだ。

 

敬愛するユリア様への私の信仰心には一点の穢れさえ無く、其の至高の存在に対して疑いなど微塵も無い。

だのに私の心は何故か歪んでしまっていて、得体の知れぬ恐怖に怯えている。

正しい筈の自分の行いに疑問を抱き、けれど育んできた信仰心故に、

信じるべきものを疑おうとしている不道徳な己に嫌悪感を抱いた。

そして、そんな自分の在り方に不安が募る故に、其の不安を和らげんとして更に預言に縋ることを止められない。

其れは酷く恐ろしい悪循環だった。

 

私は不安と恐怖、絶望に打ち拉がれて心を深く病んでいく。

それでも無理矢理に微笑んで日々を役割通り演じ切れば、誰一人として私の歪曲には気付かない。

気付いてくれない。

誰もこの不道徳な私を責めてはくれないのだ。

 

街の人々は「信心深く熱心な」ローレライ教徒たる私に親しみを込めて微笑んで下さるし、

街の預言士様は私の「敬虔さ」を讃え、真摯に預言を与えて下さる。

気の違ってしまいそうな程に甲高く軋む毎日の中、私の感じていた歪みは自分の内だけに留まらず、

いつしか私を取り巻く世界の全てが捩れているようにさえ感じ始めていた。

 

有り触れた無害な存在だった筈の私が、一体どうしてこんなにまで異端となってしまったのだろう。

私はもう耐えられなかった。いっそ自害してしまおうと思い詰め、

震える手で握ったナイフの刃先を見つめた事さえあった。

しかし私は己の命を絶つ事も出来ない。

(ああ、だって、死すべき定めを、預言に詠んでもらうことはできないのだから!)

 

預言に詠まれないから死ぬ事も出来ず、けれどもう生きている心地もしない。

それでも、私は預言無しでは最早身動きさえもできないで、深まる亀裂に精神を沈めていく。

私と云う人間はあまりにも惰弱だった。

 

私はこの世界の虜囚なのである。

世界に飼い殺され、凄絶な生き地獄の中、それでも、生きていかなければならない。

 

 

 

 

 

 

ある朝、いつもの様に濁った眼を緩く伏せながら足早に教会へ向かっていると、

どこか平生とは違う、不穏な騒々しさが辺りに溢れているのを感じた。

何故か妙な胸騒ぎがするような気がして落ち着かず、私は殆ど走り出すようにして急いで教会を目指した。

 

此処数ヶ月程で、世界は著しい変化を迎えていた。

マルクトとキムラスカの間に戦争が起きたり、世界のあちこちで突然相次いで謎の崩落が起きたり、

かと思えば大地の全てが「降下」したとの公式発表が為されたり。

突然そんな事を云われても、事情をよくよく飲み込めていない国民はただ戸惑うばかり。

街中何処もかしこも、明日をも知れないと云う浮き足立った不安に始終包まれていた。

 

帝都グランコクマから遠く離れたケテルブルク迄はなかなか情報が行き渡らず、

むしろ其れ以前に、急激な世界の変化に国の上層部すら追いつけていないように見受けられた。

そんな世界情勢の不安定ささえ、降り積む雪と共に閉ざされた私の心を動揺せしめるものではなかった。

 

大地が降下した時は断続的に続く地揺れに身を震わせる思いであったが、

其れ以外は此のケテルブルクの街の中は至極平和なものだったからだ。

所詮人間は、自分の身に降り掛からなければ、事の大変さを本当の意味では理解できない生き物だ。

全ての出来事を何処か他人事のように感じながら、

相変わらず異端者たる己に絶望し続け、歪みに押し潰されて死にそうな心を、何とか繋ぎ止めておくので精一杯だった。

 

少し息を切らせながら辿り着いた教会には、大勢の人が押し寄せていた。

人々は狼狽を露にしながら惑いざわめき、教会前の広場は異様な雰囲気を放っていた。

其の光景を遠巻きに見つめたまま、私は思わず立ち止まった。動揺の余り足が竦む。

 

確かに今日はレム、週に一度のミサの日だから、人が普段よりも多くて当然だ。

しかし、何処か切羽詰まった様な声を上げながら、

街の人々が此れほど一度に教会に押し寄せる光景は、此の静かな街に於いては本当に異常な事なのだ。

常に開かれている筈の教会の扉が今は何故か固く閉ざされており、

其の前には、預言士様が酷く困惑した御様子で立っていらっしゃった。

何かを責め立てる様に次々と不安げな声を上げる人々を、しきりに宥め説き伏せておられるようだった。

 

一体何事だと云うのだろう。

こんな事、預言には詠まれていなかったはずなのに。

常ならぬ光景に血の気が引く思いがしながらも、私は竦む脚を叱咤して何とか人々の群れに歩み寄り、

其処に知り合いの姿を見つけて思わず声を掛けた。

 

「あの、此れは、一体何事でしょう。何があったと云うのですか。」

 

震える声は何とか周囲のざわめきをかいくぐって相手に届いたらしく、

私の存在に気付いたその婦人は、やはりとても不安そうな色を其の眼に浮かべながら振り返った。

 

「ああ、さん。それがね、」

 

答える声も酷く戸惑った様なそれで、無理矢理に微笑もうとして失敗したかの様な、彼女らしからぬ表情をしていた。

 

「わたしにもよくわからないのだけれど…。

 何でも、突然、預言の詠み上げが廃止になったって、そんな事をおっしゃるのよ。

 そんな訳、ないわよね。可笑しなお話だわ、そんな。ねぇ。」

 

「……はいし…って…」

 

一瞬、婦人の言葉が理解できなかった。

彼女は、今、何と云った?

 

意味が分からなかった。いや、分かりたく無かった。

しかし、もっと云えば、私は心の何処かでしっかりと現実を理解した上で、そうなった事実に納得さえしていたのかもしれない。

動揺を何とか堪えようと浅い息を吐きながら、けれど私の心の中は、余りに静かだったのだ。

 

酷くショックを受けた様に見えたのか私を心配して声を掛けて来る婦人に返事もせず、

気付けば人混みを掻き分けて、私はいつのまにか預言士様の前に立っていた。

私の常の様子を良く知る預言士様は、こちらを見つめる眼差しに困惑よりも哀れみを色濃く浮かべていらっしゃった。

私に話し掛けるその声音はまるで幼子に云い聞かせるような優しさの滲むものであったが、

その優しさはかえって私の心をひどく痛ませた。

 

それはローレライ教団の総本山であるダアトから全ての教会に向けて緊急発令された、導師様直々の詔勅だったのだと云う。

預言の詠み上げを世界的に停止し、以後その命が撤回される可能性は無いらしい。

それは、導師様のみならず、詠師様方やマルクト・キムラスカの両陛下、

世界の主要人物たる全員が話し合いの末に合意した、最終決定事項だった。

もはや世界は預言と云うレールから外れているのだと、そう云うのだ。

 

何とかならないのか。ダアトでも詠んでくれないなんて。

来年の生誕預言はどうなるの。どうして急に。急にそんな事を云われても困る。

どういうことだ。預言を詠んでください。御願いします。なんとかしろ。

口々に不満や不安や不平の声を上げる人達も、突然そんな命令が発布された教団側の人間も、

両者ともに心底困り果てた様子だったのがやけに印象的だった。

 

私はどうしてよいのか判じかねて、心配する預言士様の前に呆然と立ち尽くしていた。

そうして、次第に後ろから詰め寄る者に押し退けられるようにして人波から弾き出されていく。

喧噪から少し離れた広場の片隅に一人、尚も立ち尽くしながら、恐慌状態に陥った羊の群れを見つめていた。

人間とはこんなにもつまらなくて面倒な生物だったろうかと不謹慎な事を考えている内に、

喉の奥からせりあがって来る様な、激しい衝動のようなものを私は感じ始めていた。

それに敢えて名前を付けるなら、憤怒や激昂と呼んで相違無い。

 

(世界が預言から外れている、だなんて、一体どう云う了見だ。

 なんてふざけた事を。なんて、なんてことだ!)

 

私は別に預言廃止を決定した導師様や両国の為政者達を恨めしく思っている訳では無い。

不意に沸き上がった私の怒りは、そんな分かりやすい矛先を持つものではなかったのだ。

私は私の生きてきた道程が決して無意味なものであったとは思わない。

此の信仰心も、今は歪んでしまっているけれど、

幼き日にユリア様に捧げたあの誠実な祈りには、ひとひらの偽りさえなかったのだ。

 

そうして慎ましやかに預言に従って生きていく事の崇高さを、私は真実だと信じてきたのだ。

私の真摯な信仰を過ちだとは思わないが、それでも、預言が絶対でないことを認めるならば、

私は私の歩んできた人生を、少なからず否定せねばならなくなる。

 

重ねて云う、私は導師様や為政者達を憎んでいるのではない。

ただ、そう、ただ余りにも、情けなく、狂おしい。

向ける矛先も意味も無く、ただ沸き上がって来るだけの詮方無い憤りと遣る瀬無さに、胸が焼け焦げてしまいそうなのだ。

 

私は悔しいのかもしれない。

預言と云う、安堵と美しい絶望を与えてくれた、私の愚かしくも安逸なる拘束。

信仰心と祈りに混じる不安と恐怖と苦痛、その齟齬に耐えかねて私が自壊するその最後迄、

いっそ掌握したまま窒息させてくれれば良かったのだ。

いつかこうなることは、きっと本能で知っていた。

だからこそ、其の前にと。

 

気付けば私は、何時の間にか自宅に戻っていた。

何処をどう通って帰ってきたのかさっぱり記憶に無かったが、

私は絨毯の上に座り込んで傍らのソファに力なく凭れ掛かり、

ただ何も考えずにぼぅっと瞬きと呼吸を繰り返していた。

 

あの時感じた激しい憤りは何事も無かったかのようにすっかり消え失せ、しめやかな感情は涙さえ必要としない。

私は小さく溜め息を吐いて眼を伏せた。

婦人も預言士様も、預言に依存しきって預言無しには生活が立ち行かなくなっている私を知っているので、

とても衝撃を受けただろう私をいたく心配してくれていた。

しかし今、私の心は不自然な程に凪いでいるのだ。

 

相変わらず恐怖と不安と絶望は私の心の歪みにひっそりと息を潜めながら存在している。

そして其処に、今、一滴の仄暗い希望が落とされた。

ほんの一滴、けれど私にとってそれは、とても重要な一滴。

 

 

 

 

 

 

 

預言廃止の決定から、数週間が経った。

とても空虚な、其れでいて穏やかな感覚を胸に抱きながら、私は預言を与えられなくなった世界で茫洋と生きていた。

 

教会へはあれ以来行っていない。

毎日毎日執拗な迄に通っていた事を考えると、此の状況は異常であるとも思えたが、

頭の冷静な部分では、今迄の方がよほど異常だったとは理解していた。

ただ、もうずっと見ない振りをしていた其の認識に向き合い、事実を事実と認めることに少し時間が掛かっただけの話だ。

 

ユリア様へ捧げる敬愛と信仰心まで失われた訳では無いので、

相変わらず自宅でも毎日の習慣のように礼拝は行っていたけれど、

ただ、自分が何を祈っているのか時々分からなくなる事もしばしばだった。

鬼気迫る程に毎日ユリア様の御前で切実な祈りを捧げていたのに、

一体自分が何をあんなにも祈っていたのか、思い出す事が出来ずにいる。

 

預言が無くなって不安で仕様が無いのも事実なのだが、私は何処かで安堵もしていた。

生きる事全てを依存して縋りついていた御手を失ったのに。

世界にすっかり飼い馴らされ、一人では怖くてもう一歩も歩けなかった筈なのに。

どうしてこんなにも私は揺らぐ事さえ無く、標無き世界に立っていられるのだろう。

街の外へは相変わらず出ていないが、私はそれでも、何故か当たり前のようにただ生きている。

 

私は以前、己の異端さに絶望し、まるで私を取り巻く世界の全てが捩れているようだと感じては、

そんな歪んだ感覚を自己嫌悪していた。

しかしこうなった今では、歪んでいたのは私ではなく、

本当に世界の方だったんじゃないか、なんて、馬鹿な事を考えるようになった。

其の考えが間違っているか正しいかなんて、ちっぽけで視野の狭い私には、きっと一生答えを知る術は無いだろう。

 

いつものように一人静かな家の中でユリア様に空虚な祈りを捧げた私は、

まるで白昼夢を見ている様な朧げな心地で家を出た。

街は少しずつ落ち着きを取り戻しつつある。

 

すれ違った顔見知りの住人達に気遣う様な声を掛けられたが、私はうっそりと微笑んで、ただ会釈だけを返した。

彼らに心配される様な事は何も無い。今の私は、とても心穏やかなのだから。

あれ程私を苛んでいた齟齬も軋みも歪曲も絶望も不安も恐怖も、預言の存在と共に日々薄れていく。

信仰心と不安の狭間に生じていた自己嫌悪も、もう感じる事は無くなった。

 

私は夢見心地のまま街の北部にある広場へと至り、広場を越えたさらに奥、

ひっそりと佇む門に向かって歩いていく。

街の外と内を隔てる門。

緩やかな曲線を描いて構成されたその青銅色の格子扉は、私の冷えきった掌をそっと押し当てるだけで呆気無く開く。

 

私は躊躇わなかった。

 

さくり、さくりと、街の中とは違って殆ど踏み荒らされることなく降り積もった雪を踏みしめ、私は歩き続けた。

何て呆気無いのだろう。

 

あれ程恐れた外。街の外だ。

魔物の跋扈する恐ろしい場所。

預言が私に許さなかった場所。

 

それを、私は感動も恐怖も不安も躊躇も無く、粛々と歩いているではないか。

本当に何て呆気無いものなのだろう。

私は一体何を恐れていたのか。何がそれほど迄に、私をあの街にきつく閉じ込め続けていたのだろう。

 

寒さとは違う意味で震える身体を引き摺るように、私の両の脚はただ目的地も無いのに歩行を続けていた。

立ち止まらず振り返らず、力尽きて動けなくなる迄。

只管に歩き続けて、どれくらい経った頃か。

私はとうとうまっさらな雪原に跪いた。

かじかんだ手脚はもはや感覚も無く、吐き出された荒い息は白く凍えて視界が鈍る。

そのまま、踞るように雪上にはたりと身を投げ出した。

 

私は一体何をしているのだろう。自嘲じみた笑みを噛み殺しながら眼を閉じた。

このまま此処にいては、私はきっと死んでしまうだろう。もう立ち上がるだけの気力も無い。

街からどのくらい離れてしまったのかはわからないが、

こんな雪原の直中に踞るちっぽけな私に誰かが気付いて助けにやって来る可能性は、限りなくゼロに近い。

 

驚く程に焦りの一つさえ感じない自分を、不思議に思う。

私は死にたかったのだろうか。そうでもないような気がする。わからない。

けれど預言が廃止されて以来、死んでしまいたい程の絶望を感じた事は、そう云えば、一度も無かった。

私はひどく穏やかな気分だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

ふと眼を開ける。

橙黄色の柔らかな光を放つ暖炉から、薪の爆ぜる音がぱちぱちと小さく聞こえて来る。

身体を包む柔らかな温もりが微睡みを誘い、もう一度眼を閉じて眠りの揺籠に戻りたい心地にさせられた。

けれど開いた眼に映る景色が私に目覚めを強いている様な気がして、

はたりはたりと幾度も瞬きながら少しずつ頭の靄を晴らしていく。

まだ完全に目覚め切らない内に、扉の開く音がした。

 

「あっ、眼、覚めたのか!?…よかったー…!

 そ、そうだ!ごめん、ちょっと待っててくれ!

 ネフリーさん!ちょっ、誰か来てくれ!起きた!」

 

私が人の気配に反応して身を起こす暇も無かった。

突然入ってきたその少年は、一人あたふたと大声で捲し立てるだけ捲し立て、

扉を開けっ放しにしたまま、急いで何処かにばたばたと走り去ってしまった。

あまりに一瞬の出来事だった為、少年の顔もよくよく見られなかったが、

眼の覚める様な鮮やかな朱赤の髪だけがやけに印象に残っていた。

 

私が寝かされていたベッドから漸くのろのろと半身を起こし、開きっぱなしの扉を見つめて惚けていると、

すぐにその向こうから複数の人間が近付いて来るのが足音と話し声で分かった。

 

「ルーク、せめて扉くらい閉めなさい。」

「わ、悪かったって…。」

 

赤い髪の少年のそそっかしさを窘める男性の声、

そして其れに対して詫びるルークと云う名の少年の、心底申し訳無さそうな情けない声が妙に微笑ましい。

やがて開いたままの扉から最初に顔を覗かせたのは、

ケテルブルクの知事を務めていらっしゃるネフリー・オズボーン女史だった。

 

「ネフリーさん…、あの、どうして、」

 

目覚めた時から此処が自宅ではない事だけは分かっていたが、彼女がいると云う事は、もしかして知事邸の一室なのだろうか。

まだ状況を把握し切れていない私が、思わぬ人物の姿を認めて困惑と混乱に眼を丸くしていると、

彼女に続いて、先程の夕陽色の髪の少年と、マルクト帝国軍の青い軍服を着た男性が姿を現した。

 

ネフリー女史の後ろからひょこりと顔を覗かせた少年は、

どこか安堵した様子で、困ったように眉を下げながらも私ににこりと笑いかけた。

ともすると冷たく見えそうなくらいには整った顔立ちだが、

どことなく幼さを含んだその表情が親しみと温かさを感じさせる。

 

対して、悠然と入り口付近に立つ背の高い男性軍人は、どことなく得体の知れない微笑を浮かべていた。

眼鏡の奥から覗くその眼は、まるで上等のルビーのようなピジョンブラッド。

そんな色の眼を持つ将校など、一人しか存在しないだろう、けれど、しかし何故此の方が此処にいると云うのだろうか。

状況を把握できず、疑問ばかりが取り巻く私の様子を見かねたネフリー女史が、

困ったように微笑んで事の次第を説明して下さった。

 

「お兄さん達がさんを発見するのが後少し遅かったら、

 本当にどうなっていたか…。とにかく、無事で良かったわ。」

 

衝動的に街を飛び出した私が雪原で倒れていたところを、

バルフォア博士(…いや、今はカーティス大佐とお呼びするべきか、)に保護されたらしい。

ネフリー女史のお言葉の通り、何時の間にか包帯を巻かれていた両の手の指は、凍傷を起こしかけていた。

まだ少し鈍い痛みは残っているものの、大佐に同行していたと云う治癒師のお陰で、然程酷くならずに済んだようだった。

 

多大なる迷惑をお掛けしたことを恥じ入ると共に、

深く頭を下げて謝罪と感謝の言葉を述べた私に、少年は酷く慌てて私の頭を上げさせた。

よほど礼を云われる事に慣れていないのだろうか、少年の少し幼く不器用な優しさは実に微笑ましく見えた。

 

「しかし、貴方は何故お一人であのような場所へ?

 見た限り、街の外へ出る準備の一つもしていなかったようですが…。

 戦う術の無い一般人が、ホーリーボトルも無しに街の外へ出るなんて、

 正気とは思えません。自殺行為ですよ。」

 

其れまで黙って私達の遣り取りを眺めていたカーティス大佐が、会話が落ち着いたところで改めて口を開く。

其の窘めるような少々厳しい口調に身構えていると、ジェイド、と不安そうな声で少年が弱く大佐を諌めた。

カーティス大佐は呆れたように少年を横目に見ながら、けれど肩を竦めて結局口を閉じる。

 

「…正気では、なかったのかもしれません。」

「えっ?」

 

俯きながらほとんど無意識に、ぽつりと小さく呟いた私を、短い赤毛をふわりと揺らして少年が振り返る。

其のエメラルドグリーンの眼には、驚きと戸惑い、そして小さな不安がたゆたっていた。

 

途方に暮れた迷子のような眼、私はそれに僅かな既視感を覚えた。

何よりも厳かで美しく、一点の曇りも無かった筈の信仰に、初めて恐怖と不安を覚えた日、

私はきっと、彼と同じような眼をしていたことだろう。

 

私は少年に、心からの慈愛を込めて、優しく微笑みかけた。

もしくは、哀れで愚かな虜囚であった、嘗ての己に。

 

街の外に飛び出した理由をさりげなく追求しようとしたカーティス大佐だったが、

私はそれでも敢えて明言する事は無かった。

私の信仰、私の欺瞞と不信と不安、理解による救済。

そして今の私の胸中にある此の平穏と法悦は、きっと、彼らには理解し得ないだろうから。

 

自害したかった訳ではない、けれど命を失っても後悔は無かった。

目的とするものがあった訳ではない、けれど私は其処へ行かなくてはならなかった。

其の必然性を語るには、言葉などというちっぽけな手段では到底間に合わないのである。

 

今なら分かる。

私は、敬虔なローレライ教の信徒である。

敬愛するユリア様への私の信仰心には一点の穢れさえ無く、其の至高の存在に対して疑いなど微塵も無い。

私には最早、不安や恐れを抱く必要など無いのだ。

世界に囚われて道を見失った私は、けれど今、再び解放され、光を得た。

 

預言。ああ、預言だ!

差し伸べられた其の手は、救いの標などでは、決してなかった。

縋ってはならぬ禁断の果実を口にしたからこそ、私の清らかな信仰が歪み始めたのだ。

 

全ては私の怯懦が堕落と云う毒を産み、不信の闇を育て、

その自らの行いを知らず恐れるが故に、もっと恐ろしいものに縋って眼を閉じてしまったのである。

 

私は其の罪深さを、自分が恐れていたものの本当の姿を、今、ようやく理解できたような気がしていた。

ユリア様に日々祈りを捧げ続けた私は、きっと魂の救いを求めていた。

 

私の信仰心は決して異端などではなかったし、捧げた祈りは決して無駄などではなかったのだ。

それが、今、証明された。

私は報われた。私は救われた!

 

まことの御心への不理解を悔い改めた恭謙なる私に、

始祖ユリア様は、確かに救済の光を与えて下さったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

fin.

 

 

(11.6.11)

 

 

 

 

 

 

 

 

間違ったアメイジング・グレイス。

典型的な普通のオールドラント人が預言の無い世界に如何に向き合って行くのか、

その心境の経過を辿る話、に、するはずが。

…なぜこうなった。

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