沈む舟の話

 

 

 

 

 

 

これは夢である、と自覚しながら見続ける夢の、何と不毛なことか。

夢の中の私はモノクロームの光景を何でも無いように眺めながら、

けれど実際の、現実にて眠りに就いているはずの私の心は、酷く興醒めしていた。

いや、絶望していたと云ってもいいのかも知れない。

こんな非科学的な現実などあるはずが無いと知りながら、

不完全な世界を、まるで現実であるかのように冷静な眼で見つめている自分が、この夢の中にいるのだ。

これを絶望と呼ばずになんとしよう。

 

私達は黒い水の上にいる。

私は灰色の、おそらくは木で作られた小舟の中で腰掛けながら、

反対側の縁に立ち、櫂を持ちながらも微動だにしない男を見上げていた。

男は灰色の長い髪を背中に垂らしながらこちらに背を向けて、不安定なはずの舟端に危なげ無く立っていた。

相変わらずだな、この人は。

夢の中の私は無表情に彼を見上げているだけで、やはり男同様、微動だにしなかったけれど、

現実の私は遠くでそんな私達の姿を眺めながら苦笑した。

現実においてもきっと彼なら、私が焦れて名を呼び、振り向くよう懇願する迄、

決して振り向かずにそ知らぬ顔をしているような、そんな人だ。

 

髪よりも濃い灰色の軍服を着たその後ろ姿をただ呆然と眺めていた。

このモノクロの夢の中に於いては灰色でしかないが、実際のその軍服の色彩は、鮮やかな青だったはずだ。

髪は飴色で、今は見えないその眼は血のように赤いこと、私は知っている。

 

ふと何かに導かれるように自分の手元を見下ろせば、腕を黒い小さな蜥蜴が這っていた。

嫌悪も驚きも何も感じなかった。

何故なら、私はこの蜥蜴がただ爬虫類であるのではなく、

この夢に於いて概念そのものを意味する存在であると認識していたからだ。

 

「火蜥蜴ですね。」

 

背を向けていたはずの男が、いつのまにかこちらを見下ろして無感情に微笑んでいた。

眼鏡の向こうの眼はやはり濃い灰色をしていたけれど、

その虹彩が赤いことを知っている私には、赤く見えるような気がしていた。

櫂を握っていたはずの手はいつのまにか平生のようにポケットに仕舞われていた。

(櫂をどこへやってしまったのだろう、これでは、岸へ戻れない。)

夢の中の私は茫洋とした心持ちでそんなことを考えていた。

 

「概念は概念でしか燃やせません。

 だから、その火蜥蜴は、ちゃんと貴方を殺してくれますよ。」

 

「可笑しな事をおっしゃる。私は、殺されたくはありません。」

 

「嘘ですね。」

 

ささやかに反論した私をきっぱりと断罪するように、彼は平坦に云い切った。

嘘では無いのだが、と苦笑しかけた現実の私を他所に、

夢の中の私は、男に負けず劣らずの無感情で、それを肯定するように小さく頷いていた。

私は、殺されたかったのだろうか。

 

「ジェイドさん、櫂をどこへやったのです。」

 

「どうせ沈みます。」

 

「私は、私達は、岸へ戻らねばならないの。」

 

「どうせ沈みます。」

 

「そんなことおっしゃらないで。」

 

「沈むんですよ。」

 

男は稚い子供を言い含めるように、薄く微笑みながら同じ言葉ばかりを繰り返す。

無感情なその様子が空恐ろしくもあったけれど、こういう所は現実での彼と何ら変わる所は無いはずだ。

彼はこういう人だった。

 

黒い火蜥蜴は、私の手の甲の上で音も熱も無く静かに燃え、灰になってしまった。

私は灰さえ止めおくことが出来ずに、燃えてしまったそれを、ひどく悲しい眼で見送るだけだった。

嘘つき、と夢の中の私が平坦な声音の中に悲哀を滲ませて呟いた。

 

「貴方は、嘘つきです。私は、置いて行かれてしまった。」

 

「いいえ、あなたが置いて行ったのですよ。」

 

「ジェイドさんと同じように。」

 

「どうせ、全て沈んでしまいます。同じことでしょう。」

 

噛み合わない会話がひどく息苦しい気がしていた。

其れ以上口をききたく無くて、私は黙って黒い水面に視線を落として唇を閉じる。

 

黒い水面はわずかなさざ波をたたえているのに音一つせず、どこまでも広がって、辺りを見回しても何も見えない。

灰色の空と白い霧に覆われた、黒い水だけが広がる景色。

そして其処に浮かんでいる一隻の小舟。

私達を乗せた小舟は、じわじわと黒い水に飲まれて沈んで行こうとしている。

 

ああ、男の云った通りになった。

私はゆるりと男を見上げたが、彼は変わらず何の感情も乗せない薄笑みを佩いて私を見下ろしているだけだ。

冷酷にさえ見えるその微笑みに、夢の中の私は何故か安堵を覚えていた。

この舟が沈もうとも、きっと彼は死なない。死ぬのは私だけなのだろう、と思った。

 

「水が暖かい。」

 

「貴方の身体が冷たいのでしょう。」

 

「そう…、そうですね。」

 

私はとうとう喉元に迄迫った水面に、穏やかな心地で眼を閉じた。

優しい諦観。暖かい末期。ああ、それでいいのかもしれない。

涙の伝う頬をそのままに、私は黒い水に、沈んで、そして。

 

 

 

 

 

 

 

目覚めた時、私は何故か涙が止まらなかった。

悲しくも嬉しくも無いのにただ機械的に流れる涙が疎ましくて、私は布団を撥ね除けて身体を起こした。

 

ジェイド・カーティス大佐がアクゼリュスで殉職した、との訃報が齎されたのは、

その日の夕刻になってからだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

fin.

 

 

(11.6.11)

 

 

 

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