薄荷の空へ 金色の鼓動を捧ぐ
さく、と、まだ落ちてそう経っては居ないのだろう乾いた落葉を踏みつけ、黒檀の杖をつきながら歩を進める。
草臥れた黒革のブーツのやや擦り減った靴底に、杖先に、長年降り積もってはじわりじわりと分解されてゆく腐葉土が柔らかい。
腐食してゆく葉と湿った土の香りに充ちる林の中、未だ少し冷たい其の空気に、けれど何処からか春の匂いが混じっていた。
だのにどうしてか、林の中は耳が痛く成る程に、しんと静まり返っている。
幼い鶯の歌の練習くらいは聞こえて来てもよかろうものなのに、と、春待ちに気が急いて、私はくすりと穏やかな笑みをこぼす。
黙々と足を動かして、けれど時々立ち止まり背負った木製の薬箱を担ぎ直しながら、
獣道でさえ見当たらない密な林をただ気の向くままに真直ぐに進んで行く。
時々方位磁石を確かめてはいるが、正直な所、私には余り「正しい方角」に向かっている自信が無かった。
私は特別方向音痴と云う訳では無い、しかし、旅の薬師を生業として幾年経つが、森林や山中においてはしばしば道を見失う。
つまるところ、私はどうも同じような景色が続く、こういった自然の中を歩くのが余り上手ではないのだろうと考える。
我ながら良く云えば寛容、悪く云えば大雑把な質であるとは自覚しているので、
まぁこっちだろうと適当に進んでいるのが悪いと云うのは明白なのだが、何とかなると云う根拠の無い持論をつい信じてしまうのだ。
そしてああまた迷ったかと思えど、旅路に着いて久しくなってくると野宿などにもすっかり慣れてしまったもので、
其の慣れがまた私の悪い癖と暢気さを助長させているのかもしれない。
けれど、何よりも一番の問題は、私にそんな自分を変える気が更々無い事なのだった。
私は進んで死のうとは思わないが、すごく生きたい、とも思わない。
そんな私の執着の稀薄さは、前職である忍と云う生業からくるものなのかもしれなかった。
現在は時勢もあって忍の在り様も変わって来ているようではあるが、
本来の忍と云うものの存在意義は、里の忠実な道具であり、感情を廃した人間兵器と己を為す事である。
ただ、日和見主義の私がこんな事を云うのも些かお門違いかもしれないが、
信頼や仲間意識や和を尊ぶ傾向にある同郷の忍達に、私はずっと違和感を感じずにはいられなかったのだった。
仲間を大事にする事と結束力とは、無関係ではないが、直接的な関係もまた同じくらいに無いものだと私は考える。
忍とは、同僚さえ必要とあらば見捨てられるくらいの冷徹な兵器であるべきだと云うのが、私の「忍」に対する見解だった。
そうある事が正しい忍のあり方であると確信していると同時に、けれど、私はそうは成れない自分の殺しきれぬ甘さを自覚していた。
縁を持てば情がわく。関われば望まずとも馴れ合ってしまう。けれど「忍」であるには其れを切り捨てねば成らぬ。
自分が頑迷な迄に信ずる忍の在り方と、そう在ることが出来ない自分への自覚が、私にひどく矛盾を突きつける。
そしてそんな己の内に穿たれた齟齬への煩悶の末、ある任務にて負った利き腕の怪我を機として、
私はあっさりと忍を退職し、身一つで里を飛び出して、薬師をしながら様々な国を旅して歩いているのだった。
明日の保証が無い事は忍と同じ事、けれど背負うものが薬箱と自分の命一つだけ、という身軽さは、私をとても穏やかな気持ちにさせた。
忍をしていた頃の私には、きっと余計な荷が多過ぎたのだ。
里の威信、仲間の命、忍としての義務、任務を任されるに伴う期待と責任、義務的な矜持、贖罪さえ赦されぬ己には無意味なだけの殺人。
ああ、ナンセンスだ。ふふ、と私は口元で小さく微笑んだ。
自由で在る事に安堵する自分の愚かさが、無性に可笑しく思われた。
私は自由を得る代償として、故郷も、仲間も、大事だったはずの人達全てを、自ら手放し、見捨ててしまったのだ。
其の選択を欠片さえ後悔することができない私が、愚かでなくて何だと云うのだ、と思うと、笑いが禁じ得ない。
私が里の誰よりも自分勝手で、誰よりも冷淡であったと自負している理由は、其処だった。
そう云えば、里を出てから一度も大事だった友人の事を思い出す事さえしていなかった。
懐かしむ権利も無い事はわかっていたので、息災であれ、と、勝手な祈りだけを唇に灯して、私はただ穏やかに林を歩き続けていた。
林を抜け出る道は未だ見つからない。けれど、私にはそれでいい。
舗装された道を歩くのが息苦しくて、途方に暮れる程の広大な自由を求めたのだから。
忍の仕事を離れて数年が経ったが、利き腕の怪我の後遺症もあって、動きこそ鈍ってはいるが、
幼少より磨き上げられてきた感覚迄はそうそう簡単に忘れてしまえるものではない。
身に染み付いた癖で、ふと周囲の様子の僅かな変化に気付いて気配をそっと探れば、
近からず遠からずの距離を保ち、密やかに息を殺した何者かが、こちらをじっと窺っていることに気付いた。
極限迄押し殺された気配の稀薄さから、それが相当腕の立つ忍であることが推測できた。
上忍レベルと見て間違いないだろう、と咄嗟に思考を転がしながら、けれど動揺など微塵も見せず平然とただ歩行を続ける。
さくりさくりと踏み出す足と共に地面を叩く黒檀の杖を持つ手に、ほんの僅か力を込める。
相手が「敵」だとしたら圧倒的に私の方が不利であるからして、上手くやり過ごして逃げる方向で計算していく。
私が忍を辞めて暫く経つが、いまだに時々こういう事があるのだ。
ビンゴブックに載るほどではないにしろ、私も現役時代はそこそこに頑張ってはいたので、
其の点からすると、恨みを買っている心当たりなど、最早あり過ぎて数える気にも成らない。
全く以て、忍とは何と煩雑で因果な商売なのだろう。
忍であった両親や里を恨む気は全く無いが、一般人に産まれていたらきっともっと私は楽に生きられたんじゃないかと時々思う。
面倒な事だ、今の私はただのしがない貧乏薬師なのに、と溜め息を吐きたい気持ちで、はたりとやる気なく瞬きをする。
無理してまで生きたい訳では無いと云えども、そうそうつまらぬ怨恨の果てに命をくれてやる気も毛頭無い。
仕方ないと腹を括った私は立ち止まり、徐に背負っていた木製の薬箱を、よっこらせと間の抜けた呟きと共に地面に下ろした。
一瞬、ぴり、と穏やかだった林の空気が、張りつめた緊張を帯びたのを皮切りに、私はその場を一瞬で飛び退いた。
しなやかに地面を蹴ると同時に、黒檀の杖から仕込み刀を瞬時に抜き放つ。
先程迄私が立っていた場所に数本のクナイが降り注ぎ、その内の一本が薬箱にとす、と突き刺さった。
あ、ひどい、と何とも暢気な事を内心考えるも、実際はそれ程余裕の在る状況ではない事くらいわかっている。
続いて飛び退いた先に鋭く投げつけられたクナイを、仕込み刀でキンッ、と硬質な音を響かせながら弾き飛ばし、
更に飛び退りながら、あらかじめ思案していたように逃亡の方向に持って行こうとした其の時、
突如として、着地した地面の周囲から、太い木柱が蛇の如くにするりと一瞬にして現れて私を取り囲み、
瞬きさえさせぬ程の刹那によって、私は忽ち木造の牢獄の中に捕らえられていた。
(あれ、これって、)
ふと過った朧げな記憶に、私を囲い込む獄を刀で切り飛ばそうとした手がひたりと止まる。
腰を落として刀を構えた体勢を解くと、私は刀を持つ腕をだらりと垂らしながら牢獄を見上げて首を傾げた。
あれあれ、と呟きながらぱたり瞬いていると、背後から先程の気配の主が近付いて来るのに気付いて振り返る。
「君は、何者かな。ただの一般人、て訳じゃなさそうだね。」
私は取り敢えずかちりと刀を杖身の鞘に収めながら、格子状に立てられた木の隙間に見える其の忍の男を見つめた。
男は顔に額宛と一体化させた面宛を付け、極普通の正規部隊の者が着ているような忍装束を身に纏っていた。
額宛のマークは木の葉。
其の見知った図形と、感情の読めない真黒い眼を見比べながら、私は彼に向かって曖昧に微笑んだ。
顔には見覚えが無い、と、思う。
けれどその低く耳障りの良い声には、何処か聞き覚えがあるような気がするのだ。
いい加減な私の記憶をフル稼働させながら、そう云う貴方は忍者さんですよねぇ、と私はのんびりと答えた。
「君は忍か?」
仕込み刀をすっかり仕舞い込み、抵抗の様子も見せない暢気な私を、
少し訝し気に見遣って首をひねりながらも、彼は一部の隙もない立ち姿で私から一定の距離をとって立ち止まった。
「私は、旅の薬師です。ああ、今は若干、迷子の薬師ですけれどね。」
彼の質問に答えているようで核心部分には触れないまま、取り敢えず私は自分の現在の身分だけを正直に、要らない所迄も正直に答えた。
はぁ?と彼は少し呆れたような顔をした。
へらりと笑う私を困惑混じりに見遣り、彼は少し途方に暮れた様子で顳かみに指を宛てる。
とりあえず先輩を呼ぶか、と云う、彼の呟いた小さな独り言を聞いて、私は、はっとした。
「あっ!!」
「っ!?
……な、何だ、いきなり大きな声出して。」
「なんだ、どっかで、と思ったら、にゃんこの人じゃないですか。
そーかそーか。うん、納得。」
「……は?」
私のいい加減な発言を受けて不審そうに眉を顰める男を他所に、私は一人ようやく蘇って来た記憶に納得してうんうんと頷いていた。
そして、すっかり置いてけぼりにされていた男に、私はにぃと笑みを向けた。
「さすがに私の事なんぞ覚えていないかもしれませんが、私、一回だけ貴方と組んで任務したことありますよ。
まぁ、其れが最初で最後になったんですけどね!
いやー、懐かしいですねぇ、にゃんこの人。名前は忘れちゃったけど。
さっきから此の牢を作った術を見て、ずっと引っ掛かっていたんですよねぇ。
ああ、『先輩』ってあれですよね、カカシさんのことですよね?
死んだとは聞かないから、多分今も元気でのっそりやっているんでしょうねぇ。
いやぁ、懐かしいな。」
「…君は一体、」
忍の癖に明らかに困惑した顔しちゃってまぁ、と私は内心呆れて呟きながら、どうやら自分の事を覚えていない彼にまた微笑みかけた。
私の記憶が正しければ、恐らく彼は暗部に所属していた、唯一の木遁使いの男だ。
暗部においては名前などあってないようなものなので、彼が猫面を付けている事から勝手に「にゃんこの人」と影で呼んでいたのだった。
暗部にて名乗っていた名前も聞いた事が在るような気がするが、本物じゃない名前など覚える気も無かったし、
もう何年も前に出奔して以来、思い出す事もしなかった里の人間の顔や名前など、全てを覚えていられる道理も無かろう。
しかし、私の現役時代には彼は暗部所属だったはずだが、正規部隊の恰好をしていると云う事は、今はもう暗部を辞めたのだろうか。
「数年前、暗部に配属されて早々、怪我して一瞬で引退していった間抜けが居たでしょう。
あれ、私ですよ。羊の面被ってたんですけど…。
さすがに一瞬過ぎて覚えていらっしゃいませんかねー。」
「君、もしかして」
「あれ、もしかして? 何でこんなところにいんの?
ていうか何してんの、そんな檻の中入っちゃって。」
驚いたように眼を見開き、何かを云い掛けたにゃんこの人の言葉をがっつり遮りながら、白い煙を纏いつつ突如として別の忍が現れた。
其の顔を見る迄もない、飄々とした口調と声質を聞けばすぐに其れが誰だか分かって、私は彼に向かってにこりと笑う。
いやー久し振りじゃないの、などと暢気に云いながら、彼は両手をポケットに突っ込んだまま私の目の前迄やってくる。
片目を隠すように付けた額宛も、口布も、銀色の髪も、数年前の記憶の中の彼と全く変わっていない。
「わぁ、お久し振りですねぇ、カカシさん。相変わらずお元気そうで何よりです。」
へらりと笑って片手を上げながら挨拶した私に、カカシもまたにこにこと片目だけで笑って返事を返した。
如何にも平穏ではんなりとした空気が流れている私達を、にゃんこの人はやや疲れたような顔をして呆然と眺めている。
確か彼はとても真面目な性格で、カカシのマイペース過ぎる言動によく振り回されていた事を思い出し、
忍としての優秀さもさることながら苦労性な所も相変わらずなのだなぁと微笑ましい気持ちで彼に生暖かい眼を向ける。
「ああ、テンゾウ、そろそろ四柱牢解いてやって。は敵じゃないよ。」
「カカシさん、今はヤマトですってば。」
「あはは、やだなぁ、カカシさん、里を出奔して以来音信不通な私が、敵じゃないだなんてどうして云い切れるんですか?
実は敵かもしれないじゃないですか。顔見知りだからってそんな簡単に警戒解いちゃ駄目ですよぅー。」
「大丈夫、が気侭に薬師やりながらずーっとのほほんと暮らしてたのは知ってるからネ。」
「……あの、二人してボクの事は無視ですか…?」
うふふ、なるほど、とにこりとしながらも、カカシの言葉によって、自分が未だに里と云う組織の監視対象である事を知る。
異国を旅していると、時折木の葉の密偵らしき者を見掛ける事があったので、
他国の偵察のついでとばかりに自分の動向をも把握されているだろう事には気付いていたが、
改めて其れを知らされると、あまり気分の良いものでも無いなぁと呆れる気持ちを禁じ得なかった。
やはり忍なんてヤな感じのお仕事は私には向いていない、辞めて正解だったなぁと思った。
胸の内でこっそりとそんな思考を展開してぼーっとしている内に、堅い筈の木組みが生物のようにぐにゃりと緩み、
ずるずると音を立てて、木造の牢獄はたちどころに腐葉土に覆われた地面の内へと、何事も無かったかのように沈んで行った。
何時見ても便利で面白い術だなぁと感心しながらも、カカシと(にゃんこの人改めテンゾウ改め)ヤマトは取り敢えず放っておくとして、
牢から放たれた私はさっさと自分の荷物を回収するべく、置き去りにした薬箱の方へと踵を返すことにした。
何故か私の後ろを付いて来る二人を無視して、のんびりと薬箱の前迄歩み寄ると、
先程薬箱にぐっさりと刺されてしまったクナイを無造作に引き抜き、ヤマトに向かって放り投げる。
適当に放った為、思いっきり彼に刃先を向けて投げてしまったが、うわっ、と小さく声を上げながらも彼は危なげなく其れを受け取った。
そんなヤマトを尚も無視して薬箱に着いた土や枯れ葉を払い落とし、元のように其れを背負い直す。
じゃ、と二人に手を挙げてさっさと歩き始めた私に、しかし彼らはまたしても後ろから付いて来る。
どちらかと云うと私に付いて来るカカシをヤマトが追い掛けていると云った体裁ではあったが、其れは私の感知する所ではない。
「、ちょっと、何処行くの?
此処は久闊を叙するくらいしようよ。無視しないでよねー。」
「道なき道へ、私は私の旅路を行きますーなんて云ってみる。挨拶ならちゃんとしたじゃないですかー。」
「え、いや、でも道に迷ってたんじゃないの?」
「まぁ私の場合、迷う事をも含めての『旅』ですからねぇ。
時々思いも寄らぬ面白い所に辿り着けたりもするので、案外迷子も捨てたものじゃないですよ。」
「アバウトだねー…君ってそんなキャラだっけ…?
まぁ、此処は木の葉の里のすぐ近くだし、折角だから寄って行きなよ。
急ぐ旅じゃないんでしょ?
こんな所で偶然出会ったのも何かの縁だし、それに、火影様にも少しくらい顔見せに行きなよ。
ねぇ、テンゾウ。」
「ヤマトです。…って、えぇ、ああ、まぁ、そうですね…?」
突然にっこりと嘘くさい笑みを浮かべたカカシに話を振られ、若干戸惑いながらも一応同意を述べるヤマト。
いつかと全く変わっていない精神的力関係がありありと見えて、私はふふ、と笑いを零した。
別に出身地である木の葉隠れの里に行く事には特に抵抗は無い。
私は抜け忍ではなく、正式に忍を辞職し、正規の手続きと火影の許可を得て里を出たので、疚しい事も何も無い。
(まぁ、私を里から出す事を渋った火影を、多少強引に押し切ったのは事実だが。)
けれど、私の行く先を決めるのは私であるべきだ、と云うのが旅人たる私の信条なので、
半ば強引さを滲ませたカカシの誘いにはあまり気乗りしないと云うのが本音であった。
しかし彼は無駄に優秀なので、一度私を里へ連れてゆこうと決めれば、あの手この手を使い、
最終的には彼の思い通りに事が運んでしまうであろう結果が眼に見えているので、私はもう反抗するのも面倒になってしまったのだった。
(此の時、ちょっとだけヤマトが彼に振り回されて苦労する気持ちの切れ端を、理解できてしまったような気がした。)
じゃあそうします、と云った私の、あからさまに面倒くさいなぁと云う表情は、
すっかり見なかった事にされてしまったようだった。
(10.4.21)
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