マリアの片腕

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…ママは私のことが嫌いなのかな、」

 

この部屋は、今の私達には些か広すぎたのだろう。

溢れるように零れるように、渇いた唇から滑り出たその呟きは、薄暗いダイニングに酷く響いて聴こえた。

 

暖かさを欠いた食卓は、その虚ろな平面に生物の死骸を載せたまま、私の目の前に佇んでいる。

喉の奥を塞ぐ重苦しい気持ちに気力を削がれ、私はそれらを口に運ぶことを諦めた。

そうして、眼を伏せながら力なく俯き、意義を失ったフォークを静かに置く。

 

曇る顔を垂らした前髪に隠していると、

小さく椅子を軋ませながら、猫のようにしなやかな動作でするりとユーリ兄さんが立ち上がった。

ことりことりと靴音を鳴らして私の傍らに立った兄さんは、薄く儚い微笑を浮かべて私を見下ろし、

まるで幼子を慰めるような柔らかい声音で云った。

 

「そんなことを云うもんじゃない、

 ママはお前を愛しているよ。」

 

幼い頃から変わらない、兄さんの優しい声。

なのにどうしてか、私はその静かな声にひどく胸が締め付けられて、仕様が無かった。

(そんな眼をして笑わないで、ユーリ兄さん。)

 

微かに震える私の肩にそっと添えられた兄さんの手は、悲しくなるほど冷たかった。

細く神経質な指先が、硝子細工の花に触れるような仕草で私の肩を優しく撫でていた。

それでも此の肩の震えが止まらなかったのは、切なさか、悲しさか、それとも。

 

私の肩をゆるりと撫でながらも、兄さんの瞳はいつしか、

泣き喚くママの後ろ姿が吸い込まれていった扉を見つめていた。

その瞳は、まるで何も映していないようにも、此処ではない何時かの何処かを見据えているようにもみえた。

兄さんが見ている扉の方に眼を凝らせども、私にはきっと、同じものはみえない。

 

ねぇ、何を考えているの、ユーリ兄さん。

そう問い掛ける代わりに、肩に置かれた兄さんの石膏のように滑らかな手を取り、

そっと自らの両の掌で包み込んだ。兄さんの指先が、一瞬だけ震えた。

私の身体を巡るぬくもりを、その指と分かち合えますように。そんな小さな祈りを込めて、柔らかく手を握る。

 

振りほどいてくれてもいい、ただ、私が此処にこうして存在している事に気付いてほしかった。

私は兄さんの手を取ることを躊躇わないのだと、示したかった。

僅かに眼を見開いて、はっと私を振り返った兄さんを見上げ、小さく笑いかける。

 

「…ありがとう、ユーリ兄さん。私、兄さんがだいすきよ。」

 

幾年経とうとも未だ生々しく透明な血を流し続ける傷跡は、

こんな情けない哀願にも似た言葉なんかで埋められるものではないと、わかっていた。

それでも強くて脆いその背中を、少しでもいい、支えられるだけの力が欲しかった。

 

パパのことがあって以来、ママは深く心を病み、兄さんは自ら笑顔を削ぎ落とした。

ざらざらと不快な音を立て、幸福と名付けられるべきだった日々は、砂糖菓子のように呆気なく崩壊していった。

壊れゆく日々に募るどうしようもない苦しさを、私は誰にも吐き出すことが出来ずにいた。

 

あの時の私は、いつだって頑なに口を噤んでいた。

言葉にすること其れ自体を、罪だとさえ思っていたのかもしれない。

私は沈黙することでしか、兄を、母を、優しかった頃の父の思い出を、そして自分自身を守る事が出来なかったのだ。

 

心が堪え切れなくなった夜は、一人きりで唇を噛んで嗚咽を殺し、震えながら泣いていた。

そんなどうしようもない私に、ただ黙って寄り添っていてくれた兄さん。

しかし当時の兄さんは、決して私に触れようとはしなかった。

…私の涙を拭おうと伸ばしかけた手を何度も引っ込めては、

自分の身の内から溢れだす青い炎が他者を、ひいては私をも害してしまう可能性に怯えていた。

 

兄さんも私と同じように、触れぬことでしか私を守る術を見出せなかったのだろう。

胸元に引き戻されたその手が、爪が白くなる程に強く握り締められていたのを、私は知っていたのに。

愚かで無力だった当時の私は自分の感情に振り回されるばかりで、

想像を絶する苦悩と痛みを隠して微笑み、父のように母のように私を慈しんでくれた兄さんの、

その優しい手を取ってあげることが出来なかったのだ。

 

ただお互いの震える小さな手を握り合うだけ、たったそれだけでよかったのに。

(だって、私は兄さんの青い炎を恐いと思ったことなんて、一度もなかった。)

 

誰よりも救われるべきだったのは、手を差し伸べられるべきだったのは、私ではなく兄さんの方だ。

私はいつも兄さんに愛され、赦され、護られてきた。

だから今度は、私が兄さんを赦し、護り、全てを受け入れる。

ユーリ兄さんを愛し、信じる。

記憶と想いの軋みにひび割れた兄さんの心が、本当の意味で救われる日が訪れるように。

 

 

 

 

 

 

毎日毎日私は笑う。

口角を上げて眼を細めて少し高い声を出せば、明るく笑う姿を容易に作り上げることが出来た。

笑みとはメイクやスタイリングと何ら変わらない、ただの技術や演出効果に過ぎないのではないだろうか。

お客様の頭越し、鏡の中で空虚に笑う自分を見て、私はよくそんなことを考えた。

 

作業と云う意味でなら、天職と云ってもいいくらいこの仕事は好きだが、なにぶん美容師と云うのは接客業だ。

感情表現豊かとは云い難い私には、常に相応の仮面と演技が求められる。

お客様の好みに応じて話題や口数を変えることに慣れれば慣れるほど、

その反面、自分の本質が乖離していくような切なさを覚えることがあった。

 

「ねぇ美容師さん、今日はねー、ブルーローズみたいな髪型にしてほしいの!

 本当は思い切って色も変えてみたいんだけど、ママったら其れは駄目だーってすっごく怒るのよ?

 こないだなんて、そのことで大喧嘩しちゃった。でもひどいと思わない?

 ママだって、実はバーナビーの大ファンなんだってこと、私、しってるんだから!」

 

設えられた椅子に座るなり、次の私のお客様である常連の少女はそう捲し立てた。

鏡の中の自分と眼があってしまったせいで暫し物思いに沈み掛けていたが、少女の賑やかな声に我に返る。

余計な考えを振り払い、何事も無かったかのように、私は穏やかに微笑みながら彼女との会話に応じる為の言葉を探す。

 

少女が初めてこの店にやってきたのは、二年ほど前のことだ。

話をする内に、彼女はどうやら私のことを気に入ってくれたらしく、

其れ以来、数ヶ月ごとに来店してはいつも私を指名してくれるようになった。

 

そんな少女の艶々した薄紅色の唇から毎回お決まりのように飛び出すのは、

テレビに大写しにされて喝采を浴びる、華々しいヒーロー達の名前だった。

少し前迄はスカイハイの話題で持ち切りだったのだが、最近の彼女はどうやらブルーローズにご執心らしい。

ブルーローズが活躍した事件のこと、現在の順位、彼女の歌がいかに素晴らしいか。

今日もまた、そんな話を楽しそうに語る少女のキラキラした表情を微笑ましく思いながら、相槌を打つ。

 

お客様との会話の為に、社会情勢や流行などの情報収集も日頃心掛けているが、

そういった話題に関して全てに興味があるかと云うと、それはまた別の話である。

とりわけ、ヒーローという存在に心躍らせるようなことは、私にはとてもできない。

街を舞台に繰り広げられる華々しい英雄譚は、まるでどこか遠い世界の出来事のようですらあった。

 

此の街には、「ヒーロー」なんて、本当はもうどこにもいないのだ。

私の「ヒーロー」はずっと昔に死んでしまった。

在るのは只の形骸。きっと、ショービジネスと云う盤上で空回る、正義の虚像に過ぎないのだろう。

 

英雄達の華々しさに酔う此の街は嫌いではないが、

一緒になって其の享楽の波に酔いきれない虚しさは、いつも心臓の隣で冷たい溜め息を吐いていた。

喝采と罵声に彩られた煌めく虚飾の舞台は、ひどく私の感情を疲弊させる。

 

私は意識して、明るく美しく見えるような笑みを形作りながら、少女の長い髪に触れる。

彼女は鏡の中で楽しそうにくるくると表情を変えながらあれこれ話し続け、安心しきって私に其の髪を委ねてくれる。

お客様の期待に応えられるよう、持てる限りの技術を駆使して最高の仕事をする。

私はそんな自分を誇りに思い、そんな自分に安堵した。

 

 

 

 

 

 

「…ただいま。」

 

誰も出迎えが無いことなど最初からわかりきっている。

それでも此処で小さく帰宅の挨拶を告げるのが、私の日課になっていた。

 

今はとうに夜の帳も下り、煌煌と街を照らすネオンが月の光を食む時刻。

ママはこの時間、いつも自室に閉じ篭っては、美しかった日々の幻想に浸っている。

其れを知っているからこそ、私は猫のように静かに帰宅した。

ママを酷い辛い現実に引き戻して、その繊細な心を掻き乱すような真似をしたくなかった。

優しい幻想の中でなら心穏やかにいられると、貴女がそう云うのなら。

 

…けれど、そうして彼女を夢の中に閉じ込めておくのが本当に彼女の為になるのか、私にはわからなかった。

もしかしたらこれはひどい裏切りであるのかもしれない、と思うと、いつも胸が張り裂けそうになる。

 

それでも、ママが私のことをどう思っていようと、私は彼女をほんとうに愛している。

ママの焼いた甘いケーキの味を覚えている。与えてくれた慈しみに感謝している。

壊れてしまった日々の欠片を拾い集めて抱き締めようとする彼女の繊細な心を、

どうにかして守ってあげたいと思う気持ちに、一片の偽りも無かったのに。

 

 

今日はいつもより少し遅い帰宅だったが、足を踏み入れたエントランスホールには、

いつもと同じ陰欝な静寂が吹き溜まっていた。

後ろ手に閉じたばかりの重厚な玄関扉へ、私はふらりと背を預け、

虚空に向けてもう一度、ただいま、と掠れた囁きを振り絞る。

 

空虚なエントランスに響いたその声は、ひどく震えていた。

残響のせいではない。

数日前から私の胸に絡み付いていた不安と、厭な予感。

其れが今日、確信を以て事実となり、とうとう私の眼前に突き付けられてしまった。

 

眼など背けられる訳が無い。

決して、決して、背けてはならない。

 

「兄さん…、」

 

モニター越しでも、私にはすぐにわかった。

正義のヒーロー達の目の前で、咎人を焼き尽くした冷たい業火。

忘れもしない、私たちの「ヒーロー」が永遠に失われてしまったあの日にも、私は同じ炎をみた。

同じ、青。

モニター越しに目の当たりにした瞬間、不規則な鼓動を刻んだ胸を抑えて、私は息を飲んだ。

 

けれど、抑えた胸のもっと奥底の方で、存外冷静な自分がいることにも気付いた。

その自分は静かに微笑んで、こう云った。

私の答えはもう、既に決まっているでしょう、と。

そうだ。私の答えはもうずっと前からひとつだけ。

 

揺らめく青の業火さえも、私は…受け入れる。

 

「…兄さん、」

 

私は赦す。私は護る。

声無き慟哭を叫び続ける断罪者を、例え大衆が世界が否定しようとも、

それでも私は、あいしている。

 

「…ユーリ兄さん…!」

 

断罪者は自らをルナティックと呼んだ。

狂うことも出来ず、痛みに軋む正気を抱え続けるそのひとには、何と皮肉な名前だろうか。

 

「…兄さん、にいさん、会いたいよ…はやく、帰ってきて…ユーリにいさん…、」

 

扉に背を預けたまま力なく其の場に蹲った私は、情けなく震う自らの声が、

兄の名を何度も何度も繰り返すのを、虚ろな残響に聞いていた。

 

 

 

 

 

 

「…っ、…?」

 

「…おかえりなさい、兄さん。」

 

リヴィングの扉が開く音に一拍遅れて、珍しく少し驚いたような声音で名を呼ばれた。

私はふっと微笑みを零し、突っ伏していたテーブルから体を起こして兄さんに向き直った。

時刻は既に日付を踏み越えている。

灯り一つ付いていない部屋の中、レースカーテンの向こうから降る月明かりだけが、

淡く私たちの輪郭を浮かび上がらせていた。

 

「どうしたんだ、。…今日は遅くなるから、先に休んでいなさいと云っただろう?」

 

はたりと瞬くその長い睫毛が、灰銀色の髪から滴る水滴を弾き、白い頬を伝って涙のように零れていく。

帰宅して真っ先にシャワーを浴びていたらしく、ゆるく波打つ濡れ髪もそのままに、兄さんが困ったように小首を傾げる。

僅かに眉を顰めた其の顔は、しかし私を咎めているのではなく、妹を心配する兄らしい甘さを内包していた。

 

私はくすりと笑って眼を細め、真似するように、同じ方向へと首を傾げてみせた。

兄さんのその表情が、私は昔からだいすきだった。その顔が見たくて、時々わざと兄さんを困らせた。

 

「明日も早いんだろう?私のことはいいから…、」

「いいの。大丈夫よ。ね?

 それより、ほら、ユーリ兄さん!此処へ座って頂戴。」

 

戸惑う兄さんに構わず、私は先程まで自分が座っていた椅子にやや強引に彼を座らせ、手からタオルをさっと奪い取る。

ろくに拭かれていない髪からは止め処なく水が滴り、羽織ったシャツは肩口がすっかり濡れてしまっていた。

このままでは風邪を引いてしまう。

 

「もう、兄さんたら、ちゃんと拭かなきゃ駄目じゃない。」

 

兄さんはいつも通りの涼しげな表情ではあったが、その奥に隠し切れない疲労が滲んでいた。

しかし私はそれに気付かないふりをして、殊更明るく振る舞ってみせる。

 

「お前の職業を、今、改めて思い出したよ。」

 

そう云ってふわりと苦笑した兄さんが静かに眼を閉じ、丁寧に髪を拭く私に身を委ねる。

私がまだ美容師として駆け出しの頃、時々こうして兄さんの髪を触らせてもらっていた。

懐かしい。そう昔のことでもないはずなのに、何だかとても遠くまできてしまったようにすら思える。

 

しばらくの間、私たちは心地よい沈黙の中に互いの存在を感じていた。

ただこうして寄り添って存在しているだけで、こんなにも穏やかな気持ちになれる。

先程よりも僅かながら安らいだ表情を浮かべる兄さんを見下ろし、

私は胸に込み上げてくる何かを必死に堪えて手を動かしていた。

 

濡れた髪を乾かした後、今度はゆっくりと丁寧に櫛を通す。

ふわりと柔らかに波打つ銀糸を優しく梳いてやれば、月明かりを透かして絹のように淡く輝いた。

その仄かな光がぼやけてきたので、幾度か瞬いてはみたけれど、どうにもならなかった。

曖昧になってゆく輪郭が、心までも滲ませていく。

 

「…何かあったのか??」

 

不自然に手を止めた私に、気遣うように掛けられた声。ああ、兄さんの声だ。

昔から、その音がもつ温度は、何一つ変わっていない。

 

込み上げてくる感情が押さえ切れず、やがて熱い涙となって私の頬を流れていったのがわかった。

どうしようもなく愛しくて、やりきれないほど切なくて。

だから、私は誰よりも強い心が欲しかった。護る力が欲しかった。

けれど、今ならわかる。私が本当に欲しいもの。私が本当にあげたいもの。

 

兄さんが本当に笑ってくれるなら、本当に泣いてくれるなら、

兄さんの心が救われるのなら、私はもう、それ以上なんていらない。

 

いつも自分を護ってくれたその背中に額をあて、私は兄さんを静かに抱き締めた。

それは、甘えているのでも、縋っているのでもない。

私の想いの根源を込めた、祝福の抱擁だ。

 

その冷えた身体に、私の鼓動を捧げよう。

どちらか一つじゃ意味が無いと云うのなら、二つを分かち合えばいい。

同一ではないからこそ、共有できるものがあるのだと、私はそう信じたい。

 

「ユーリ兄さん、」

…?」

「だいすきよ。」

 

言葉にならない福音を腕に込めて、私はただ兄さんを抱き締め、涙する。

私の胸の内に灯ったのは、きっと、温もりを食んで産まれる幸いの火だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここね様へ。

(11.10.20)

 

 

 

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