フロイデの血液











 

 

 



何しろ興味の無い事に関する記憶はどんどん脳内から削除されてしまうので、あまりよく記憶にはないのだが、

ホグワーツに入学する前迄通っていた学校の校舎は、とにかく、とても古かった。

良く言えば古風とでも言えるだろうが、そんな綺麗な言葉で済ませられるような雰囲気では到底無く、

卒業する1、2年前にその校舎は取り壊され、その場所に真っ白な漆喰の壁が眩しい、新校舎が建ったものだった。


生憎と私はその校舎を利用する機会はほとんどなかったが、わざと避けていたと言うのも、

実はあまり新校舎を利用しなかった理由の一つでもあった。


残念ながら、奇特にも私はあの居心地も気味も悪いおんぼろ旧校舎をいたく気に入っていたのだ。

そんな数少ない私のお気に入りの場所を乗っ取って、さも当然の様に我がもの顔をする白壁が憎らしかった。

今思えばつまらない子供の独占欲なのだが、なにぶん私は本当に幼かったのだ。


私のお気に入りだった場所と言うのは、酸化と腐食の進んだ赤茶の鉄で形作られた、今にも崩れそうな非常階段。

日の当たらない北側に位置し、滅多に人が通らない螺旋状の階段だ。

ひんやりとした空気。鉄くさい鈍色。


危ないので立ち入り禁止だった鉄の螺旋に入り込んで階段に腰を降ろし、何をするでもなく、放課後に迫りくる夕暮れを眺めていた。

遠くに近くに聞こえる風や虫や人の声。

無邪気すぎたその敷地内は、いつからか私を拒絶していたのかも知れなくて。


思えば、1人になれる場所が、あの頃の私には、あんまりに少なかったのだ。

当時の幼い未熟な思考でそんな自己認識をすることは流石になかったが、無意識の孤独探究であったと、今の私は認識している。

あの腐食鉄のぐらぐら揺れる螺旋階段の手摺の感触と匂いが甦ってくるようで、私は苦笑いをした、・・・つもりだった。






「きゃあっ、!!大丈夫!?待ってて、今、・・・今先生を呼んで来るから!!」


悲痛そうなリリーの声音が遠くで聞こえたかと思うと、まったく聴こえなかった周囲の雑音がだんだん近く迄、甦ってきた。

耳栓を外した時のような、圧迫感からの解放に近い感覚。

それとともに戻ってきたのは、何故か、躯の痛み。


、動いちゃ駄目だよっ。」


少し焦ったようなジェームズの声が頭上に聞こえて、私は反射的にそちらに顔を向けた。

最初はぼやけていた輪郭がはっきりしてきて、私は彼の眼鏡の奥の心配そうな眼を見つける。

今気付いたが、私はどうやら仰向けに横たわっているらしく、ジェームズは私の隣に膝と手をついて、私を覗き込んでいたのだ。


「どうしたの?」


「ど、どうしたの、じゃないよ、まったく!

あぁ、でも本当に、意識があるんだね、よかった、今、リリーが先生を呼びに行ってるから。」


いつもは冷静な彼が、酷く狼狽しているのは初めてみる光景だったが、どうしてそんなに心配そうに私を見下ろしているのか、

どうして私は廊下に横たわっているのか、この躯と額の熱い痛みはなんなのか、私はさっぱり現状を理解できていなかった。


「ねぇ、何があったの?」


「・・・・、君階段から落ちたんだよ。もしかして覚えてないのかい?」


一層心配そうに声を顰めていう音が鼓膜に伝わって、ようやく私は思い出した。

理由は覚えていないが、とにかく、私は階段から落ちたのだった。そして、偶然近くを通りかかったジェームズとリリー。

躯と額がやけに痛むとは感じていたが、階段から落ちればそれもそのはずだと、我ながらいい加減な痛覚と神経に呆れる。


「リリー、遅いな・・・。」


彼はリリーが駆け出していった方向の廊下をすっと見据えながら、相変わらず困ったように眉間に皺を寄せていたが、

やがて痺れを切らしたように思いきって私を見て言った。


「・・・・、僕はリリーを迎えに行って、一緒に先生を連れて来るから、それまで此処を動いちゃ駄目だよ。

大人しくしてること、いいね?」


何だか幼い子供に言い聞かせるような口調が少し癪に触ったが、(そんなことを言っている場合でもないのだろうけれども。)

とりあえず私は小さく頷いて、さっさと行けという様に手をひらひらさせた。

安心したような苦笑いのような奇妙な表情をした彼は、立ち上がり、颯爽と廊下の薄闇に消えていった。


「しかし、ここで大人しくしててもねぇ・・・。」


ひらひら振った手で髪を少し掻き上げて、きしきし鳴りそうな躯の痛みを無理矢理捩じ伏せて起き上がり、

とりあえずは痛いだけで怪我はなにもない事を確認すると、立ち上がって服装を取り敢えず整えてみた。

手首も、足首も、何も、どこも捻っても折ってもいないので、自分の悪運の強さに、呆れながらも何故か笑いが込み上げる。


(結構高い所から派手に落ちただろうに、怪我一つないなんて、うわぁ、本当、有り得ない。)


少し地面が揺れているような気がしていたが、それも気のせいだということにして考えないことにする。

足取りがおぼつかないのも気のせい。


地面に散らばった羽ペンや教科書は気のせいにはできなかったが、すぐ戻ってくるであろうジェームズとリリーが拾ってくれるだろう。

羊皮紙の切れ端に、お気に入りの碧瑠璃のインクで二人と、不憫にも彼等に捕まってしまった先生に書き置きを残して、

私は何も持たずにふらふらしながらジェームズが向かったのとは反対方向の廊下に歩みを進めていった。


『私は大丈夫です。お騒がせしてごめんなさい。散歩してきます。』


いかにも馬鹿らしい内容の書き置きに、彼等は怒るだろうか。

リリーはきっと私が寮に帰ってきたら、泣きそうになりながら必死で私を叱るだろう。


でも、私は叱られるという体験が乏しい人間なので、彼女の愛情のある叱り方はかえって嬉しいくらいなのだ。

本気で心配してくれていると、そういう泣き出したくなるような温かで柔らかな彼女が私はとても好きだった。

(私が無謀な事をする度心優しい彼女を心配させてしまうことには罪悪感を感じていたが。)


廊下をぺたぺたと歩き、時々柱に寄り掛かって休憩も交えながら、見なれた廊下を辿って記憶だけを頼りに歩いていた。

広い城なのだ、そうそう全ての道を覚えられるはずもないので、とりあえず知っている廊下だけを辿れば、知っている場所に着くはずだ。


(・・・ん、此処の廊下の先は確か、あの[アレ]がある教室だったかな。)


一歩進むごとに薄闇の濃度が上がっていく気がして記憶を手繰り寄せた所、その先にあるのは標本室だった気がした。

アレ、つまりは標本が保存されている教室で、そこにはホルマリン、鉱石、薬草、昆虫、何から何迄標本と名の付くものがある。

言ってしまえば結構湿っぽくて薄暗くて悪趣味な場所なのだが、

私は滅多に人の寄り付かないその場所を「お気に入りの場所」の一つに勝手に認定していた。


ただ、それは階段から落ちていく一瞬に垣間見た、記憶の中にある錆びた鉄の螺旋階段の様に、孤独を求めて気に入った訳ではなかった。

むしろその逆で、誰も好んでこないような場所にいるあの少年に会う事が主要目的なのだ。


他の煩雑とした小さな目的としては、物珍しい標本を見るのは好きだと言うこともある。

美しい鉱石は、何度見ても飽きないものである。


行き着いた廊下の突き当たり、古びた重々しい扉の真鍮の把手を握りしめてゆっくり開けると、案の定彼はそこにいた。

彼は標本と、書物を見比べながら難しい顔をして学習する事に熱中していたので、静かに扉を開けた私に気付いていなかった。

私は足音を立てずにそっと背後から近付いて、驚かしてやろうか、と子供じみた真似を本気で考えていた。


「やぁセブルス、今日は何の論文なの?」


「!!」


驚かしたりするのは止めにして背後から普通に声をかけた私を振り返り見て、セブルス・スネイプは表情を引き攣らせた。

何やら声にならない声を上げて、思わず右手に抱えていた書物をどさりと落とした。

分厚いそれが床と衝突した瞬間、俄に埃が舞い上がって少し灰白く煙る。

ただ声をかけただけで彼がこんなに驚くとはまさか思わなかったので、むしろ私の方がびっくりした。


(私の気配も気付かないくらいよっぽど集中してたのかな。悪い事しちゃったな。)

ぼんやりと考えながら、とりあえず謝罪しておこうと口を開きかけた途端、セブルスが声を上げる。


「莫迦か、お前は!」


失敬な。

一体なんだと言うのだろうと不思議に思いながら、何故莫迦呼ばわりされなくてはいけないのかと問う。

普通に声をかけた私に驚いたからと言って、私が罵られるとは酷く心外だ。

しかし、莫迦と呼ばれても尚彼を愛おしむ自分が妙に情けなく、脱力感を誘う。


「莫迦じゃないつもりだけど。」


「だったら、その血はなんだ!」


「血?」


「・・・・額を触ってみろ。まったく・・・。」


セブルスは落とした書物を拾い、適当に棚の上に置くと、そのままひどく深い溜め息を吐いた。

私は言われた通り額に触ってみる、すると、なにやらぬるりとした生暖かい液体の感触を得て、セブルスと同じく深い溜め息を吐く。


階段から落ちた直後に感じた全身の打撲の痛みと、額の熱い痛み。

その額の痛みが示したのはまぎれもなく傷であり、頭部のその傷から流れる血液は結構な量なようだ。

血液が頬を流れる感触にさえぼーっとしていて気が付かなかったとは。

いや、出血が多かったからぼーっとしていたのかもしれない。


どちらにしろ、私は取り敢えず応急処置としてローブのポケットに入っていたハンカチで血液を拭き取り、額を押さえた。

なるほど、これはスプラッタだ。

改めて滴る血で汚れた胸元、肩口を見て思う。


「一体どうした。」


セブルスは気を取り直して私の額の傷を調べながら、さっきよりも少しだけ心配を含ませて言う。

自分の希望的観測であっても、セブルスが自分を心配してくれたと思えるだけで、流れる血液の赤も気にならなくなった。

彼の言葉の一つ一つが、きっと私の感情パラメータをコントロォルする要素に違いない。


「何日か前、昔の夢を見たんだ。それが正夢になった。」


そんなに深い傷ではない、押さえてれば直に血は止まる、と彼は小さく告げて、私の次の言葉を待つ。

私はまた真っ赤に染め上げられてきたハンカチで額を押さえた。


「私のお気に入りだった場所で、おんぼろの螺旋の非常階段なんだけど、今思い出したのよ、

あの腐食鉄の柵が壊れて、私は案の定3m程の高さから落ちたんだわ。

怪我はなかったけどね。

そんな夢のことも、落ちた事も、私すっかり忘れてたのに思い出したのよ。

さっき、向こうの階段から落ちたせいかしらね。」


「お前は注意力が足りない。ついでに言えば痛覚も鈍感だな。

それだけ額が割れているのにも気付かずふらふら歩いて来るとは呆れる。」


「十分私も自分自身に呆れているんだ、むしろ私の方が驚きだよ、本当。」


暫しの沈黙の後、結局私達は溜め息をつくばかりだった。


頭の出血と言うのはなかなか止まらなくて、どくりどくりと胸腔内で引き攣る心臓が脈打つ度に、

皮膚の切れ間からどんどん溢れだしてはぐったりと生暖かく濡れるハンカチに赤が染み入る。

脳への血液供給に障害が出たってそれはそれで仕方ないからどうでもよくて、

しかしながら、まぁいい加減手も疲れてきたので早く出血が止まればいいかなぁとは何気なく思う。


ハンカチを押さえる手にまでも血液が滲みてきて、温かさが奇妙に感覚神経を駆け巡る。

体温の素というものは、このヘモグロビンを含むどろりとした液体なのだろうかと、私はふと疑問に首を傾げる。

だとしたら、死んだら冷たくなるのは、血液の流動が滞った為に、血管内の一定の場所に留まることで温度が逃げ出してしまうせいなのか。

体温の概念等別段興味はなかったが、さして不可思議な事ではないのに、生物が温かいと言うのは途方も無く不可思議な事に思えた。


つらつらと考え事をして意識をトリップさせている私は、とりあえず流血が止まる迄は此処にいようと思い、

標本室の隅っこの壁際に乱雑に積み上げられた書物の埃を払って、その上に腰を降ろしていた。


セブルスはと言えば、何故か彼は私がこの部屋を訪れる前までしていた調べものも放棄し、

彼が持っていた分厚い書物も、拾い上げた際に置いた棚の上に置き去りにされて薄暗い中に取り残されていた。

そうして、私の座っている位置と微妙な距離感を開けたまま、壁に凭れ掛かって腕を組んでいる。

彼は何も言わない。


平生の通り彼は気難しそうな表情で、神経質に眉を顰めて何処をというわけでもなく目の前の曖昧な空間を睨む。

顔にかかった髪とか、身じろぎもしない毅然とした姿に、私は妙に胸の内を掻き乱されて言い様のない感覚に陥る。

恐らくはこの思いというのは、言葉にしてみると余りに陳腐でありふれていて、月並み以外の何者でも無いものになってしまうような、

底知れぬ深みと痛みと重み、そして巨大な愛おしさとでも定義すべきものだろう。


いつもこうなのだ。

私は正直彼を愛しているのだが、そういう気持ちを的確に言い表わそうとしてもまったく定義し尽くせない。

適切な態度と行動をもって彼に示したくても、どのどれもが上手く行かなくて、

無理に究極的に表現しようとすれば、私はきっと、彼を殺しかねないという怖れがあるのだ。若しくは私が私を殺しかねないと。


狂気を押し殺していくしかない平行線に痛みを覚えながら、それでも結構私は彼とは上手くやっていけてると、

自惚れにも似た自負は多少はあったのだ。(まったく利己的解釈に違いない。)

自制にも随分と慣れたのだ。

少しずつ歩み寄る楽しみも理解出来なくもなかったのだし。


、血は止まったか。」


「う〜ん・・・いや、まだみたいです。」


「ならばさっさと医務室へ行け。いい加減にしなければ本当に手遅れになるぞ。」


「大丈夫、大丈夫だからもう少し此処に居たいの。血が止まる迄は、此処に居たいの。」


駄々をこねる子供のように我が儘を押し通した私は、少しセブルスに迷惑をかけた事に罪悪感を覚えた。

(迷惑をかける事はいけないことだという私の思考の習慣性による。つまりはその罪悪感自体が良心でもあったらしいのだ。)

それでも此処に、せめて血が止まる迄は居たいのだと願うのは、紛れもなくこの現在があまりに居心地がよかったからだった。

セブルスがいて、血が温かくて、私は少し空想に浸っていて、生きている事への不思議さがくすぐったくて、たまらなく彼が愛しくて。

つまりは束の間でももう少しそんな居心地のよさを食べていたい。


セブルスは私の我が儘を肯定しなかったが、否定もしなかった。

沈黙。

それが彼の答ならば、利己的解釈にまかせてもう少しここにいようと思う。


あぁ、血が、もう永遠にこのまま止まらなければいいのにと願ってしまった、罪深い私をどうかお許し下さいませ。


私が階段から落ちたのは偶然ではなくこういう一時の歓びの為の必然だったのだろうか。

どちらにしろ、躯の軋む痛みにも、私を落とした階段にも、額の出血を誘う傷口にも、

私は感謝しなくてはならない。















Fin.



 

(02.12.22)

 

 


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