春の秘密









脳裡にフラッシュバックする、木漏れ日の森、壊れた人形、鴉の屍骸。

小さな掌が掴んだもの等所詮は泡沫の光だった。

弾けて消えるような、そして訪れた闇に脚が竦むような。

絹のように滑らかな春の日射しは、私にくれてやるものなど何も無いのだと思い知らせる。




「こっちだ、セブルスくん。」


暖かく湿った腐葉土に黒い革靴をゆるりを沈み込ませながら、

それでも毅然とした態度を崩さず眉間に皺を寄せて私の少し後方を歩むセブルスを振り返り、

片手を軽く上げながら彼に声を掛けた。

一時間程前から何度も私と彼を行き来している此のやりとりも、そろそろ飽きて来ても可笑しくは無い頃である。


光の帯が梢の狭間を縫うように射し込み、しなやかに天上を目指す高い木々の底に薄明るい陽が溜まっている。

此処は杉のような真直ぐの針葉樹林が並び立ち、只管に直線的に柱になった景色が何処迄も続く森の中であった。

見通しはそう悪くも無かったのだが、一度迷えば同じ景色の中で感覚を磨耗させられかねない。

しかし彼に限ってそんな事は無いだろうと思い、また同時に、

そんな可能性があるとすれば其れはむしろ私の方だろうことが考えられる。


時折倒木を跨ぎ、小さな茂みを避けながらも、延々と同じ景色の中を私はセブルス少年を先導しながら只管に突き進んだ。

先程、迷う確立は私の方が高いだろうとは云ったが、此の森は私の肺に馴染む空気と、私の眼に馴染む景色を持っている。

我が庭を歩いているようなものなので、万が一と云う事は決して無いのだ。

何より、私に此の森を忘れろと云う事の方が土台無理な話だ。


「おい、。…お前、本当に路を解って、歩いているんだろうな?」


心底疑わしいと云う気持ちのありありとこもった声で、セブルスが唐突に鋭くそう切り込んだ。

少し息を切らした風な声音が彼にしては珍しいように思えて、私は口元を僅かに弛ませる。

気が付けば随分と私と彼との間には距離が開いているようだった。

早足ながらも慣れない地面に靴裏を捕られて歩き難そうにしている彼を少し振り返り見て、

私は立ち止まり彼が追いつくのを此の場で待つことにした。


やがてセブルスが追いついたのを確認してから満足げに頷き、また歩き始める。

ザッザッと云う腐葉土を蹴りつけるような小気味良い2つの足音に気を良くした私は、春の土の匂いを肺に詰め込んだ。


「もちろんちゃんと路は合ってるさ。

 此処は私の庭も同然なんだよ?

 まあ、路と呼べるような道程でもないからそう云いたい気持ちは分かるけどね。」


「はっ、どうだか。お前の方向感覚なんぞあてにもならない。」


「失敬だね。

 君が卒論の為の研究に必要な薬草が手に入らないってぼやいてたから、

 私が親切にもこうして其れを分けてやろうと申し出てやったってのに。

 君の希少なありがとうの一言を頂いたって決して罰は当たらないくらいに私は親切だと思わないかなぁ?

 私だって暇じゃ無いんだからさ、こうしてわざわざ君の為に休暇を一日潰し…」


「あーくそっ、分ったから少し黙れ!」


苛々とした様子で私のわざとらしく恩着せがましい言葉を切断して、セブルスは少し乱れた呼吸の隙間で舌打ちをした。

はは、と渇いた笑い声を上げてそんなセブルスをからかい、ふと気付いて私は再び立ち止まった。


「あぁ、ほら、あれだよ。」


彼は何だ、と短く云い捨て怪訝な顔をしながら、私が見上げて指差す方向を見た。

他の木々に比べて一段と太い幹を持つ木の上方、遥か高みに位置する枝先に、

黒くてふわふわしたものが細い荒縄で吊るされている。

葉の隙間から射し込む逆光に景色の輪郭を暈され、

眩しそうに眼を細めながら、セブルスは一層眉間に皺を寄せて少し首を傾いだ。


「何だ、アレは。」


ぽつりと純粋な疑問として吐き出された言葉に微苦笑して、

吊るされた黒いものに視線を向けたまま私は淡々と答えた。


「鴉の屍骸だよ。昔からああして必ず此の森の定位置に鴉の屍骸が吊るされてる。

 あれが此の森独自の標なんだよ。

 もちろん、私はあんなの見なくても、路、覚えてるけどね。

 詳しいことは聞かないでね。

 だって私もあれが標である理由は知らないし、

 誰がわざわざ絶えず屍骸をあすこに吊るしてるのかも分からない。

 ただ昔からそういうことになってる。

 此れが当たり前なんだ、条理なんだよ。」


説明になりきれない説明をする私の横顔をまじまじと見遣り、セブルスは深く溜め息を吐いた。

そうして、どうでもいいからさっさと行くぞ、と低く促すので、私は頷き、黙ってまた前を向いて歩き出した。

鴉の屍骸が吊るされている木の下を通る時、腐葉土に混じった夥しい漆黒の羽根が黒い綿のように散らかっていた。

何処か妖しげに美しく艶を帯びた羽根を、私は何の厭いも無く踏み付け、歩き進んだ。

柔く靴裏を捕らえる感触が、生き物を殺める背徳性に似ている。


「此処迄来ればもうすぐ着くさ。」


「どうだか。」


「あてにならないって?

 さっきも同じ台詞だったじゃないか。

 セブルスくん、君、ちょっと語彙が足りないようだねぇ。」


煩い、と怒鳴られながら、至って穏やかに私は目的地に向かっていった。



そうして暫く歩くと、ふっと一定間隔で林立していた木々が途切れ、

不自然な程自然に周囲を木に取り囲まれた小さな荒れ地が唐突にぽっかりと口を開く。

荒れ地の中心には半壊した薄茶の煉瓦造りの家がひっそりと其の身を朽ちるに任せている。

表面がざらりと湿り風化しかけた煉瓦は、一部に蔓植物が這い回り、所々しっとりと深く苔むしていた。

此の廃虚がどれ程長い年月を此の森の中で過ごして来たのか、

沈黙の内に物語っているかのような佇まいである。


屋根が腐り落ちた廃虚の内と外に溢れるように咲き乱れた雪に見紛う白い小花の群れは、

まるで枝垂れた柳の細い枝が雪を冠ったような景色だった。

幼い頃に私が廃虚の脇に植えた小さな一株の雪柳は、

幾年月を経て剪定もされないままに華奢な腕を勢いに任せて伸ばし続け、

今や廃虚と化した小さな家を白い洪水で飲み込まんとしている。


絹の日射しの中で眼を潰すような純白の花々は、神聖性よりもむしろ異様な四月の雪だ。

風化しかけた煉瓦造りの壁の成れの果てを埋め込むように咲き乱れた白は、

壁の下に落ちた陰の中ですら、異様な迄の白を掃いていた。

芽吹き始めた草々の早緑の絨毯を無数の小さな花弁が覆い、季節外れの積雪が暖かい冬を形成していた。

其の光景は森の中に突如表れるには些か異質なメルヒェンなのであった。


私達は黙って其の荒れ地の手前で立ち止まり、其の空間が保ち続けている非現実的にも見えた美しい様相を眺めていたが、

横目でセブルスを盗み見てみると、彼は戸惑うように、それでもじっとその廃虚の雪白に視線を奪われているようだった。

其の様子に私は微笑ましい心地になって少し眼を細め、もう暫く黙って彼が見飽きるのを待ってやる事にした。


(何だかんだ云って、セブルスくんも実は意外と風流人なんだね。

 何とも微笑ましいひとだ。)


久し振りに此の森に入り、久し振りに此の廃虚を訪れた。

来たく無かった訳ではないけれど、再びこの朽ちた場所を目の当たりにした私は、

小さなフラッシュバックが何度も何度も網膜を過るのに閉口し始めていた。


木漏れ日の森、壊れた人形、鴉の屍骸。

廃虚、咲き乱れた狂い雪の花、白い花冠。

私の秘密基地。

誰も迎えになど来てはくれないから、私は1人で此処を訪れ、そうして1人で此処から家に帰って行く。

幼かった私に覆い被さるように腕を伸ばした雪柳の仄かな甘い香も、

ママの焼いてくれたケーキ程には、私の心を躍らせる事は出来なかった事実。

1人きりの春に押し込めた遠い昔の秘密。


。おい、聞いているのか。…!」


「え、あ、うん?」


ノスタルジックが過ぎたらしく、セブルスが私を睨んで鋭く叱責する声に気付かなかったようだ。

曖昧に笑って、何事も無かったかのように廃虚に向かって歩き出した。

まだ剣呑な色を帯びた視線で私の背中を刺しているセブルスの気配を、具に感じながらも無視した。


「ごめんごめん、ちょっとぼーっとしてたんだ。」


「そんなことはどうでもいい、さっさと薬草を採取して帰るぞ。」


「えー折角来たんだからゆっくりしていけばいいじゃない。

 此処程の美しい雪柳は、他に此の国の何処を探しても無い筈だよ。

 花を愛でる雅な感性も人間には大事なんだからさ。」


「下らない、僕はと違って忙しいんだ。

 無駄にする時間等持ち合わせていない。」


「あのさー、薬草、無償提供するとは云って無いよね、私。」


そう呟いてやれば、彼がぴたりと数歩先で足を止めた。

意地の悪い物言いをする自分自身に呆れながらも、彼の一挙一動が楽しくて堪らない事を自覚していた。


「生憎と私は物を金銭で取り引きする趣味は無くてね、無形のものを代償にすることにしてるんだ。

 と、云う訳で、君の時間と引き換えにさせて頂きます。へへ。」


shit!と小さく吐き捨てるセブルスの小刻みに震える背中に、してやったりだ、

と云う気持ちを存分に込めた笑顔を向けながら雪柳の長い枝を一本手折れば、

其の反動で揺れた周囲の枝から溶けない細雪が降り、眩しく白を散らす。

枝をもう数本手折っては其の度に溶けぬ雪をまき散らし、徐に足元に横たわる大きな倒木に座り込みながら、

手折った枝を器用に繋げて私は雪色の花冠を作り始める。


まだ横でセブルスが鋭く何かをぶつぶつと云い放っていたが、

意図的に遮断した聴覚でやり過ごそうとする私に呆れたのか、

直に押し黙って舌打ちをし、今度は私を極力無視するように廃虚の周辺を散策し、目的の植物を探し始めた。


「セブルスくん、」


倒木に腰掛けて手元の花冠に意識を向けたまま、彼を呼び止めた。

ふと、肩越しに真直ぐに射抜くような視線を感じたので、心持ちそちらの方向に向かって声を掛けてやる。


「あれは日陰に生えるから、廃虚の内側を探すといい。雪柳の反対側の壁際あたり。

 今頃だと草丈が10cmくらいだろうから、よく眼を凝らさないと見逃す。」


「…あぁ。」


まるで鏡のように反応するのだなと思い、彼を少しいとおしく思った。

私が軽口で切り込めば、彼は鋭くそれを跳ね返さんとして鋭利な言葉を吐きつける。

そして先程のように真摯な言葉を向ければ、言葉は足りなくとも存外素直な反応を返してくれるので、

不意打ち紛いの毀れ落ちた鋸歯の柔さに、甘い綿を飲んだような暖かい胸のつかえを覚えた。

こういう所が無性に私を愛しくさせて、だから此れは彼の無意識的な狡猾さなんだと思った。

彼は一体何処迄其の細い躯にスリザリンの素質を染み渡らせてしまったのだろう。

手が届かなくなる程に君の裡にたゆたう闇は眩しい。


手に持った雪柳の枝の柔らかな感触の心地よさに少し哀しくなって閉口し、

時折吹く風と葉擦れの音、そしてセブルスが地面を踏み締める音だけをただ聞いていた。


雪は冷たくあるべきだ。

陽光を吸い込んだ暖かくて柔らかい雪なんて正気じゃない。


花冠を携えて立ち上がると、廃虚の内側の日陰の中にしゃがみ込み、

真剣な眼差しを地面に向けているセブルスに歩み寄った。

壊れた壁の一番低い部分をゆっくりと跨ぎ越して、彼の背後に立つ。


「どう、見つかった、」


「あぁ。」


「…今年の春は少し寒かったから、育ちが少し悪いようだね。

 あんまり質が良くなくて悪いね。」


「いや、十分だ。」


目の前で黙々と小さな植物を吟味し、慎重に摘み取っている背中が動く度に、

何だか其の背を蹴倒したくなるような首筋に指を絡めたくなるような。

恐らく雪柳の狂気が私にも感染している気がする。

いっそ今此処で彼を殺して、私の春の秘密を塗り重ねることが出来たなら。


噛み殺した何らかの言葉を飲み込んで、私は何の躊躇も無く静かに雪柳の花冠をセブルスの真黒い髪の上に乗せた。

弾かれたように彼の身体が揺れ、一瞬で其れをほとんど無意識的な動作で叩き落とし、

私を振り返ってきっと睨み上げ、彼は思いきり顔を顰めて何をするんだと怒鳴った。


真黒い髪から真白い花弁がはらりと溢れ落ち、そして投げ付けるように乱暴に捨てられた花冠の軌跡を辿るようにして、

私と彼の狭間で何とも云えない艶めいた秘め事を含み、雪白の花弁が空を舞っていた。


暖かい雪が降る。

私も花雪もきっと正気じゃ無い。

春はきっと狂気の季節だから、正しい温度をした雪が全てを閉じ込める冷たい季節に戻って欲しいような気分で、

何も云えなくて、怒るセブルスに黙って曖昧に微笑みかけた。


「くそっ、いい加減にしろ、。ふざけた真似をするなら僕はもう帰るぞ。」


「…そんなに怒らなくともいいじゃないか。

 君、髪黒いから映えて美しいと思って。」


「…此の陽気で頭が腐敗しているんじゃないのか。」


「あり得るね、其れも。でもそんなもんだよ。

 人生は物語のようなものだから、本当は何が起きたってちっとも不思議じゃ無い。

 例えば今もじわじわと私の中で腐敗が進んでいるとかそう云う事だってね。

 だって、生きているからって死んでいないとは限らないでしょう?」


花弁の散り乱れた花冠の骸を踏みにじりながら、私は穏やかに笑った。

時折吹く風はまだ少し冷たくとも、降り注ぐ日射しは絹のように柔らかく私の皮膚を包んでくれる。

其の中でまた瞼の裏をフラッシュバックする過去とセブルスと私の秘密と、嗚呼、雪柳の白さ。


「…帰りたければ、もう帰っていいよ…。

 鴉の標を辿れば出口に着くから。

 私、まだ此処から出られない。」


何年も此処に来なかったのは学校が忙しかったから。

其れ以外の理由なんて無い。

だのにまた春と云う季節に此処へ来てしまった今、

木漏れ日の森、壊れた人形、鴉の屍骸。

廃虚、咲き乱れた狂い雪の花、白い花冠。

私の秘密。


こんな過去ばかり抱えたまま此処を出る事は出来なかった。

秘密は秘密の侭、此処に置いて行かなければならないのに。



雪柳が侵食している壁に凭れて、真っ白な枝に身を埋めながら、

荒れ地を去るセブルスの後ろ姿を見ていた。

途中で一度だけ立ち止まり、振り返り、静かな眼で取り残された此の景色をじっと見つめ、

彼はまた当たり前のように歩き出した。

もうそれから、彼は振り返らなかった。


木々の日溜まりと陰に、遠く小さく飲み込まれて行く其の背がもう一度こちらを振り返ってくれたら、

そんな奇蹟が起きれば、私は秘密を投げ置いて彼の背を追っただろう。

でも彼はたった一度しか振り返らない。

一度だけしか振り返らない、けれど一度だけは振り返ってくれるセブルスが、胸が痛む程愛しかった。


私は彼を春の日の秘密にして此処に押し込めてしまいたかったのに、

絡め取られたのは私だけで、彼の面影さえ此処に閉じ込めきれなかった。

此処で廃虚と共に朽ちていくのは1人きりの春に押し込めた遠い昔の秘密だけ。


四月の雪はただ暖かく傷んでいた。








fin.




(05.2.27)

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