ミルク











湖の冷たい水に溺れてもがきながら、

暴れる飛沫に掻き消されていく乳白色に濁る視界は、

まるで私をミルクに溺れているように錯覚させるのです。






朝食の席、ざわざわと騒ぎ立てながら食事をする空気が、平生よりもずっと苛立たしく感じられて、

私は周囲から顔を背けるように何気なく俯いて更に眼を伏せていた。

どんなに必死に両耳を塞いだ所で、粒子の小さい音の洪水を防げない事はわかっているし、

突然そんな行動に出れば奇異なものを見る眼で周囲の生徒達に見られるに決まっている。

変な人間だと認識される事は構いやしないが、目立つ事は本意じゃ無い。


溜め息を吐きながら顔をとりあえずおざなりに上げ、真白い皿の上に散らばる少量のサラダを詰るように掻き回した。

行儀が悪い等と叱られればまるでお笑い種、溜め息にもならない気休めの常識だと茫洋とした気分で思う。

いつもなら気にならないはずの、この年頃の少女に特有の甲高い笑い声がやけに肋骨の中に迄響いて、

音の反響を吐き出してしまいたい焦燥と自己防衛に駆られた。


胃がきりきりと痛む。ただ痛むだけでは無い、嘲りと否定を内包した非常に質の悪い痛み。

こういう痛みは、ときどき幻覚や幻聴を引き起こすので、早々に駆逐するべきだった。


「私今日の授業全部休むから、先生にそう云ってくれないかな?」


隣で満足そうに蜂蜜のたっぷり入った熱く甘ったるいレモンティーを飲んでいた友人に声を掛けると、

友人は快くそれを引き受けてくれた。私はろくに朝食も食べず大広間を出た。

胃は相変わらずきりきりと厭なふうに痛んでいたが、

何百にも重なった人間のノイズの直中から離れるだけで、随分と気分は改善される。

私はやはりどうにも人の群れと云うものに辛抱強く無い。


まず私はまっすぐに寮に戻り、誰もいない談話室にも眼もくれず、自室へと急いだ。

普段は誰もいないがらんとした談話室に1人でいられる事は珍しく、

その機会があれば大きな部屋の隅で、1人その空間を楽しむのが密かに好きだったのだが、

今はそれよりも小さな空間に居たい気分だった。

きっと大広間が広すぎたせいだ。


ベッドに腰掛けて、自分の座っている幅以外を全て赤い天鵞絨のカーテンで覆った。

背後にあるベッド上の閉鎖空間に満足して、そのままぼぅっと窓の方を眺めていた。

青灰色の空はすっかり雲に覆われ、朝だと云うのに晴れやかな一日の幕開けを全く想起させない。

特に意味も無く、嗚呼、駄目だなぁ、全然駄目だ、と呟いてみた。

何が駄目なのかは特に理解を求める程中身のある言葉では無い。


暫くして二人の同室の友人が慌ただしく部屋に戻って来た。

たわいなく話し込んでいたら始業時間ぎりぎりになってしまったらしい。


、具合が悪いの?」


「うん?

 いや、うん、まぁそう思ってくれたらいいなぁ、なんて…。」


思い出したように尋ねられて、曖昧な返事をにやにやしながら返すと、友人は呆れたような顔をしつつ、

まぁそういうことにしておいてあげるわ、と笑って急ぎ部屋を出て行こうとした。

ふと慌ただしく立ち止まり、ローブのポケットからくしゃりと手紙を取り出して私に投げ付ける。


「な、投げなくとも良いでしょうよ。」


「私はあなたと違って忙しいのよ!

 それ、手紙。が出て行ってすぐ梟が来て、あなたがいなくて困ってたから、

 変わりに受け取っておいてあげたんだから、感謝してね。」


「ありがとう、今度ハニーデュークスのオレンヂチョコレィトくらいなら奢ったげるよ。」


「あはは、まぁ期待しないでおくわ!」


云いながらばたばたと出て行った友人達を見送り、皺のよった手紙を足下から拾い上げた。

手紙と云うよりは、走り書きのメモに近い。

広げてみると、差出人の名前も書いていない本当にメモ程度の短い内容だったが、

神経質そうな達筆には心当たりがあった。


"知るか。自分で探せ。"


手紙に記述されているのはたったそれだけだった。

甚だ失礼な内容なのだが、私は胃の痛みを忘れる程必死に笑いを堪えてベッドに顔を伏せていた。

手紙の彼は全くもって興味深いひとだと、笑い過ぎて目尻に溢れかけた涙を拭った。


此の手紙は、昨日私がセブルス・スネイプに送ったどうでもいいような手紙に対する返事だった。

何と書いて送ったのかも忘れてしまったが、とにかく、暇だったので、面白いお勧めの本はあるかと訊ねたのだと思う。

其の返事がこれだから、全く彼と云う人は構うに飽きない。


本当にお勧めの本を教えられてしまったらどうしようかと思ったが、期待通りの答えに私は満足した。

私が彼に求めたのはそもそも、暇つぶしに手紙を書きたかったという気持ちを満足させる事と、

彼特有のナンセンスとも云える皮肉った返事だけだった。

全ては私の思想の範囲内に綺麗に納まってくれた。

それだけで随分と彼には楽しませて貰えたものだと私はまた手紙を見遣って笑った。








「おーい」


颯爽と芝生の敷き詰められた校庭を歩くセブルス・スネイプに向かって、私は手を振った。

彼は一応は立ち止まってこちらを向いてくれたが、其の表情は恐ろしい程険悪な顔であり、

何故か制服もローブも泥だらけで、髪からはさらに水滴が滴っていた。

さてはまた悪戯に引っ掛かったな、と、近寄る人を刺し殺すような鋭い眼をした彼に向かって眼を細めた。


私は黙って左腕をひらひらと揺らし、彼を手招いた。

心底厭そうに顔を顰めて、彼は危うくそのまま通り過ぎようとしたが、私は真剣な声で、御願い、と声を掛けた。

暫く立ち止まって私のいる方向に背を向け、葛藤していたようだが、

厭そうに、本当に厭そうにしながらも気の進まなそうに私の方に足を向けてくれた。

気持ちが態度に出過ぎるから、悪戯仕掛人達に余計にからかわれるんだろうに。私は苦笑した。


、一体お前は何をしているんだ。馬鹿か。」


私の目の前に立つなり、私を見下ろして吐き捨てるセブルスの酷薄な言葉をにやにやしながら受け取った。

彼がそんな風に呆れたように怒っているのは、恐らくずぶ濡れの身体の半分が湖に沈んでおり、

何とか岸辺にしがみついているという私の有り様に、頭が痛くなったせいだろう。


「ちょっとさ、よろけた弾みで足滑らせちゃって、這い上がろうにも這い上がれず困ってるの。」


「一生浸かってろ。」


「厭だよ。ちょっとだけでいいから、手を貸して貰えないかな。」


「断る。」


「君だって泥だらけじゃない、」


「…お前のはただの自業自得だ、一緒にするな!」


「そんなの知らない、文句があるならふらついた私の脚に云ってやってよ。」


少し憮然として云うと、彼ははぁっと不快そうに溜め息を吐き、何で僕が、と散々悪態を吐きながら、

顔を盛大に顰めて嫌々片手を差し伸べてくれた。

彼の少し泥に汚れた手に捕まり、ゆっくりと身体を湖から引き出した。


湖から脱出した反動で岸辺に倒れ込むように伏せ、水の中とはまるで違う自身の身体の重さに寂しさを感じた。

捕まっていたセブルスの手がさっさと乱暴に振り解かれ、濡れ芝生に頬を寄せて倒れ込んだまま苦笑する。


「ありがとう、セブルスくん。本当に助かったわ。

 水草だったのかな、何かが足に絡まってしまってたみたい、自力で這い上がれなくなっちゃって。」


「いい加減起き上がったらどうだ、みっともない。」


「もがいて、もう力尽きたよ。」


私は笑いながら、ぐったりと倒れ込んだまま身体を少し丸めて、不機嫌そうに立ち上がったセブルスを見上げた。

まだ、胃がとても痛んでいる。

水が入った鼻の奥や喉がひりひりと痛んで、私は改めて少し咳き込んだ。


「溺れそうになるなんて、初めてよ。」


少し掠れた声で自嘲気味に呟くと、セブルスは、溺れたのか、と特に何の感情も無さそうにおざなりに問う。

私は苦笑を貼り付けたまま頷き、息を吐いた。


「私、得意な訳じゃないけど、泳げないわけでもないの。

 でも、服がこんなに重くなるなんて、知らなかった。

 水泳の練習をするなら、服を着たまま泳ぐ練習もした方がいいわね、きっと。」


「…馬鹿らしい。」


「あー、もう、疲れた。

 もがいて死にそうになってたらさ、段々視界が白くぼやけていくから、

 何か冷たいミルクに溺れているみたいな心地がしたよ。

 ちょっと私に運が足りなかったら、もしかしたら君が私の死体の第一発見者だったかもね。」


「死にかけたと云うわりには随分と元気そうだがな。」


「今だからこそだよーあー生きてるよねー。」


対して嬉しくも無さそうに空虚な笑みを浮かべたまま、少し擡げていた頭を再び芝生に放り出した。

身体がひどく怠くて、全身を喰い潰して行く疲労感が瞼に及んで視界を閉ざそうとする。

ごろりと芝生に預けたままではひたりと濡れた前髪に邪魔されて景色が黒く霞んでいたが、

泥だらけの靴がいらいらと地面を踏み締めているのが見えるので、

瞼を閉じたい心地を押さえ付けてその靴の爪先がまだ私の方向を向いている事の歓喜を味わう。

正直な所、別に溺れ死ぬなら其れは其れでそう云う仕組みになっていたのだろうと私は自分の死期に逆らいもしない。

しかしその靴先が向く方向を確認出来た事で湖から引き抜かれた生に対して感謝等と云う陳腐なものも感じていた。


「…おい、…?」


上から珍しく少し戸惑った低い声が聞こえて来たので、ごろりと芝生に頭を擦り付けるようにセブルスを見上げると、

彼は私を見ながら一瞬驚いたような色を見せたが、すぐに憮然として顔を逸らし、眉を顰めて舌打ちをした。

恐らく身動き一つしない私を見て死んだのかと焦ったのだろう。

可愛いことをしてくれるものだと私は痛む胃の奥底を掻きむしるように身体の中だけで笑った。


「嗚呼、そうだ、セブルスくん、」


思い出したように呼び掛けると、彼は少し黙った。

それは、返事をするのも厭だが、聞いてやらない事も無いと云うスタンスで私の次の言葉を待つ時に取る態度だった。

私はそういう彼の態度が好きだった。無駄だらけなのに無駄が無いとは、何と素敵な逆説的肯定なのだろう。


「今朝の。手紙の返事、ありがとうね。」


何の裏も企みも含ませない率直な言葉でそう云うと、彼は意味が分からないと云うような訝しげな顔を顰めた。

今朝友人伝いに届けられた羊皮紙の切れ端に記された素っ気無い返事を、

憤慨されこそすれ感謝される筋合いは無いと彼が思っているだろう事が手に取るように分かる。

ふっと笑い、私は呟いた。


「何時かきみを掌握出来るなら、生きる事をも厭わないよ、私は。」


私の囁いた言葉が聞こえなかったのだろう、彼は眉を顰めるだけ顰めてさっと身を翻して、

芝生の上で濡れた鴉の屍骸のように横たわる私から遠ざかって行った。

地面を伝う足音が聞こえなくなる程、切なくて、其の癖やけに歓びから由来する震えが首筋を嚼んだ。


彼が私を湖から引き上げた行為は、彼にとってすれば人生最大の過ちかもしれない。






毎朝繰り替えされる喧騒の中、私は変わり無くテーブルに並べられた朝食を見渡して、うんざりした。

雑音、温度、気配、薫り。

私は頬杖を付いたまま眼を閉じて、大広間の全てが冷たいミルクに押し流される白昼夢の中で彼をおもった。














fin.




 

飲み干せないのは白い愛と

甘く腐敗してゆく夢

(05.2.19)


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