錆色の沼 9











「私が、薬を、ですか…?」

 

どう云う顔をしていいのか分からず、私は困惑を隠そうともせずにスネイプ先生をじっと見つめる。

先生の顔は平生通り、眉間に深く皺を寄せた不機嫌そうなそれと何ら変わりはなかったが、

其処に僅かながら別の色が混じっているような気がしてならず、根拠の無い確信がやけに私を不安にさせた。

 

 

 

 

事の発端は火曜日。

選択科目の関係で一日ぎっしりとスケジュールが詰まっており、

更に放課後には、またしても熱を出して休んだ月曜の授業分の補修も入っていた。

 

私の事情を知っているからこそ、きちんと頑張れば単位を落とさずに履修できるようにと、

マクゴナガル先生がわざわざ私の為だけに、特別に実施してくれた補修だ。無碍には出来ない。

 

結局、私が一日に受けなければならない授業を全てこなし終えたのは、既に大広間で夕食が始まっていた頃だった。

どうせ食欲も無い、さっさと部屋に戻って寝てしまおうと思いながら、

鞄を抱えて教室を出ようとすると、教壇の傍らからマクゴナガル先生が私を呼び止めた。

 

「ああ、ミス 、スネイプ先生が貴方にお話があるそうです。

 夕食後に魔法薬学の教室に来るようにと伝言を預かっています。

 忘れずに行くように。」

 

「…教室に、ですか?…はい、わかりました。」

 

呼び出される事はそう多くは無いにせよ、特に変わった事ではない。

何かやらかせば呼び出しを食らうし、何もしてなくても減点罰則、なんてことだってざらにある先生だ。

土曜の恒例行事以外は、私も他のグリフィンドール寮生と何ら変わらない対応をされるのだから。

(要するに理不尽な罰則や減点など日常茶飯事であると云うことだ。何とも大人げない話だ。

 しかしそれでこそスネイプ先生のスネイプ先生たる所以であると考え、私は小さくにやついた。)

 

しかし、薄暗い廊下を歩きながら、胸の中を漂うのは確かな違和感だった。

今日は呼び出されるような失態もしていないし、そもそも薬学の授業も無い日だったから顔も合わせていない。

薬は先週の土曜に飲んだばかりだから、近頃濃度が著しく上がってきているとは云え、

まだ火曜日だ、さすがに効力は持続しているので其れに関しては問題無い。

 

そして何より呼び出された場所が一番不可解だった。

薬を取りに行くのも小言(と云う名の厭味)や罰則で呼び出されるのも、大抵は先生の部屋であって、

敢えて魔法薬学の教室を指定される事はほとんど無い。

 

以前提出したレポートの不備とか何とか難癖付けられて、魔法薬の作り直しでもさせられるのだろうか。

魔法薬学はどちらかと云うと好きな学科なので授業は苦にならないが、

流石に今日これからと云うのは勘弁願いたいものだなんて思いながらくつりと笑う事で、

胸に蟠る、不穏を孕んだ違和感を箱の中にきつく閉じ込めた。

 

 

 

 

平生よりも尚薄暗く陰気な教室でスネイプ先生に告げられたのは、

例の私の薬を自分で作ってみろ、と云う、

予想できたと云えばできたし、できなかったと云えばできなかった事態だった。

 

「あの、先生、其れは、どういう意味と受け取ればいいのでしょう?」

 

「そのままの意味だ。

 扱う材料は繊細な扱いを必要とするものだが、調合自体は然程難しくも無い。

 ホグワーツに在籍せし数年、一体何を学んで来たのかね、ミス

 これしきの調合、出来ぬとは云わせぬぞ。」

 

ぎろりとこちらを睨む、先生お決まりの凶悪な表情は軽く受け流すとして、(もはや見慣れたものだ、)

私は此処に呼び出された理由を思って途方に暮れていた。

 

先生の云いたい事はよく分かる、理解している。

けれど納得しているかと問われると、利己的な気持ちに阻害されて、とても納得など出来よう筈も無かった。

 

入学当初には無理でも、入学以来培って来た知識と技術のお陰で、

今なら確かに自分の薬の調合くらい、私の身体に合わせた細かい調整法をさえ教えて貰えば十分に出来るだろう。

自分で出来る事を、いつまでも先生の手を煩わせて任せきりにしようとしていたのは、ただの甘えでしかない。

 

其の事にずっと気付いていながらも、私はどうしても此の繋がりが絶たれてしまう事が怖かったのだ。

毎週土曜が来るのが厭で仕方が無かった。(酷い味の薬を飲まねばならない。)

毎週土曜が来る事に安堵した。(他の誰よりも何よりも、先生だけが私にとって救いだった。)

ずっと続いて行く事など、何も無いと知っていたのに。

 

 

私はそれから自分が何と答えたのか先生が何と云ったのかも分からないまま、

気付けば分厚い革手袋を付けてあの鮮緑色の植物の葉と茎を刻んでいた。

此れは私の制約。私の拘束具。私の死刑台。私の毒。

鮮やかすぎる緑が薄暗い手元の中でぽっかりと浮かび上がって見えた。

 

先生は私の斜め後ろで静かに腕を組み、温度を感じさせない眼差しで私の手元を監視するように眺めている。

ふいに手を止めた私にすかさず静かな叱責を飛ばす先生をゆっくりと虚ろな眼で振り返ると、

先生は何かとても厭なものを見たとでも云うように酷く苦々し気に顔を顰めた。

人の顔を見てそう云う表情をするだなんて失礼なひとだと詮方ないことを考えながら、

私は再び手元に視線を戻し、おもむろに革手袋を外し、半ば切り刻まれた毒草の一片を左手で摘んでみた。

ピリッと指先が痛んだと思った途端、鋭く手を叩かれて私は思わず摘まみ上げた緑を机の上に取り落とした。

 

「この馬鹿!一体貴様は何を聞いていた!

 素手で触るなとあれほど云っただろうが!」

 

手首を無理矢理掴まれたかと思うと、そのまま蛇口の下に左手を引き込まれ、

シンクに跳ね返った水飛沫が袖を濡らすのも構わず勢い良く流れ出した流水に浸される。

 

思わぬ先生の行動に呆然として水に浸される手元を見下ろせば、指先は青紫色に変色し、皮膚が爛れていた。

猛毒を持つ植物だとは知っていたが、摘まみ上げただけでこうなる程とは思わなかった。

指先の痛々しさとは裏腹に、私は俯いたまま暗く微笑んだ。

 

「先生、」

 

「呆けた顔をしているかと思えば、此の様か!

 全く持って愚かしい!ミスには…」

 

「私に残された時間があとどのくらいか、先生、本当はもうずっと前からご存知なんでしょう。」

 

言葉を並べて私を責め詰る先生を遮り、何度尋ねても答えを返してはくれなかった問いを、もう一度、投げ掛ける。

意図するところは知らないが、先生が此の問いには絶対に答えてくれないだろうことは、

既に何年も前に尋ねたときから分かっていたが、私は敢えて再度問うて、先生の顔を真直ぐに見上げた。

 

入学式の前に初めて廊下で出会った時と同じだ。

先生は険しい表情で私を見下ろし、私はその顔を見上げ、微笑む。

そして先生は僅かに困惑したように、そして其れを振り払うように、深く眉根を寄せるのだ。

 

私達は結局、本当の意味ではあれから何も変わっていない。

解決しない問題、答えの無い問い、出口の無い感情。

手段を失った目的と、目的を果たせぬ手段。

こうしてみんなどうしようもない事をどうにかしようとしていたのだ。

 

爛れた指先をそっともう片方の手で覆い隠した。

ふと手首に眼をやれば、先程先生に力任せに引っ張られたせいで赤くなっていた。

 

「誰が、何を、間違えたんでしょうか。

 校長先生は間違ったって仰ったけれど、

 でも私には不思議と、誰かが何かを間違ったようには思えないのです。」

 

誰も何も間違っていない。

もうどうすることもできなかった。

選んだ道も選ばなかった道も、きっと最初から全て同じ結末を目指していたのだとしたら。

 

「ただの独り言です。申し訳ありませんでした。」

 

感情を排した言葉で思考を打ち切り、私は何事も無かったかのように作業を再開した。

革手袋を填め直し、素早く丁寧に切り刻むと、ふつふつと湯気を立てる鍋にそっとそれを加える。

すると僅かに乳白色の濁りを呈していた液体は一気に眼の覚めるような碧色になる。

次はある植物の種を乾燥させて粉末にしたものを、細心の注意を払って静かに加え混ぜる。

 

このまま少し煮詰めれば、いつものやや暗い碧色をした例の薬になる。

先生は作り方と分量のみを簡潔に私に伝えたが、きっと最初はあの毒草の量はもっと少なかったのだろう。

 

皮膚を変色させ爛れさせる程の毒を体内に取り込む。

其の意味を、今、ようやっと本当に知ったように思えた。








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(09.8.1)

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