錆色の沼 8











壊れた揺り籠を内包したままの身体は、けれど其れは其れで何の支障も無くただ其処に在った。

支障が全く無いとは事情が事情なだけに云い切れはしなかったけれど、

相変わらず毒のしんしんと降り注ぐ身体の裡をして、今更この衰弱を変化と呼ぶには些か滑稽が過ぎる。

絶えず変化を続けていると仮定するならばむしろ其れこそ真理と呼べるだろう。

 

こほっ、と渇いた咳が噛み殺せずに小さく零れた。

じっとしているだけなのに、呼吸は確としているのに、

肺がどうにも上手く酸素を取り込めないでいるらしく、息苦しくて堪らない。

 

誰も通らない閑散とした渡り廊下の手摺に腰掛けて片膝を抱えながら、

すっかり痩せてしまった両肩にぎゅっと爪を立てる。

子宮が死んだあの日を境に、眼に見えて私の体調は悪化の一途を辿っていた。

異種族の血が持つ本能は「飢餓」を訴える事を止めないのに、人間としての生存本能はどんどん希薄になって行く。

 

摂取する、いや、摂取できる食物の量が一気に減り、

痩せた身体はいっそ笑える程に脆弱で、しばしば熱を出しては授業を休む回数も増えていた。

 

こうなってはもう友人各位にも「何でも無いわ」だなんて騙し騙しの言い訳が通る筈も無く、

致し方なく私は其処に「実はわたし、身体がよわいの、」なんて、

新たな嘘の上塗りを恥ずかし気も無く云ってのける。

厚顔とは此の事だ、と自己を嘲ってみた処で向かうところの知れぬ怒りを増長させるだけだった。

 

 

常ならばどんよりと雲に覆われている灰空が、珍しく冴え渡るような眩い青を見せていたけれど、

そんな明るい陽の下にあっても私はただ渡り廊下の薄暗い陰の中で一人背を丸めている。

こんな自分の姿がどれほど陰鬱で滑稽かは、鏡など無くたってありありと想像できた。

今ならあの黒い教授よりも陰気である自信があるわ、なんて戯けてみても、今の私じゃ無様なだけだろうけれど。

 

眩しい蒼天は美しく明るいけれど、陽が照らせば照らす程に、陰は濃くなるもの。

闇に属する生き物の血が私の身体の半分を埋めている限り、私は光それ自身には絶対に成り得ないのだ。

 

こんな私を此の学校に迎え入れてくれた人、私を友達とよんでくれた人、

私を嫌悪して拒絶している癖に、私の為の薬を律儀に何年も何年も作り続けている、人。

当然のように私に向かって笑い、泣き、怒り、驚き、そうして私を人間として遇してくれたその人々。

彼ら、彼女らは、生まれてよりずっと其の出生故に人と接する事を避け続けてきた私には、

余りにも眩しく、余りにも美しい鮮烈な”光”だった。

 

眼球の奥が酷く熱く痛んだ。

もうすっかり下がったと思って、マダムポンフリーの眼を盗んで医務室を抜け出してきたけれど、

どうやらまた熱が出て来たらしい。そう云えば背筋に少し寒気が走るのを感じる。

ああ、マダムポンフリーやベスにばれたらきっとおっかない顔をして叱られてしまうんだろう。

 

自嘲で目眩を噛み殺せば、ふと背後に人の気配を感じてゆっくりと顔を上げ、緩慢に首を巡らせる。

ぬっと視界に突如飛び込んで来たのは、鮮やかなカナリア色の包み紙のレモンキャンディ。

一粒のキャンディを差し出す其の手は、皺の深く刻まれた温かなもの。

其の手の向こうに眼を遣る迄も無く、其の人物が誰なのかはすぐに分かった。

 

「儂は此のレモンキャンディが好きでの、こうしていつも持ち歩いとるんじゃ。

 お一つ如何かな?」

 

悪戯っぽく細められた眼は平生と同じく半月眼鏡の向こうできらきらと光を宿していたが、

微笑む其の表情には何処となく物悲しさのような、愁いに似たものが混じっているように見えた。

 

入学式の少し前、あの日も、ダンブルドア先生はこんな色の眼をしていたことを今更になってふと思い出した。

あの時は其の意味に気付く余裕も無かったけれど、今ならそんな顔をした彼の気持ちが少しわかるような気がした。

 

けれど、気付いたところで、それが何になる。

どうあっても、きっと此の経過を辿る事は避けられなかっただろうし、結末も、きっと、違えない。

此れは確定事項だったのだと、私には断言できた。

 

私は茫洋と微笑んでキャンディを受け取った。

そのまま緩く手に握り締める。

漠然と湧き出る「飢餓」は感じても、食物を口に入れる事は出来そうに無かった。

そんな私の肩を優しく二回程叩き、校長先生は私の隣でそっと手摺に背を預けた。

 

「…儂は、間違うてしまったかのぅ。」

 

ぽつりと、透き通った深い声が小さな風の音を掻き分けて響いた。

其の声音にははっきりと哀しみが滲んでいるのが分かり、私は少し眼を見開いてダンブルドア先生を見上げた。

私の眼をまっすぐに見返す先生に直ぐにふっと微笑みかけ、戯けるように肩を竦めて見せた。

 

「ダンブルドア先生でも、間違うことがあるんですか?」

 

「ほっほ、儂も人間じゃ、もちろん、間違える。

 一昨日も、レモンキャンディとグレープフルーツキャンディを間違えて買ってしもうてな。

 いやしかし、グレープフルーツ味もなかなかいけるもんじゃ。」

 

軽口で切り返せば、先生もにこにこと戯けて答えてみせたが、

ゆっくりと瞬きをすれば其の眼はまた小さな愁いを滲ませた。

その眼を曇らせている原因の一つが私であると云う事には気付いている。

そのことに罪悪感は全く感じなかったけれど、後ろめたさはあった。

 

「…先生のせいじゃありません。

 誰にでも分かっていた事だし、誰にも予想できなかった事でもあるんです。

 どちらにせよ、選んだのは私ですから、先生の、せいじゃありません。」

 

毒と云う名の薬は、理論や知識では追いつけない程に加速を見せつけ、

先生達が当初想定していたよりもずっと早く、私の身体を深く蝕み、死の渕で手招きをしていた。

誰にも予想できなかった。誰のせいでもない。

 

「副作用は、薬を飲む事の意味は、儂とて十分に知っておるつもりじゃった…。

 しかしな、此れ以上、お前さんに、」

 

「其れ以上云わないで!」

 

…。」

 

常に無く声を荒げた私を、驚きと困惑を露にして見つめるダンブルドア先生は、本当にかなしそうにみえた。

けれど私も此処だけは引く事が出来なかったし、あの言葉の先を続ける事だけは我慢がならなかった。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい先生わたしだって先生の云いたい事くらいわかってます

 でも其の先だけは云っちゃ駄目なんですよ先生は先生だけはそれを云っちゃ駄目。

 だっ、て、だって、私のすべてを間違いだって、間違いに、してしまえと?

 できません、だって、私が決めた事なんです知ってますか先生私が、其れは私が、

 初めて、じぶんで、決めたこと、なんです。」

 

「…わかっておる。

 すまんかったな、。」

 

荒い呼吸を繰り返す私を宥めるように、小さく微笑んだ先生は其の暖かい手で私の背を撫でた。

見ない振りをしていた物が一気に躍り出るような恐怖が私の内側を引っ掻いてわらっている。

 

両親は種族を越えて愛し合っていたし、種族を越えて私を愛してくれていたけれど、

決して私と云う存在を外には出そうとしなかった。

其の意味が保護であれ、秘匿であれ、私に向かう気持ちに偽りは無かっただろうけれど、

私はいつだって彼らの意に従い、黙って頷いていた。

 

与えられた家から出ず、与えられた血を飲み、与えられた愛を享受し、

彼らの眼が手が届くところに、彼らの望むままに居続ける。

そんな事を10年間も際限なく繰り返してきた。

そして11年目、初めて、私は自分で選び取った決断の道に、自らの意志をもって踏み出した。

両親が望まなかったホグワーツ行きを決めた事、それは私にとってとても重要な事だったのだ。

この決断を否定される事だけはあってはならなかった。

 

それがたとえ、自分を死に追いやる事であったとしても。

 

「ああ、しかしな、此れだけは分かっておくれ。

 儂はをこれ以上苦しめるようなことはさせたくないんじゃよ。

 他に方法がなかったものかと、もうずっと考えておったのだ。」

 

「…でも、」

 

云いかけた私は、其れ以上口を開けず、黙って眼を伏せた。

”でも、そんな方法、もうどこにも無かったんですよね。”

そんな事実を知らせる言葉は、もはやダンブルドア先生を悲しませる事しかしないだろう。

 

「先生、私からも、これだけは分かってください。

 私は此の学校がすきなんです。

 入学なんてできない、って、あの時云ったけれど、

 今は、此処へ来てよかったって思っています。

 入学を許可して下さって、ありがとうございました。」

 

こんなことを云うつもりは無かったのだけれど、ダンブルドア先生に見つめられると、

不思議と隠し事もできなくなるし嘘もつけなくなってしまう。

この光に満ちた人に真直ぐに見つめられるのは本能的に恐ろしくて仕方が無かったけれど、

抗いきれない何かが、私と云う闇に近い生き物さえも、引き寄せる。

 

微笑んで瞼の裏に潜む常闇を見つめれば、見慣れた黒が脳裡をちらついた。

私を誰よりも拒絶し、嫌悪した黒の人、けれど其の黒が私にとって何よりも救いだった。

 

先生にも、友人達にも、感謝していた。

他人を拒絶しがちだった私でも、彼らがすきだとおもえた。

それでも、彼らの照らすどんな光でさえも、

あの黒衣の男程には私に『救い』をもたらす事はできなかったのだ。

 

「ごめんなさい、ダンブルドア先生。」

 

私が穏やかに笑って云った、その謝罪の本当の意味は、きっと校長先生でさえも理解できない。

それは私の物語が始まった一番最初から、ずっと決まっていたことであったのかもしれなくて。

 

(そうね、きっと結末は暗転の内に幕を引かれるものなのよ。)








next.




(09.8.1)

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