錆色の沼 7
マートルの大きく啜り泣く声が陰鬱に響くのを聞きながら、
洗面台に両手を付いて覗き込んでいる、鏡に映った私の顔は、彼女の泣き声よりももっと酷かった。
泣いた訳でも無いので眼はちっとも濡れていないし普段通りの顔ではあるのだが、
何処か廃虚を思わせるように空っぽで、おおよそ感情と云うものが無かった。
顔色も冴えないように見えるし、眺めれば眺める程、鏡を叩き割りたい衝動に背中を押されそうになる。
「あんたもあたしの事を莫迦にしに来たのね、もう厭、さっさと此処から出て行ってよ!」
涙声のマートルが私を詰って追い出そうとしたが、
私はただ薄汚れた鏡に映った自分を睨み付けて身動き一つしなかった。
無視する私に癇癪を起こしたマートルが跳ね上げた水が脚やスカートに掛かったが、それも無視した。
正確には、そんな事には気付きもしない程、ふつふつと裡から溢れ出るかなしみか怒りのような、
極めて強い衝動性と無気力感を綯い交ぜにしたものを自制するのに必死だった。
別に、もちろん覚悟はしていたのだ。
私は口の中だけでそう呟いて、冷たい洗面台の縁に両手を付いたまま項垂れて眼を閉じた。
覚悟はしていた、けれど。
実際に現実になってしまえば、いい加減な思考回路を弄ぶ私でも、流石に少しかなしかったのは事実だった。
かなしい、と云うより、むしろ呆然とした心地だった。
想像や覚悟はしていても、きっと今になる迄、私には現実感が欠如していたのかもしれない。
「ねぇマートル、死んだのが貴方じゃなくて私だったらよかったのにね、
なんて陳腐な事を云ったら、貴方は怒るかしら。」
今だ啜り泣くマートルの声の聞こえる中でぽつりと呟けば、ぴたりと一瞬静まり返った後、
彼女は、少し期限を損ねたような訝しげな涙声で、それってどういう意味よ、と云い、
また啜り泣く事に専念して、私と彼女の会話はそれっきり断絶した。
マートルは泣き声の中に、時折小さな嗚咽混じりで、
あたしが何したっていうのよ、ひどいわ、と、譫言のように口ずさんでいた。
(私も別に、何もしてないけどなぁ。
ひどいのは、さて、誰なのかな?)
くっと短く自分を嘲笑い、鏡を一度力任せに殴りつけて薄暗い女子トイレを出た。
懐から杖を取り出して、濡れた脚やスカートを一瞬で乾かすと、息苦しい喉を抑えて地下室に向かった。
別に地下室になんて用事は無いのだけれど、何となく自虐的な気分だったので、
あの黒い人の私を見る侮蔑と嫌悪の眼が懐かしく思われた。
私を嫌悪するひと、私を軽蔑するひと。
私を受け入れてくれる人よりも、其のひとの存在は私にとって極めて重要だった。
(マゾヒズムなんかじゃ無いわよ。
もういいわ、どうとでも勝手に呼んでればいいのよ。)
カツリカツリと不規則で硬質な靴音が濃くなる闇に次第に埋もれて行けば、
私は穏やかに微笑みを浮かべていられる気分になり、胸の内でそう呟いた。
「こんな時間に何の用だ、ミス。」
ノックした重厚な扉越しに入室許可を得て、スネイプ先生の研究室に足を踏み入れれば、
開口一番お決まりの台詞が聞こえた。
先生は薬の調合をしている最中のようで、顔を顰めながらも手元から決して眼を離さなかった。
羊皮紙に何かを書き付け、時々ちらりと鋭い目付きで魔法薬がとろりとたゆたう鍋を一瞥している。
色が違うので確信は無いが、恐らく私の薬を作っているのだと思う。
机の上に几帳面に束ねられた、けばけばしい色彩を放つ鮮緑色の植物に見覚えがある。
あれが、私の毒だ。
私は後ろ手に扉を閉め、黙って部屋の中央付近に無造作に据え置かれた黒い皮張りの椅子に座り込んだ。
そして真直ぐに手元を睨んでいる先生を見据えていた。
「先生、」
「…何だ。下らない話をしに来たのならさっさと出て行きたまえ。仕事の邪魔だ。」
「生理がこなくなりました。」
わざとそういう言い回しをしてやれば、案の定先生は手元を見たままぴたりと動きを止めた。
しかし表面上先生は一切表情に揺らぎを見せなかった。
私は内心先生が動揺した顔が見たかったのかもしれないと思えてきて、少し苦笑した。
「あはは、やだな、先生、妊娠したとかじゃないですよ?」
凄い形相で睨まれた。今更私が他の生徒達のようにそんな事で怖がらないことは承知しているだろうに。
ははは、と渇いた笑い方で声を上げて片手で眼を覆った。
「薬の副作用が来る所迄来たみたいですね。
私の子宮は死にました。あとはもう済し崩しです。
いい加減にそろそろ教授としての立場からの見解をお聞きしたいんですけどね、
あとどのくらいで私死にますか?
前にも聞きましたよね、これ。」
「そんな事を聞いてどうなる。
こうなる事は承知の上で我輩に薬を作らせていたはずだろう。
我輩は薬を作るだけだ、其れ以上に関わる筋合いは無い。」
どういう意図かはよく分からないが、やはり彼は私の生死に関わる事について一切口を噤んだ。
其の姿勢はどうあっても決して崩される事が無いだろう事は明白で、
私は先生の見解を聞く事を諦め、頬杖をついて軽く息を吐いた。
「別に子供を産むつもりなんて最初からさらさら無かったけれど、私は何だかかなしいのです。
揺り籠はこれからもずっと空っぽのままなんですものね。」
例えこういう結果がもたらされる事が無かったとしても、私は決して此の血を残すつもりはなかった。
こんな混じりものの血を此の世に残す必要は一切無いし、私はそれに納得もしていた。
純粋な吸血鬼の血筋は何処かで絶えず続くし、純粋な人の血筋だって私1人いなくなっても絶えず続いていく。
世界に何の支障も無く、私は生き死にを飲み込んで秩序の中を何に触れる事無く流動していく事が出来る。
異種の血を恨んだ事はあったが、父親と母親が私の親である事を憎んだ事は無かった。
それでも彼等は私にとって良き父親であり良き母親であったからだ。
しかし、きっと異なる生き物が交わるべきではなかったことは既に条理で、
所詮私は自然の摂理に背いた生き物であり、人でも無く吸血鬼でも無いただの化け物でしかなかった。
だからこそ此の血を私だけで終わらせる為の法規を知っている。
「異類婚なんて、すべきじゃ、なかったんです…」
途方もなく疲れていた私は、両手で顔を覆い、俯いて意味を極力削り取ってからそう呟いたのだが、
自分が思ったよりも案外と其の声が悲愴を含み頼り無げに震えたことに驚いた。
珍しく私は自分の声を後悔して、何も云わなければよかったと苦々しく唇を噛んだ。
「親を恨むか。」
意図が見え難い先生の声に弾かれて顔を上げ、私は眼を見開いて先生の暗い両の眼を凝視した。
私は先生がそんなことを云うと思わなかった。
らしくない動揺と驚愕を何とか肚の内で飼い馴らしながら、
咳き込みそうに渇いた舌のぎこちなく、言葉より先に首を横に振った。
「まさか、」
小さく、鋭くそう呟いた後も何度か口を開いたが、何を云えば良いのか分からず其の度に躊躇って唇を結び、
何度も何度も瞬きをした。映像は振り切れない。
このひとは一体何を云っているんだろうと、彼に出会って以来、初めて感じる畏怖に戸惑った。
(私は何を畏れている?)
「そんな訳ない。そんなの、ありえない。」
彼は未だ冷徹な黒色のまま佇み、静かに私を見下ろしていた。
毅然としているのに、それでいて何か言いたげな。
「彼等は良き父であり良き母だった。」
私も、きっと。
「だとしたら、生きる許可って、一体誰に貰うものなんですか、先生。」
こんなこと先生に云っても全く詮方なくて、ただ彼を徒に困らせるだけだとわかっているのに、
何だか飼い馴らしたはずのざわめきに喉を嚼み千切られて、溢れるままに流れ出している。
其れを塞き止める程には、まだ大人になりきれなかった私の外側だけを愛撫する皮膚。
先生、ごめんなさい。
過去と現在の罪、未来の罰は、無意識下で私の身体に根付いていた。
(05.5.16)
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