錆色の沼 5
「ー、次魔法史ー!遅れるよ!」
慌ただしく小走りになって魔法史の教室へと向かう生徒達の群れの前の方から、
友人が私にそう叫ぶのが聞こえて、私も彼等に続いて慌てて走り出した。
先程の変身術の授業の後、教室に残ってレポートに関するメモを書き取っていたせいで遅くなってしまったようだ。
授業開始の鐘が鳴る寸前に私達は何とか魔法史の教室にばたばたと騒がしく滑り込んだ。
私は友人の1人である少女が座っている隣、入ってすぐの一番後ろの席に惰性で座り込み、
その勢いで鞄をかしゃりと机に叩き付けるように置いた。
教卓の辺りをふわりと漂うビンズ先生は、けれどそんな生徒達に少しも気分を害した様子も無く、
いつものように静かに淡々と今日の授業内容を語り始めた。
毎回思うのだが、此の先生は本当にこれでいいのだろうか、等と余計な事を考えながらも、
手だけは静かに羽ペンをせわしなく動かしていた。
10分もすれば次第に生徒達の後頭部が机に沈んで行くのが、此の一番後ろの席からはよく見えた。
隣に座る友人は、机に突っ伏すような事はしていないものの、眼は焦点が余り合っていない様な気がした。
私は人前で眠るのが苦手なので、授業中に眠ることは無かったが、
興味の無い所に話が及べば、取り合えずノートは取るものの聞くとも無く聞いているような状態だった。
羽ペンを持つ手は相変わらず澱み無く動いているが、もう片方の手で頬杖を着き、
先生の滔々と流れ行く話と、昨日読んだ本の内容についてが交互にふらふらと脳内を歩き回っていた。
視界の端で、何かが揺れるのが見え、ふと視線を隣にずらせば、首ががくりと落ちた友人に行き当たった。
彼女はついに眠気に勝てなかったようだ。
首はがくりと項垂れながらも姿勢も羽ペンを握る手も羊皮紙を押さえる手もそのままで、
あまりに安穏として居眠りをする少女を微笑ましい気分でちろちろと見ていた。
授業後にノートを見せてくれと両手を合わせる彼女が眼に浮かび、俯いてくつくつと自分にだけ聞こえる声で笑う。
とろりと流れるけだるい空気のまま、授業がもうすぐ終わる頃だった。
すっかり眠り込んでしまっている隣の友人を起こしもせずただ時折ちらりと様子を見ていたのだが、
ふと眼が覚めたようで、羽ペンを持ったままの手で少女が眼を擦り始めた。
ようやく起きたか、とにやりと笑って小さく声を掛けようとした其の時、
意識がはっきりしたのだろう、少女が慌てて羊皮紙を手前に引き寄せた。
その瞬間、彼女は小さく「痛っ」と声を上げた。
私は其の瞬間に肌が一斉に粟立つのを感じて、顔から音を立てるかのようにさぁっと血の気が引くのを理解する。
覗き込んで見る迄も無い、少女は慌てて羊皮紙を引き寄せた際に紙で指を切ってしまった。
小さくぷつりと血液の球が覗く中指の第2関節当たりを困ったように見下ろし、彼女は溜め息を吐いた。
羽ペンを持つ手が震え、必死に友人から顔を逸らして前を向いている振りをし続けながらも、
むず痒く寒い背中と胸に広がる『何か』が耳を塞いで先生の淡々と話す声が聞こえない。
羽ペンも動かせず、ペン先のインクは既に渇いていた。
鼻先を、あんな僅かな血液、匂いがするはずも無いのに、血の匂いが漂っている気がして頭がざわざわした。
小さいががすっぱりと切れた少し深めの切り口から滲む血を嘗め取りながら、
少女は私の異様さに気付いたらしく、私の脇腹を小さく小突いてどうしたのかと心配そうに小声で問う。
「…いや、」
唇が上手く動かないので曖昧に濁して取り敢えず返事をすると、
ますます訝しげに私の蒼白であろう顔を覗き込んでくる。
御願いだから其れ以上近付かないでくれ、と云う私の切実な心の声は彼女にもちろん届かない。
「、大丈夫?気分悪いの?」
「えと、うん、まぁ…」
羽ペンを持っている手とは反対の手で口元を覆い、私は素直に彼女の言葉を肯定することにした。
否定して言い訳を述べるまでの余裕が無い。
「本当に具合悪そう、すぐ医務室に行った方がいいわ。
今そっと出て行ったら先生きっと気付かないから大丈夫よ。」
励ますように悪戯っぽく云う彼女が、有り難かったが今はそれよりも恐かった。
彼女が机に投げ出した両腕の、未だ少し血が滲む中指が視界をちらついて仕方が無い。
血の量は本当にあれ程少ないのに、さっきよりももっと匂いが甘く濃くなっている気がした。
返事をする気力も殺がれ、荷物もそのままに、私は黙って頷いて低い姿勢のままそっと教室を出た。
友人はそんな私を見送り、直に前を向いて座り直し、半ば無意識的に傷を舐めた。
両手で口元を抑えたまま早足で廊下を方向も考えずただ足の向かう方へと進み、
角を曲がって魔法史の教室が完全に見えなくなり、それでもまだ立ち止まれず幾度かさらに角を曲がり、
ようやく何処かの階段の傍迄来て壁に凭れ掛かりながらその場に座り込んで息をついた。
冷たい厭な汗を拭い、腕時計を見るとあと5分程で授業が終わるらしい。
早く此処を立ち去らなければと思うのだが、血の匂いから離れた安堵に、まだ立ち上がる気になれなかった。
もう一度自嘲に溜め息を吐き、苛々と髪を掻き揚げた。
今更のように、今日は金曜か、と、気が付く。
薬の効果がそろそろ消え始める頃だ、自制が一番難しくなるこういう日は特に先程のような状態になりやすい。
何年も此の学校にいるのだから、もちろん今迄だって何度も危ういぎりぎりの所を通って来た。
それでもどうして不意を付かれると、あんな些細な出血にさえ動揺してしまう事が押さえられない。
そう思うといつものように無性に情けなさと悔しさ、自分に対する怒りのようなものに胸を苦く焼く。
思い通りにならない身体も、果てには非の無いはずの友人にも半ば八つ当たりの感情を抱く。
先程の血に対する渇望を忘れ、今度は馬鹿馬鹿しいジレンマに背筋を震わせた。
内側に自嘲をし尽くして口元に歪む笑みを張り付けたまま、そろそろ授業が終わる時間だと思い、立ち上がろうとした。
素晴らしく間が悪いか、奇跡的に間が良いかのどちらかだ。
立ち上がりかけた其の瞬間、階段を上ってくる足音と共に叱責と嘲笑を含む低い声が聞こえた。
しくじったな、此の階段、地下への階段だったのか、と頭の中で半分面白げに舌打ちをする。
「誰だ、其処で何をしている。」
「はーい、・でーす。
ちょっとしたアクシデントの為、例のごとく尻尾巻いて逃げて来た次第です。」
諦めてだらりと壁に凭れ脚を投げ出す格好を改めもせず、ひょいと努めて軽そうに片手を上げる。
階段を上がりきる数歩手前で私を認識して厭そうに足を止めたスネイプ先生を見つめ、
半ば自棄になりながら質問に対して明確に答えてみせた。
「またか」
冷酷な声音で吐き捨て、先生は苛々と腕を組んで恐らくは無意識的に私を威圧しようとした。
それは彼の性質を地で行く結果の態度なのか、それとも私と似た単なる虚勢に過ぎないのか、
先生の押さえ付けるような態度に、恐いと云うよりむしろ純粋に不思議な気持ちが勝り始める。
私は叱られる事は苦手なのだが、この人からは叱ると云うものとはまた少し違うものを感じるのだ。
だから不思議と恐さは少なかった。
「『この化け物が』、って、別に素直に云っていいですよ。」
はは、と嘘っぽく笑いながら正直な気持ちを織り交ぜて彼が飲み込んだ言葉を暴いて挑発してみる。
露骨に出方を窺って見せると、先生はいつものように反応を返すのが厭になってただ睨み付けてくる。
悪意にも似た視線で睨み付けられていると、
先程の自己嫌悪のような苦く痛いものが身体の内側で薄れて行く気がした。
「周りに人が居ない時なら、別に罵倒すればいいんですよ、幾らでも。
私、先生が私という存在が嫌いだって知ってますもの。」
入学式前のあの静かな廊下で、初めて会った時からそれは気付いていた事だった。
同時に、私はこんな風になることについて予感めいたものさえ感じていたのかも知れない。
他の誰かに化け物と罵られることはともかく、
不思議とこのひとに言葉で斬り込まれることは必然だったかのように思えた。
先生が険しく顔を顰めて、口を開きかけた時、謀っていたかのように授業の終了を告げる鐘が鳴った。
「グリフィンドール、2点減点。」
忌々しげに呟いて、彼は踵を返してもと来た階段を下り、薄暗くぽっかり開いた地下へと姿を消した。
壁を伝いゆっくりと立ち上がりながら、地下に続く階段を見下ろした。
先生は、何を云おうとしたのだろうか。
本当に罵倒の言葉を口にしようとしていたとしたら。
そう思うと自然唇が歪み、眼が穏やかに笑う。
スネイプ先生のことだから、どうせ私を一蹴して黙らせる為の言葉を吐こうとしたに違い無いけれど。
「減点されてしまった…。」
くっと苦笑いを押し込めて、生徒達が一斉にざわめきながら教室を出るのに紛れる為、
足早に下り階段に背を向けた。
(05.3.26)
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