錆色の沼 3











「グリフィンドール!」


頭上の帽子にその寮の名を高らかに宣告された時、私は何故だろうか、と疑問を抱いた。

別に特にグリフィンドール寮を嫌っている訳では無いのだが、

私は自分が恐らくは其の寮以外に振り分けられるのだと思い込んでいたからだった。

入学前にホグワーツを訪れ、様々な選択肢から今の結果を選び取った時点で、

私は、愚かしくも全ての者を騙そうとしているのだと認識していた。


誇り高きグリフィンドール、勇猛果敢なグリフィンドール。

私には一切の縁の無いものだ。

しかしそれを喜べばいいのか悲しめばいいのか、それだけがわからなかった。


彼等は皆こぼれるような笑顔と割れる程の歓声で私を「同胞」と認め迎え入れてくれた。

拍手がまるで耳鳴りのように感じられて頭が痛んだ。

幾つか年上の少女が私に手を延べ、テーブルへとさり気なく引き込んで座らせられる。

其の自然な流れと音がますます楽しく、何だか私をそわそわさせて、不安と安堵を踏み潰した。


席に着いて笑っているような気がする顔のまま、内心戸惑いつつも組み分けの様子を眺め、

帽子から高らかなグリフィンドールとの声が聞こえると私も皆に混じり陽気に声を上げ痛いくらい手を叩いた。


確かに楽しく浮遊するような暖かで幸せな心地がした。

こうしている今も変わらずに、私の前には1インチ程も先の見えない闇があったが、

それを幻覚か何かのように感じられる程私はハイになっていた。

同時に、それとは対岸に居る私は困惑し頭を真白にして立ち尽くしていた。

両岸を持つ私はもはや浮遊感で正常な状態を見失って、ただ笑い歓声を上げ手を叩いた。


眼の端を掠めた教員席の中の黒い塊の映像が、すんでのところで今にも埋もれそうな私の闇を掘り返した。


『…材料さえ揃えば、調合はそう難しい物ではありません。』

『ですが、其の薬には強い副作用があります。』

『ミスが、それに耐えられるかどうかは我輩には分かりかねる。』


そんな言葉によって鮮明に私の頭の中に警鐘を鳴らされ、ふと一瞬我に返って焦点を定めた教員席の一隅には、

相変わらずの無表情で組み分けを眺めている黒い男、セブルス・スネイプ教授がいた。

遠く離れた席からの私の微かな視線等、大広間に溢れかえる一切に紛れ、彼が気付くはずも無かった。

私はただふとその男の姿を表情なく見つめ、一気に身体の温度が平常に戻るのを実に奇妙な気分で自覚した。


スネイプ教授の黒色の姿が如何にも私の存在を私に認識させるものであるかのように感じられた。

入学前に様々な取り決めをしたあの日、本能的に間近で感じ取った、私という存在への教授の拒絶と嫌悪。

何故かそれは、感謝しても仕切れない程暖かに私を迎え入れてくれたダンブルドア校長や、

私におめでとうと云い握手をした笑顔のグリフィンドール寮生達より、

ずっと私に救いをもたらしてくれたような気がしていた。


「ねぇ、」


教員席をただ黙って窺っていた私に、隣に座った同い年の少女が話し掛けてくる。

ただ嬉しさを全身で表したように広間の興奮と熱気にはしゃぐ彼女は、右手を私に差し出した。


「貴方、名前はなんて云うの?

 私はエリザベスよ。ベスって呼んで頂戴。

 よろしくね。」


名前を答え、笑顔で握り返した彼女の熱い手が、優しすぎて嬉しすぎて、少し怖かった。





案内されたばかりの寮を出て、私はまだ慣れない景色の城内を歩き出した。

どうにもまだ広大な城内には慣れる事ができそうにもなかったが、こればかりは仕方が無かった。


大広間を出る直前、マクゴナガル先生がそっと私に耳打ちをした。


『スネイプ先生から貴方のお薬についてお話があるそうです。

 寮に案内された後、忘れずにセブルスの部屋へお行きなさい。』


微かに笑い、私はわかりました、ありがとうございますと云った。

マクゴナガル先生は一つ頷いて何事も無かったかのように私の傍を離れた。

私は何となく落着かない気持ちで、彼女の云った言葉を反芻して忘れないように刻み付け、

それでも忘れてしまったらどうしようと、そんな詮方ない事ばかりを考えていた。


確かこの廊下の突き当たり左にある薄暗い下り階段を降りれば、地下牢教室のある廊下に出るはずだ。

其の廊下の奥にスネイプ先生の部屋があった。

何処となく鈍くなる足取りに、砂を噛むように苦く眉根を寄せ、唇を柔く噛んだ。


正直な所、漠然と、怖かった。


黒く聳える威圧的な扉を三回丁寧に叩き、扉の向こうに向かって名乗る。

喉が乾いている。


沈黙する扉はあっさりと部屋の主によって開かれ、私は厳しい表情をしたスネイプ先生に招き入れられた。

実際は彼はおそらくその動作とは逆の事をしたい気持ちでいたのだろうと思った。

拒絶的な空気が私を押し固めるようにじっとりと絡み付き、まともに先生の顔を見る事ができなかった。


前置きも無く話される薬についての説明と確認事項のようなことを幾つか簡潔明瞭に告げると、

彼は黙って私に暗い碧色の液体が注ぎ込まれたゴブレットを突き出す。

一瞬私が躊躇して彼を窺うように見上げると、これが薬だ、と彼は云う。


「毎週土曜の夕刻、薬を取りに来い。

 お前には一度たりとも此の薬を忘れる事は赦されない。

 それは重々、わかっているであろうな?」


ゴブレットを受け取り、私は表情も無く確実に一つ頷いた。


「はい。

 それが校長先生との、一番大事なお約束ですから。」


先生を見上げて一瞬無理矢理に笑んで、ゴブレットに思いきって口を付けた。

僅かな量が口腔に流れ込んだ瞬間、喉をせりあがる激しい嫌悪感に咳き込んだ。


そんなたった少しの量なのに、とろりとしたその液体に触れた舌も喉も、

苦味と、かつて一度も口にした事が無いような酷い味に灼かれるようだった。

口元を押さえてなんとか吐き気を堪える私に、スネイプ先生は苦い顔を向けた。


「さっさと薬に慣れたまえ、ミス

 お前はこれから此の薬を飲み続けねばならない。

 尤も、此のホグワーツに在籍している限りは、だがな。」


残念ながら、暗に責め詰られる皮肉は、やはり辛いとは云えども私はもう聞き飽きる程に聞いてきた。

生理的な涙が滲む眼を伏せ、私は自嘲的に笑って口を拭った。

そして改めて全てを振り切るように薬を無理矢理煽り、一気に嚥下した。

喉が焼き切れてしまっても、もうどうでもいいような気分になった。


「一つ聞くが、」


冷徹を遵守する声でスネイプ先生がふと口を開いた。

私は口元を手で覆い血の気の引いた顔を上げぬまま、黙って次の言葉を待った。


「今迄はどのようにしてきたのかね?」


嫌悪と嘲笑をないまぜにした含みのある言葉だった。

私は一番そのことには触れて欲しく無いと思っていたが、隠したところで事実が消える訳でも無い。

正直にただ聞かれたことには答えるという事を胸に定め、まだ痛む喉を無視して淡々と見上げ先生の眼を見た。


「食事のことをお聞きになっていらっしゃるんでしたら、私は人の食物と血の両方を食べていました。

 血は、母や父がどこからか手に入れて来ました。

 多分、病院の輸血用の血液等を横流ししてもらっていたのかもしれません。

 家畜とか、人の血でないことも多かったですが。」


「家畜と人の血の違いがわかるのかね」


蔑みをあからさまに込めて冷ややかに笑い、先生は云って腕を組んだ。

私はただ、淡々と事実だけを答えるだけだ。

先生の軽蔑と嫌悪は怖かったが、それだけだった。


「味が全く違いますから。」


「なるほど、家畜なんぞより人間の血の方が美味いと云う事ですかな?」


「えぇ、そうです。」


軽蔑も露に、私を仕留める為の台詞を吐いたつもりだろう先生に、私は間髪入れず肯定をする。

皮肉と圧迫に逆らうつもりも否定するつもりもなかったが、ただ甘んじるつもりもなかったのかもしれない。

私は其の時は何も考えずただ事実だけを捉えて述べていた。其の時思うのはただそれだけだった。


「もう良い、薬を飲んだのならさっさと帰り給え。

 毎週土曜の夕刻だ、忘れるな。」


「はい。ありがとうございました。

 失礼します。」


吐き捨てるように云うスネイプ先生からようやく視線を降ろして、退室しようと彼に背を向けた。

此の部屋に入った瞬間に感じたような拒絶的な圧迫感は、慣れてしまったのか今は余り感じない。


「暫くしてから副作用が出るであろう。

 さっさと寮に戻り大人しくしていろ。」


扉を閉める瞬間にそんな言葉が聴こえた。

忌々しそうに、しかし教師という肩書きに相応しい極当たり前の声音で云われたその言葉に対して、

返事をする暇は無かった。


室外の冷たい空気に幾分心地良く身を晒し地上への階段を石壁に縋り付くようにふらふらと上る。

足取りはどうにも覚束無くて、気を抜けば力も一緒に抜けてしまいそうだった。

酷く気分が悪い。


吐き気と頭痛、まるで血液を何かが這いずり回るような気味の悪い違和感が微かにあった。

そしてそれはやっとのことで寮に戻り、自室のベッドに倒れ込んだ頃からますます酷くなって行く。

全身が軋むように、何かが異常で、何処かが壊れて行くような、そんな心地だった。

ともすれば自分が自分たる由縁を見失いそうになる。

この気分の悪さは、産まれて初めて感じると云っても過言では無いような類いのものだった。


(これが私を死に向かわせる道なのかな…)


意識を失えればいっそ楽になれるのに、そう思いながらぼんやりと当たり前のように考えた。

丸めて硬直した身体を心配そうに見遣り、今日同室になったばかりの少女の1人が声を掛けて来た。


…?

 どうしたの、何処か具合でも悪いの?」


「…ううん、違うの、私、大丈夫、ちょっと、疲れただけ。だから。」


精一杯の虚勢を交えて無理矢理笑顔を作り、曖昧に言葉を濁した。

心配そうな表情を残したままではあったが、少女は、そう、と云い、

ゆっくり休むようにと言い残してベッドのカーテンをそっと閉めてくれた。

もうその動作をすることも出来ない程の苦痛が押し寄せていたので、彼女に内心深く深く感謝をした。





翌日の早朝、まだ外は薄暗く白い靄に覆われている時間帯に眼が醒め、

妙な感覚に戸惑いながら呆然とベッドに座り込んで自分の肩を確かめるように抱いた。


昨夜は副作用を何とか押さえ込むように無理矢理に眠った。

眠れない程酷い心地だったが、それでも無理矢理に眠った。

其の時はまだ母親から譲り受けた半分の異種の血がそうさせる、

無意識ながらもはっきりとした、出所のわからない「飢餓」感があったのだが、

それが目覚めた今では全く消え失せていた。


しかし、其の代わり、私は常ならざる身体の空虚さに戸惑いを隠し得なかった。

ずっと共に歩んで来た半身を無くしたかのような呆気無い喪失感と、

満足感は無いが「飢餓」感も無く、ただひたすらに凪いだ海のような心地。


薬。

小さくそう呟くが、乾き切ったこの喉では、掠れて声にもならなかった。


こうして私の半分は徐々に空白になり、毒は私の内に溶けぬ雪のように降り積むのだ。

毒が溢れるのと、此処を卒業するのとでは、一体どちらが早いだろうか。


私は尋常で無く疲れていて、座っている事でさえ億劫だったが、

それでも、もう一度眠る事等出来ようはずも無かった。


肩を抱いたまま自分の内側を探るように意識を沈めていると、気が付けばすでに朝日が昇っていた。

カーテンの隙間から零れてくる光に気付いてハッとすれば、部屋の何処かから何かが動く気配も感じた。

う、と小さく洩れた声はまだ眠そうで、それが何だか微笑ましく思えた。


身体は動かさず手だけを取り敢えず伸ばして、ベッドのカーテンを少し開くと、

もう一つのベッドから昨夜の少女が起きだして来た所だった。

朝日は昇れど、まだ起きるには少し早い時間だった。


「ねぇ、もう大丈夫なの?」


おはよう、と云おうとした私よりも先に、開口一番其れを問うた少女の優しさを何より深く感じた。

同じ部屋にあるベッドから起きだしておはようを云うより先に心配の言葉を口にした此の少女は、

私とは昨日出会ったばかりで、それも僅かの時間を共有しただけの他人であり、

友人と呼ぶには未だ私は彼女の事について余りに何も知らなさ過ぎた。

もともと人の名前を覚えるのが苦手な私だが、彼女の名前もまだ危うく朧げにしか覚えていないのに。


私は、人はもっと他人に無頓着なんだと思っていた。

疑う訳でも人間不信な訳でも無いが、

幾ら何でもどうしてそれほど親しくも無い人間を心配出来るのだろうと思った。

不可思議に思った。そして途方も無い程申し訳なく思った。

(わたしはいつもこうなのだ。)


「おはよう、えと、ベス。昨夜はごめんね、本当に、もう大丈夫。

 ちょっと疲れが出ただけだから、ごめん、ありがとう。」


できるだけ本当の笑顔を浮かべるように努めながら云うと、

彼女は少し微笑んでよかった、と息を吐き、そして思い出したように笑っておはようと云った。








next.




(05.2.14)

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