錆色の沼 2











大きな城だ、と、私は泣きそうな気持ちで、誰もいないホームから美しい建物と木々を見上げた。

ホグワーツの刻印が押されている赤い封鑞が取れかかった、くしゃくしゃの手紙をポケットから取り出し、

もう一度其処に書かれている文章を読み返した。

背後から、先程降りたばかりの赤い列車が汽笛を鳴らし、発車を告げていた。

今すぐそれに飛び乗ってキングズクロスへ帰りたかったけれど、

もう此処迄来て引き返す事等できるはずも無かった。


射るように読み返した手紙を溜め息一つ吐いて元のようにポケットにしまい、

ふと顔をあげれば、ホームの少し離れた所に緑色のローブを纏った魔女が1人立っており、

私が其の魔女に気付いた事を知り、彼女はただ黙って静かに私を手招いて呼ぶ。

一歩踏み出すのと同時に背後にいた赤い列車はゆっくりと走り出した。

これで、もう完全に戻る事は出来なくなったのだった。





「これから貴方はダンブルドア校長の部屋へ行き、今後のことをいろいろ相談して決めて行きます。

 あぁ、貴方は名前は何と云うのだったかしら?」


です。


ホグワーツ城の中に案内され、彼女は天井の高さに思わず見上げた私を少し眼を細めて見遣ると、

これから案内される場所を私に教えてくれた。

魔女は自分をマクゴナガルだと名乗った。変身術を教えるホグワーツの教員だと云う。

それきり口を開く事もなく、毅然とした足取りで歩き出したので、私は少し早足で彼女のすぐ後ろを付いて行った。


たくさんの角を曲がり、たくさんの階段を上ったところで、

何やら不思議な方法でダンブルドア校長の部屋へ入る。


道中、黒い服を着た男と擦れ違うと、マクゴナガル先生はその男を呼び止めた。

マクゴナガル先生以上に気難しそうな厳しい顔をしている男は、ゆっくりと睨むように振り返り、

戸惑いながらマクゴナガル先生と男とを交互に見上げていた私に視線だけを少し向け、何か、と低い声で呟く。


「先日校長先生がお話しになっていた件の今年度の新入生です。

 丁度良いわ、セブルス、貴方もおいでなさい。」


YesともNoとも答えず、ただじっと押し黙る男には構わず、彼女は私に男の名を教えてくれた。

セブルス・スネイプと云う、魔法薬学の先生であると彼女は云う。

迷いながら、私は黙って私を威圧的に見下ろすスネイプ先生に会釈し、名乗った。

スネイプ先生は依然押し黙り、ただ私を見下ろしていた。


私は其の時、恐らく彼は私を厭っているのだろう、と、本能的に肌に感じた。


もう慣れ始めた嫌悪の視線を浴び、私は不思議に穏やかな思いで微笑んで、

すでに歩き始めているマクゴナガル先生に急ぎ足で付いて行く。

踵を返す其の一瞬、スネイプ先生が少し困惑したように眉根を寄せたのが見えたような気がした。


マクゴナガル、スネイプ両先生に連れられ、不思議な物が多数置いてある校長室に足を踏み入れた。

アルバス、とマクゴナガル先生が呼ぶと、奥の部屋から白く長い髭を蓄えた、柔らかに微笑む1人の老人が現れた。

アルバス・ダンブルドア、とても偉大な魔法使い、と、私は内心ぽつりと呟いていた。


「おお、よく来たね。列車の長旅はさぞ疲れたじゃろう。」


ダンブルドア校長はひどく優しげに微笑んで私の頭を撫でた。

私も小さく微笑んで、首を横に振った。

満足そうに其の様子を見て頷き、彼はまず私に自己紹介をするように促した。


です。今年で11になります。

 …父は人で、母は人の血を吸って生きる種族です。」


私はまだ幼かったが、入学式を待たずに先に呼び出されたことの意味は大方理解出来た。

どうせ尋ねられるならば先に云っておくのがいいだろうと思い、そう口にすれば、

ダンブルドア校長は静かに、けれど少し寂しそうに瞬いた。

彼の背後に控えている二人の教師達は黙って私達の様子を見ていた。


「私、まだ子供ですけど、自分のことはちゃんとわかっています。

 手紙が来てからずっと考えていたんですけど、私、きっと此の学校に入学出来ないと思うんです。」


辿々しくなってしまったが、云おうと思って今迄ずっと考えてきていた台詞をやっと云うと、

ダンブルドア校長は眼をキラキラさせて微笑み、ふと杖を一振りしてテーブルと椅子、

更にそのテーブルの上にティーセットを出した。


「まぁ、そう急く事はなかろう。今後の事はこれからゆっくり決めて行こうかの。

 其の為にわざわざ来て貰ったんじゃから。」


ティーカップからとろりと立ち上る暖かな湯気越しに優しい視線を感じながら、

私は少し困惑してただテーブルを見下ろすしか出来なかった。

まぁ掛けなさい、と云って、彼は椅子の一つに緩やかな動作で腰掛けて、私を見上げてもう一度微笑んだ。


「まぁゆっくり決めて行こうかの、ゆっくりな。」


ダンブルドア校長はそう繰り返し、ティーカップを差し出しながら半月形の眼鏡の奥で眼を細めた。





「血を飲まずに人の食べ物だけでも暫くは過ごせます。

 でも、一週間くらいです。

 其れ以上我慢していると、段々、上手く云えないんだけど、何だか、おかしくなるんです。

 『お腹が空い』て我を忘れて、無意識に人を襲ってしまうかも知れないんです。

 …其れ以上我慢すると、弱って死ぬんだそうです。」


最後は呟くように静かに云い、三人分の視線にとても居心地の悪い何かを感じて私は眼を伏せた。

自分の言葉がまるで他人事のように一人歩きする感覚がある。

しかし私はそのまま話を続けた。

ともかくも全て話しきる迄は、黙る事が出来ないような気がしていた。


「私、お手紙がきてから、不安になって、いろいろ調べたんです。

 血を飲む以外に、私みたいなのが生きるには、お薬を飲むといいんだそうです。

 ちょうど一週間に一度それを飲むと、血を飲まなくても大丈夫になるんだそうです。

 えと、それから、」


云いかけたところで、今迄静かに私の声に耳を傾けていたダンブルドア校長が、

初めて私の言葉を優しく遮るように片手を上げた。

彼をじっと窺うように見上げていると、ふいに彼は後ろを振り返り、スネイプ先生を呼んだ。

一瞬の間を開け、スネイプ先生は校長の傍ら迄歩み寄った。


「セブルス?」


様々な感情を含んだ声で校長が名を呼ぶだけで、スネイプ先生は校長の意図する所を悟ったらしく、

重々しく頷いて口を開いた。

そう云えば彼の声をまだ一度しか聞いていないと私は何気なく思う。

低く話し出すスネイプ先生は、ひどく不機嫌で、顔色が悪いように見えた。


「確かに、そのような魔法薬は存在します。」


「それは、セブルスに作れるものかの?」


「…材料さえ揃えば、調合はそう難しい物ではありません。ですが…、」


スネイプ先生が少し苦々しいような声音で云うので、私は苦笑いが零れそうになるのをやっとの思いで堪えていた。

そして、彼に対して心底済まなく思う。


ダンブルドア校長はできる限り私を此処へ迎え入れてくれようとしてくれる。

スネイプ先生は恐らく私のような異物の混入を不安に思う、しかし校長に反対する事は出来ない。

私は自分でも私が此処に迎えられる事に不安を隠し切れないが、

それでも心の何処かで、此処になら両腕を広げて迎えてもらえるのではないかと期待しているらしく、

私がはっきりと入学を断れば、きっと校長はそれも承諾してくれるだろう事に気付きながら、そう出来ないでいる。

曖昧に事が運んで行くことを愚かにも望んでいる自分に無意識の内に嫌悪感を感じていた。


「ですが、其の薬には強い副作用があります。

 ミスが、それに耐えられるかどうかは我輩には分かりかねる。」


「ふむ、副作用か…。」


校長は笑みを収めて考え込むような仕草をする。

考え込んだ校長の優しさに内心感謝の言葉を呟きながら、私は彼等の会話の切れ目に入り込んだ。


「副作用も、私、調べました。」


血を飲まなければ「飢餓」感に襲われて我を忘れ、そのまま行けば最後には衰弱して死ぬ。

そうなりたくなければ、薬を飲まなければ此処で生きる事は出来ない。

しかしその薬の材料はつまるところ猛毒であり、毒と薬の違いが濃度でしか無い事はセオリーだが、

微量の毒は飲み続ければ飲み続ける程に、溶けぬ雪のように体内に只々降り積む。

降り積んだ毒は内臓を殺し、命を削る。子宮を殺し、血統を絶やす。

やがて1人きり、寿命を待たず死の沼に沈むだけ。


吸血鬼であるか、人であるか、どちらかならばまだ話は単純だった。

しかし私はそのどちらでもあり、どちらでもない。

それでも、いや、それだからこそ、私は浅ましく血を飲み、

母親の同胞がそうするように何処かで吸血鬼としてひそりと生きるか、

血を飲まないで済む代わりに少し早めに死ぬか、どちらかにしか選択肢を持たなかった。


其れを知った時、呆然としたが、不思議と事実としてただ受け入れる事はできた。

私は自分でも預り知らぬ心の何処かで、こうなることをあらかじめ知っていたのかも知れないと思った。

其れ程に淡々とした心地がしていた。

これでは私の精神と云うものはまるで、他人の身体を間借りする寄生生物のようではないかと思い、

其れでもまだ他人事のように、目の前を事実だけが通り抜けて行った。


スネイプ先生が副作用についてダンブルドア校長に説明している間、

先程迄は全く喉を通らなかった紅茶にそろそろと唇を寄せた。

もうすっかり冷えた紅茶の微かな苦味が貼り付くように乾いた喉を流れた。


、」


呼ばれて、私ははっきりと顔を上げてダンブルドア校長の眼を見つめた。

そして、少し困ったように微笑んで、ゆっくりと確かめるように大きく頷いた。


私がまず最初に選んだ道は、近しい死へと向かう暗い色をした道だった。








next.




(05.2.8)

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