錆色の沼











久しく忘れていた記憶が夢に映し出されて、眠りに落ちているにも関わらず微かに覚醒した私は、

酷く喉が痛いように思われて呼吸が辛くなった心地がしていた。

その記憶は自然に忘れられたものではなく、意図的に忘れようとして、忘れようとして、

やっと精神の水底へと押し沈めたものだ。

それがどうして今さらになって私を傷めるのだろうと、私は今更ながらに自らを暗い糸に絡めて思う。



『そうじゃな、入学前に取り決める事はもうこれで全部じゃったかの。』


『…あの、』


真白い髭をふわりと撫で付けながら穏やかに眼を細め頷く老人に、私は躊躇い躊躇い、声を上げた。

半月眼鏡の向こうのきらきらした眼が私を何のしがらみもなく見る様子は、何故かふいに私を怖れさせた。

肩が強張り他人の身体のように思えてくるのをなるべく考えないようにしながら、私はもう一度、声を発した。


『あの、一つ、御願いをしても、いいですか。』


私の言葉は、状況的に云えばさほど意外なものではないにも関わらず、

老人の背後に立つ二人の教師達は、それぞれの方法で意外さ表す表情を呈した。

黒衣の男は眉を顰めるように厳しい表情、緑色のローブを纏うきりりとした女性はただ静かに瞬きを繰り返す。

その2人の教師達をゆっくりと見渡し、目の前に座る穏やかな老人に視線を戻した。


『ダンブルドア先生、私に、もし、何かがあって、此の学校の誰かを襲い、血を飲むような事があったら、

 例え、どんな事情があっても、どんな状況があっても、迷わず私を此処から追放して下さい。』


それは懇願であると同時に、戒めであり、自分自身の断罪でもあった。

それを云うのはとても恐ろしく今にも息を止めてしまいたい程苦しかったが、

それでも私はそれを云わなければならなかった。

決着は、自らの手で付けなければならない事は知っていた。

たとえそれが私を殺す事になったとしても。


老人が不思議に感情の見えない表情をして、一つ頷き、私は最後の選択である、断罪へと続く白い道を目の前に見た。







週に一度、土曜の夕暮れ、私は其の日其の刻が少なからず恐ろしくて、

胸に苦く痺れるものを振り切る事だけを考えては、かえって痺れの拡大を促してしまうという循環に陥っていた。

空腹感を司る脳の器官とは別の場所に存在する漠然とした「飢餓」感よりも、ずっと息苦しい。

「飢餓」感に由来する衝動を押さえる事も、同じくらい苦しかったけれど。


(此処では、私は化け物では無く、人なのだ。)

(半分を占める異種の血の縁が、「人」を喰らい尽くさぬように。)


?」


「…うん?」


少女に顔を覗き込まれ、本を見下ろしながら頬杖を着いていた顔を上げて少し笑顔を見せてみる。

彼女が云いたい事はわかっていたから、私は彼女への返事をあらかじめ頭の中に浮かべて単語を選びとった。

心配そうに、しかし怪訝そうに友人である少女は私に問い掛けた。


「どうかしたの、何だか今日のあなた、変よ?

 ずっと上の空って感じだわ。」


「そうかな、別にたいした事じゃ無いのよ、今朝妙な夢を見ちゃって、

 何だかぼぅっとしてただけだから。」


嘘は吐かなかった、しかし決してそれは真実と云う訳でもなかった。

今朝、久し振りにホグワーツへ入学する少し前の夢を見た。

あの焦燥感と、呼吸のままならない苦しさ。

恐らく其の久しく忘れていたはずの夢を見たのは、今日が土曜日だからだろう。

土曜日は、滑稽な事に、多少私は感傷的になる。

(土曜日は、残酷な事に、随分「飢餓」感が酷くなる。)


「ベス、私これからちょっと用事があるから、じゃあね。」


「えぇ、わかったわ。遅くならないようにね。」


にこりと笑んで私を図書館から送りだしてくれた少女の姿を瞼に名残惜しげに残しながら、

私は少しふらつくように、先週も、其の前の週も、数年前の土曜日も、

同じように通い続けた道程を行く。


気が遠くなるような気持ちで、私はようやく辿り着いた地下へと続く暗い石階段の底を見つめた。

石壁に片手で縋り付いて、その冷たさに狼狽する。

もう通い慣れた道程ではあるが、それでも闇に竦んだ。


そんな内心とは裏腹に私は確かな足取りで階段を降り、やけに響く靴音を消すようにそっと廊下を行く。

やがて表れた大きな黒い扉を三回叩けば、いつも通りに軋みながら扉が開かれ、

私は異物として場違いな空気に招き入れられる。

室内に足を一つだけ踏み入れて待てば、中から重厚な机に置かれたゴブレットを神経質な手付きで取り上げ、

毅然とした様子で黒衣の男がこちらに歩み寄ってくる。


「こんばんは、スネイプ先生。お薬を頂きに参りましたよ。」


数歩手前で立ち止まり、私の儀礼的な挨拶など聞こえもしないかのように、

彼はただ厳しい表情をして威圧的に私を見下ろし、手に持ったゴブレットを黙って突き付けた。

その中には暗い碧色のとろりとした液体が、温度を感じさせない白い気体を立ち上らせながらたゆたっている。

小さく会釈してそれを両手で受け取り、手の中の物を言い尽くす事の出来ない表情で見下ろす。

その私には眼もくれず、先生はさっとローブを翻して部屋の奥の扉へと入って行った。


縋りたいわけでもなく、縋らせてくれるような人ではないとわかってもいるが、

先生が消えて行った部屋の奥に聳える扉を見ると砂を噛むようなざらざらとした気分になる気がする。


身体の何処か、半分の異種の血の縁に由来する奥底の「飢餓」感と衝動。

それらが欲しているものとは全くの対比色をした薬を、無感動に口に含んで機械的に飲み干し、

そのあまりの酷い味に口腔と喉を灼かれて咳き込んだ。

空になったゴブレットを先生の机の隅にそっと置き、私は誰もいない部屋に深く一礼して退室した。


これが毎週土曜の夕刻にある私の義務の全てだ。


喉から胃へと薬が流れ、身体に血に侵食し、軋むような目眩と吐き気を堪えて壁を伝いながらただ足を動かした。

本当に苦しいのは、ようやっと寮の部屋に着く頃訪れる。

身体が裂かれるような苦痛は一晩続き、私は其れに耐え、一晩を無理矢理に眠りながら明かし、

翌日にはまた身体が半分になったような空虚な感覚を伴いながら「飢餓」感を忘れて、

同室の友人に、おはようと笑顔を。

そんなことを続けて数年が経っていた。泣くような笑うような、そんな気分だった。








next.




(05.2.8)

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