マイルド・マイルド・メランコリー













不自然な迄の白さで四面を囲い聳える漆喰壁は、透明度の高い午前の陽光に明るかった。


様々な人間達で溢れかえる広い待ち合い室で、私は一人で黙々と呼び出されるのを待っている。

目の前には、足に包帯を巻いた少年と、車椅子の初老の婦人、それと点滴をつけた痩せた青年がいた。

薬品の馨を放つ黒い合皮長椅子に、無気力に座って頬杖をついていると、

周囲のざわめき、というより、些細な騒音に、だんだんと苛立ち、耳を塞ぎたくなってくる。


ちょうど、背後できゃぁきゃあと騒ぎ走る子供をその母親が叱責していた時、

呼び出しのアナウンスがかかったので、膝に置いた鞄を鷲掴みにしてふらふらと受付に向かった。

リノリウムの薄碧い床がなんだかよそよそしく、足音はざわめきに掻き消える。


向かった受付処の内側では、清潔な白衣を纏う看護士達がせわしなく動いていた。

奥の方では注射器のセットを片手に看護士が、穏やかな微笑を讃えた鳶色の髪のドクターと話をしている。


(なんと云うか、私は看護士とか医者には絶対になりたくないなぁ。)


私にはなりたくてもなれないだろうという事実は棚上げしておき、そんな事をなんとはなしに思う。

だが、それも、どうでもいいことだ。


とりあえず私は一番近くの受付窓口を、やる気なさそうに軽く覗き込んだ。

窓口にいた物腰の柔らかい優しそうな看護士と幾つか言葉を交わした後、

別の看護士に診察室へと案内された。


診察室の前に佇み、案内をしてくれた看護士が白い廊下の角の向こうへと消えるのを見届けると、

私は改めて、白い扉に何でもないような顔をして不敵にくっついている銀色の把手を睨む。


前にも、何度もこの部屋を訪れたことがある。

すでに見慣れ、通いなれた、精神科医であるセブルス・スネイプ氏の診察室だ。



私は無気力やら倦怠感やらというのを理由に、精神科通いを続けていた。

その無気力、やる気の無さといったら、なかった。(もともとの性格も少しは影響しているのだろうが)


やる気にならないだけなら特に支障は無いのだが、ついにそれが度を越え、

眠る気にならないから眠らない、食べる気にならないから食べない、となる。

そんな状態になった末に、遂に体調を崩したのであった。

我ながら、あまりにも下らない。あんまりにもあんまりな、情けなさに溜め息を禁じ得ない。


自分でも何故こんなにもすべてに、生命維持にさえ執着が無くなってしまったのかわからなかった。

しかし、ただ、ただ、肋骨のあたりが空虚だった。


(これはビョウキか否か。)

(知りうる術は?)

(そんなもの、ない。)

(脳を解剖しても、思想は露出しないのだから。)


通院を続けても、胃が荒れる迄いろんな種類の薬を飲み続けても、

むしろかえって通院を重ねる度にその空白は成長してゆくばかりで、

いつまでも、満たされないままで、私は途方に暮れていた。

途方に暮れることにすら、疲れてしまった。



最後に此処を訪れてからそう長い月日が経った訳ではなかったが、

どうにも無性に懐かしいような暖かい心地が浮かび上がり、

ただでさえ無気力な私だが、一層メランコリックな何かを胸に抱えてしまい、少し溜め息をついた。


覚悟を決めて銀色の把手を軽く握り、ノックもしないでいきなり扉を開いた。

さて、次に聞こえるだろう言葉と云えば、


、ノックぐらいしたまえ。」


云うだろうと思った、という脱力した気持ちが露骨に表情に表れていたせいだろう、

その診察室の主は、回転椅子をきしりと軋ませながら少しだけこちらに向かい直り、眉根を寄せる。

白衣の白さと、その下の黒い服が妙に対照的で、如何にもこの男らしいと思う。


「そう云うと思ったからあえて、遊び心故にノックしなかったのです。

 どうも、お久し振りです。

 相変わらずですね、スネイプ先生。」


申し訳程度に首だけをへこりと下げて、私は云った。

私は患者だと云うのに、先生はまるで敵か何かのように私を睨んでいる。

(どこの病院に患者を睨んで追い返さんとする医師がいるだろうか。いや、ここにいた。)


「あぁ、確かに久しい。

 しかし、我輩は君が前回ここを訪れ、帰る際、一体何と云ったものだったかな?」


先生は顳かみをきつく押さえ眼を閉じながら、何かを押し殺したように、

わざとらしく大仰な言い回しをした。


「えぇ、『一週間後また来なさい。』と。」


「そう、あれから何日経ったか、果たして君は憶えているだろうか。」


机の上で小刻みに震える先生の拳が眼に入り、私は危うく吹き出すところだった。

それを誤魔化すように、扉を音を立てて閉める。


「一週間はとうに過ぎてますが、でも多分そんなに長い月日ではないですよ。」


「三ヵ月だ莫迦者!

 何度も言わせるな、治療を受ける気がないならさっさと帰りたまえ!

 二度と我輩の前に姿を表すな!」


震える拳で、彼は机を殴りつけた。中身の無くなったマグカップが揺れている。

患者を怒鳴りつけて追い返さんとするセブルス・スネイプ医師。

しかしながら、この場合の正統性はおそらくは彼に有るだろうから、私は何も云わなかった。


約束の一週間後に此処を訪れもせず、あまつさえ三ヵ月もの間勝手に通院をやめたのは私の方だった。

優秀で生真面目で完璧主義者のこの医師にとって、治療途上での通院放棄など、あるまじきことである。

彼は態度こそ横柄で無愛想ではあったが、治療に関しての静かな熱意は名医と称するに値すると思う。


それでも私は通院を止めた。

通院を途中で止めたのは、此れが初めてのことでは無かったが。

止めずにはいられなくなったのだ。この広がる一方の胸中の空虚のために。


通院すれば空虚さは楽になる気がしたのに、家に帰ればさらに広がっているのだ。

ずっと病院を訪れなければそれはそれでやはり空虚さが苦しい。

その結果、何度も一旦通院を勝手に停止して、また再開するというようなことを繰り返していた。


三ヵ月前、私の無気力は随分と快方に向かっていた。

執着の無かった睡眠の、心地よさに気付いた。

執着の無かった食事の、暖かさに気付いた。

手放せなかった眠剤の種類も量も減っていったし、その他の薬だってそうだ、

何故なら、毎回手渡される薬の入った袋は、確実に軽くなっていた。


それに反比例して、そうだ、「空虚」はやはりどうして広がるばかり。

何となくその理由は分かっているのだが、自分自信それを認める訳にはいかないのだと、

漠然とした危機感のようなものを感じていた。


「それで、」


怒り混じりの溜め息を吐いた先生は、視線だけで私を椅子に座るよう促しながら云った。

私は勧められるがままに先生の机の近くに無造作に置かれた丸椅子に腰を降ろした。

鞄は足下に適当に投げ置いた。(どうせ今は必要のないものだ。)


「それで、と申しますと。」


「何故勝手に通院を中断するのかと聞いているのだ。

 以前にも何度もこんなことがあったことを、忘れたとは言わせん。

 全く、何度も何度も、いい加減にしたまえ。」


「理由ですか?うーん、なんとなく、ですね。」


「・・・・・質問を変える。では何故またここに来る気になった。」


「眠剤クダサイ。」


先生の顔色が悪くなった。そして眉間の皺が深くなった。

加えて、彼は顳かみに青筋をたてようとしている。


「不眠の状態は、」


「薬無しでは一睡も。

 ここ三ヵ月は、それまでに処方されていたもののストックがありましたので。」


つまり、先生直々に調合してもらった貴重なその眠剤のストックも遂に切れてしまったというわけだ。

先生は呆れたように顔を顰め、折角あれ程迄に直りかけていたものを愚かな、と、吐き捨てるように呟いた。

「空虚」が少し疼いて、小さな頭痛が揺らいだ。


「私に、幻滅しましたか。」


「あぁ、心底。しかも何度もな。」


「そうでしょうとも。」


私は微かに眼だけで微笑んで、すっかり機嫌が悪くなってしまった先生を見据えた。

私は先生にこの消えない胸中の「空虚」のことについてはまだ話したことが無かったのを思い出して、

一瞬打ち明けようかどうか迷ったが、止めておいた。

それはごくごく本能的な判断だったので、理性に因る理由の認識にはまだ思い至らない。


「それで、どうするつもりだね?」


腕を組んで、先生は私を冷ややかに見下ろす。

白衣の白が反射した黒い眼からは、先生の感情が読めなくて少し不安になった。


「通院を再開するか。しかし、もしまた突然に止めるつもりなら他の病院の精神科に行け。

 我輩はお前のお遊びや狂言に付き合っている暇はない。」


「わ、私はここに、ここに通院を続けたいんです。」


(私は先生の治療がいいのよ。

 先生でなければ誰が私の悪いところ全部を治してくれるって云うの!?)


「・・・・ならば、来週、また来なさい・・・・・・。」


「・・・はい。」


少し必死に訴えかけた私を一瞥して、少しだけ表情から厳しさを緩ませた先生を見て、

私は瞬間的に「空虚」の実態と原因の全てを知る。


今度こそ通院をいきなり止めない、という約束は、多分守ることは出来ないだろう。

私の病気が完全に治ってしまったら、それはそれはとても不都合だから。





(睡眠も、食事も、世界も)

(貴方以外は、何一つ大事じゃないでしょう?)












Fin.




クレゾール、リノリウム、白い脱脂綿。アルミトレーにピンセット

そのメスで切り裂いちゃってもあたし文句一つも云わないんですからね

(04.11.4)


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