湖の裏手に聳える木々と足下の茂みに隠されたその小さな場所には、宝物のように醜悪で美しいものがあった。

私はその姿の神々しさと生々しい世界の摂理の無常さに、ただ只管に眼を奪われた。

きっとこれは美しい経過を私に示してくれるに違い無い、

そう思った私はただ眼を見開いて立ち尽くし、其れに釘付けにされていた。

渇望するように喉が渇いていた。











Chanson de Matin











安楽な夢から不安を駆り立てるようにして精神が身体を無理矢理覚醒させ、私は今朝もまた目覚めた。

十数年の経験から目覚ましも用いず早朝に突然覚醒出来る方法を私は独自に編み出した。

其れはつまり眠る前に適度な緊張感を保てば良い。そうすれば脳は自然と早朝覚醒を誘う。


突然はっきりと輪郭を浮き立たせ始める頭に習い、

ベッドに横たわったままの姿勢ではっきりと闇の中で眼を見開き、何度か大仰に瞬きをする。

ベッドを軋ませないようにゆっくりと起き上がり、サイドテーブルに用意しておいた黒い櫛で髪を梳いた。

緊張感を持って寝ていたせいか、其れ程寝癖も付いていない。


音を立て無い様細心の注意を払って櫛をテーブルに戻すと、枕元に用意しておいた制服とローブに手を伸ばす。

夜着の袖から無防備に晒された腕が冷たく沈む空気に舐め取られてさらりと震える。

几帳面に折り畳まれた服を片腕に抱くと、天蓋から垂れる紅色のカーテンを開かずに、

そのままカーテンの切れ目に生まれた隙間からするりと身体を滑り出させる。


靴下を履き、シャツを羽織り、スカートを穿き、ネクタイをおざなりに首に掛け、ローブを羽織り、

取り敢えず一通り体裁を整えてから洗面室に向かった。

琺瑯の洗面器のひやりとした水で顔を洗うと、張り詰めた水は静かに瞼を押し開く。

はっと短く溜め息を付いて、足音を立てずに寝息の潜む部屋を横切り、

一眼レフとマフラーと外套を通りがかりに掴み上げて部屋を出た。


一連の動作は慣れれば意志なくこなす事ができる。

頭で覚えるよりも身体で覚える方が習慣と云うものに関しては手っ取り早い。


薄闇の談話室に出て、私は無造作に掴み上げていたものをソファに一旦置き、改めてそれらを正しく身に付けた。

誰もいない談話室には未だ暖炉の火も無く、冷えた空気が透明に沈澱している。

ネクタイを緩く締め、カメラを首に下げ、その上に外套とマフラーを身に付けて、そっと談話室を出た。


「ここのところ毎日早起きね。まだ皆眠ってるって云うのに、」


押し開かれた絵画がぱたりと閉じると、寮の番人である絵画の中の女性「太った婦人」は眠そうに欠伸をしながら、

起こされた事に対して少し恨めしげにそう云ってみせた。

此れには苦笑を返すしか出来なかった。


足音を極力立てないように石造りの城を横切り、広く天井の高い玄関ホールに向かう。

背後で幻聴のように小さくことりと音がしたが、私は一切気付かないふりをした。


時刻はまだ朝日が昇るか昇らないかの薄明るい朝焼け、

校則には夜出歩いては行けないとはあるが、早朝に関しては特に記述されていなかったはずだ。

頭の中でそんな理屈を捏ねながらゆっくりと重々しい扉に隙間を作り、身体を滑り込ませた。


しっとりと冷たい空気が、外套の内側に暖かい空気を孕んだ身体を抱き込んで温度を食む。

幼子を宥めるような心地でふっと笑い、胸元の外套を手繰り寄せた。


背後の扉が隙間を失う前に、扉からさっと離れて校庭へ出た。

其れは私なりの気遣いだ。

私は思わずにやりと口端を上げた。


校庭を出て暫くは、半分凍りかった芝をしゃくりと踏み締めながら穏やかに湖へと歩を進める。

大きな湖沿いに周囲を歩き、湖の傍で密生する木々の隙間に足を踏み入れる。

此処は立ち入り禁止の森ではないから、多少なら別に私でも入る事は赦されるはずだ。


外套の内側でそっとカメラを撫でながら、木々の足下に生えるシダ類や低木の為した茂みを回り込んだ。


私はその光景を眼にして、愛おしい心地にそっと眼を細めた。

恐怖や寒さとは違う種類の震えをとろりと走らせる手がカメラをきゅっと握りしめる。

柔らかい草の上に横たわった乱れた茶色い毛皮の塊に一歩近付き、

深く敬愛するように、躊躇いの一片も惜し気も無く、

むき出しの片膝を冷えた地面に付いてカメラを構えた。


フィルムを巻き、ピントを調節し、シャッターボタンを押す。

膝が少し痛むのは特別気にもならない。

ただ冷たく横たわる何らかの生き物の亡骸をフィルムに焼きつける事が、

私に今できること、今考えられる事の全てだった。


じっくりとピントと構図を吟味して2回シャッターを押すと、私は満足して立ち上がり、

カメラを元のように首から下げてじっと其れを見つめた。

愛おしいのだ。


夏が死に、冷たさが世界を飲み込み始めた季節ではあるが、昼間にはそれなりに気温が上がる。

恐らくは鹿か何かであろう茶色い毛皮を持つ此の遺骸は、その為緩やかに腐敗を進めて行く。

日々を重ねて、少しずつ腐敗を進め、少しずつバクテリアと虫と森に潜む動物達に喰い千切られて行く。


刻々と変化して行く亡骸は、醜く渇き黒ずんだ肉と剥き出しになった骨、

死に群がる生き物達を誘う死臭に満ち、醜さ故にその姿にしっとりと冷気を孕んだ美を称える。

其れらが私を魅了する。引き付けて止まない。

死に誘われ、タブーのように貪る事を前提とした罪の意識と、背徳のあまやかさが其処には在る。


「だから私は死を記録するんだよ。

 ねぇ、そうだろう?」


両腕を広げて肩を竦め、私は大仰に背後にちらりと視線を送ってやった。


「何時迄隠れているつもりかな。

 私の朝の日課の一連の動作は此れでお終い、後は城に戻るだけだよ。

 サテ、サテ、其処で君、如何が為さるおつもりかね?」


芝居がかった口調と仕草を伴い、嘲笑に聞こえるようにわざと厭らしく顔を歪めてみせた。

別に普通に対峙しても良かったのだが、彼はこのように扱われる事の方が慣れているだろうと云う、

多少皮肉った気持ちもあった。

私にしてみれば、これは愛のある虐め方なのだが、彼にしてみればひどく気に障ったようだった。


(まぁ、当たり前か。…私も相当性格が悪くなったみたいだ。)


自嘲気味に髪を撫で付けて身体ごと振り返ると、少し離れた所に、

憎悪と呼んでも差し支え無い形相で私を睨むセブルス・スネイプ少年がいた。


「昨日の朝も一昨日の朝も、此処最近ずっと此の場所に来る私を尾行していたね。

 私を罰する何かを探していたんだろう?

 どうして今迄、誰にも、何も、此の事を云わないでいてくれたの?」


「…」


芝居じみた振る舞いを止め、極めてまともに私は純粋な疑問を口にした。

セブルス・スネイプ少年はまだ私を疑り深く睨み付け、ただ押し黙っている。

右手は何気なく垂らされているように見えるが、恐らくは即座に杖を取りだせる様に神経を研いであるのだろう。

まるで当たり前のように無意識に(もしくは意識的に)そうする彼を少し苦い心地で見つめながら、

私は彼が何らかの行動か発言を為す迄、取り敢えず質問を続けてみた。


別に私は(多分)禁止事項に触れていないし校則の範囲内の行動を取っている、

動物の死体が腐敗して土に還って行く行程を毎朝写真に収めて観察していると云う事は、

少々常軌を逸している行動ではあるが、それは別に個人が持つ自由の権利の範囲内の事だ。


彼に言い触らされて困るような事は、私には何一つ無いのだ。

変わり者だと云われるのは避けられないが、云ってしまえばそれは自ら認める所の事実である。


「別に君に尾行されて不快だとかは全然思わないんだけどさ、」


首を傾げながら無表情に無感動にそう何気なく呟くと、セブルスは怪訝そうに眉を顰めて、

警戒するように私をまじまじと見た。

私が本心で云っているのか、彼に対する悪意の欺瞞で云っているのか、慎重に試しているように見えた。


私は溜め息を吐きたい気分だった。


(あぁ、まったく、あいつらのせいでうちの寮生は彼にとってみんな最悪の敵なわけね。

 ただでさえ対立する寮同士もともと好かれてもいないのに、まったく、あいつら、余計な事をする。)


暇を持て余す天才達率いる悪戯仕掛人を思い出して、嫌悪こそ無いが恨みがましい気持ちになる。

余計な事をする人達だともう一度内心微笑ましく毒づきながら、マフラーに絡み込もうとする髪を払う。


ふと、セブルスがマフラーも巻かずに制服の上にローブを羽織っただけの格好である事に気付いた。

寒いだろうに、尾行ももう既に毎朝の事なんだからもっと暖かくしてくればいいものを。

そう考えて、何だかたまらなく胸の奥にじわりとあついものが流れた。


「寒く無い?」


唐突にぽつりを尋ねると、一瞬困ったような顔をして、それを掻き消すようにまた彼は訝しむような顔をした。


「近頃随分と朝が冷えるからねぇ。」


「…薄気味悪い」


「へ?」


返事が返って来ないのを良い事にのんびりと呟いていると、唐突に彼は沈黙を破った。

しかしながら、やっと彼の口から出たのが吐き捨てるようなそんな言葉か。

怒ると云うよりは呆れた、呆気に取られた気持ちになった。


「こそこそと一体何をしているのかと思えば、死体観察か。

 はっ、其の神経を疑うな、流石は勇敢なるグリフィンドール寮生だ。」


彼の言葉は、私を侮り、嗤笑し、傲慢な迄に尊大に吐き捨てられる。

彼は確かに正しくはあったので、私は2度程噛み締めるように頷いて笑んだ。


「はは、ナンセンスだよ。

 私には私の理屈を持った故ある行為さ。

 変わり者であることは了承済みなんだ、詮無い事を聞かないでくれ。」


掛けられた言葉と不似合いな満面の笑顔で反論してみせた。

不似合いさで云えば、相反する寮の生徒同士が向き合いこんな所にいることも可笑しかったし、

そもそも会話の内容が私の目前にある、腐敗し半ば崩れかけた死体を巡るものであることも可笑しかった。


「君は死そのものに何を思うかな?

 死と云う作業を終えた亡骸に何を感ずるの?

 君は死に惹かれた事が無いのかい?

 …ねぇ、果てにあるものを、見てみたいとは思わない?

 例え、それが、禁じられたとしても。」


誰だって満ち足りるだけでは真実満足することなんて出来ない。

だから悪戯仕掛人達は満ち足りた足場を跨いででも若い傲慢さを罪深く優雅に弄ぶし、

富みを地位と名声を手に入れた者は永遠の命を求める。

不可侵であることが絶対とされた領域に足を踏み入れるのは罪深く、あまりにもありふれたこと。

そういう自滅のセオリーの中で人間なんて生き物は破滅して行くものだ、と。


「私の行為はそんなものの一部の具象に過ぎないんだよ。」


闇の魔術に魅せられるように、世界の深層を覗くだけの素質を持つ彼なら、

此の私の思想を理解する事はできるかも知れないと思いながらも、

彼が理解しうるという事は永遠に無いだろうという確信が私にはあった。


彼は闇に飲まれながら、きっとそれでも縋るように光に手を翳さずにはいられない生き物だ。


ただ身体を強張らせるように感情の読めない顔で立ち尽くす彼ににっこりと笑いかけ、

私は素早く彼に向けてカメラのシャッターを押す。


「君は美しいね。

 この神々しい迄に醜悪な亡骸よりも、もっとずっと。」


死体よりも死に近く、生き物よりも死に遠い、

青褪めたセブルスの一種畏怖のような色を含む嫌悪の表情を見つめて、私は深く静かに微笑んだ。


多分彼は何らかの事に気付いているのだ。

気付いているが気付かない振りをして、

私を罰するに値する何か弱みのようなものを突こうと尾行している名目を立てている。

そうしてただ私が遺骸に向けるシャッター音を、飲み込むしか無い自分に。



何事も無かったかのようにセブルスの傍をすり抜け、

朝日が煌々と射し始めた眩しい湖の畔を通りつつ城へと引き返し始めた。

ふと、まだあの場所にいるらしいセブルスを一度だけ振り返った。


「また明日もおいで。

 マフラーと外套を忘れないでね。」








 

 






fin.




Chanson de Matin(朝の歌):E. Elgar

(04.9.14)


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