ステア












私はセブルスの顔をまともに見た事が無かった。

彼とは、寮も性格も恐らく価値観や趣味といったものまで全てが、

私との相違ばかりの存在であることは明確であった。

そして何より私は彼に興味が無かった。


嫌いだったわけではない、むしろ好意的な方の感情は何かしらあった。

浅ましい親しみのような、憐れむ同族への溜め息に似た警鐘、

彼に対して抱く感情の全てはそんな手垢に塗れたつまらないもので、

だから興味が無かったのかもしれない。


ありふれたものに反旗を翻したいと日頃より私は鋭く爪を研ぎ、

飢えた眼で同じものが連続して並ぶ時間と云う概念を見据え、

何時叩き壊してやろうかとじっと息を顰めている。


煩雑な手続きを経て得られる無味無臭の真理などまるではりぼての城のようなもの、

それよりももっと血腥い手ごたえをこの日々に感じたかった。

しかし私にそれが訪れる事は永劫無い。


所詮は虚言に過ぎず腐り行くだけの願望であることは承知の上で、

私は使いもしない爪を研ぐ。

鋭く尖らせた此の爪で掻く事ができるものが何かあるのだろうか、

足下に滲み寄る明日の不安を切り裂いてやろうと私は必死に空を裂いていた。


ふと空想に思いを馳せていた事に気付き、止まっていた左手を改めて動かした。

長いテーブルに長い椅子、思い思いに座り消化活動を疑いもせずに行う同年代の少年少女がいる。

隣に座っていた少女が前に座っている少女と身を乗り出してくすくす笑いながら耳打ちしていた。

隣の少女は右手に銀色に眩しいスプーンを握ったままだ。

下を向けて持たれたままのスプーンの先から一滴のトマトスープが滴り落ちる。


白いテーブルクロスが朱色のスープに汚される。

その一滴がテーブルクロスの全てを朱に染め尽くし無色を喰らう様が脳裏に過り、

私は何とは無く首を振る。

よく脳裏に過るそう云った映像はまるで質の悪い白昼夢のようで、

首を振り現実を取り戻せば大抵の場合軽い目眩を感じる。


耳が雑音を拾い過ぎている気がした。

カチャカチャと食器が鳴る音と、食物を掻き混ぜる音に咀嚼する音、

私は途方も無い辱めの渦中にいるような気分になり、無性に苦々しく恥じ入って俯いた。

左手に持ったフォークも、其れを持っているという事実が耐えられずに、

真白く傷一つない皿の上にカチャリと置いて両手を下げた。


睡眠欲と食欲と性欲は人の生存に於いて基本のものではあるが、

私は本能行動を他人の視線に晒すことに嫌悪を感じる類いの人間だった。

人前で眠る事に抵抗を感じるので、授業中はもちろん、列車等の乗り物の中でも私は眠らない。


私と云う個体を取り繕う事に慣れているからこそなのかもしれない。

本当の性は誰にも、友人や肉親と云う近しい人々にさえ見せる事等出来なかった。

私は認めたく無いと思いつつも、実際其れを怖れていた。

プライドだなどというものには収束の出来ない途方も無く深い沼のような羞恥だった。


其れと同じように群れの直中での消化活動は私にとって恥じるべき所作のように思われた。

ホグワーツに入学して以来の集団生活には、

適応能力の乏しい私でも漸く慣れる事が可能にはなってきたのだが、

集団で摂る食事の煩雑さは私をしばしば悩ませた。


食欲が無い訳では無い。

しかしこんなにも羞恥を感じながら咀嚼を繰り返す事に、

恥をかくことに慣れていない私は向ける所も無い怒りさえ覚えた。

食事をする事に何の疑問も持たない彼や彼女達に理不尽な妬みを感じる。

次第に耐えられなくなって投げ遺りな気分で生物の義務を放棄したくなる。


「あら、、もう終わり?

 駄目よーちゃんと食べなきゃ。」


私の正面に座っている赤毛の少女は頬杖をついて私を見、にこりと笑った。

彼女の目の前の金色の大皿に積み上げられた色とりどりのフルーツがその緑色の眼に映る。

とろりとした光が入り込んだ彼女の眼球と云う小さな景色の方が、

大皿にあでやかに盛られたそれら自体よりも美しかった。


「ちゃんと食べたから大丈夫。

 リリーは?もう終わった?」


「えぇ、さっきね。

 ちょうどいいわ、此の後一緒に職員室迄付いて来てくれないかしら。

 先週の魔法史のレポート、今日迄でしょう?

 昨日出そうと思ってたんだけど、出しそびれちゃって。」


「いいよ。じゃあ行こうか。」


テーブルに両手を付いて立ち上がり、席を離れた。

歩みを進め、広間の大きな扉の敷居を潜った途端に空気の温度が下がり、

食卓に独特な臭気が一気に薄れて、私は気付かれない程小さく安堵した。


晩夏とは云えど夜は鋭い寒さがしっとりと床を這い、

明かり取り窓の外で闇が沈黙の内に嘲笑っている。

ローブを形だけ掻き合わせて、私とリリーは職員室に向かう回廊を行く。


カタリコトリと軽い靴音が、大広間を遠ざかるに連れ濃くなる静寂に響く。

生徒の大半はまだ大広間であり、広間を出た生徒達は恐らく自寮の談話室にでも戻っているのだろう、

蝋燭の頼り無い灯が零れる薄暗い回廊は生き物の気配がしない。


「うーっ、お約束だけど夜の学校って何でこんなに無気味なのかしら。」


いつもならレポートの提出くらい何時の間にか1人でさっとこなしてしまう彼女が、

今晩に限って私を誘った事にはどうやらそんな理由があったらしい。

リリーが可愛らしく顔を顰めてぽつりと云うので、私は思わず微笑んだ。

彼女にも怖いものがあるのだと、当たり前のことがまるで大きな発見であるかのように思える。

何だか意外だったが、発見してしまうと不思議とそれはしっくりとくる。


曲がりくねった廊下の先に漸く職員室が見えて、私達は顔を見合わせて、

特に意味は無いながら苦笑して肩を竦めた。

リリーが魔法史教授にレポートを渡してそのまま何やら話し込んでいるので、

暇になった私は手持ち無沙汰さに徐にポケットを探った。


ふと、皮のような滑らかな感触が指に触れ、其れを取り出して見れば、

褐色の皮の表紙に剥がれかけた金の箔押しが施された、小さな手帳大の本だった。

しまった、と思い、私は咄嗟に左腕の腕時計を確かめた。

今日が返却期限の本だった。

今から行けばまだ図書館の閉館時刻には間に合う。


「リリー」


私はそっと小声で呼び掛け、リリーの背中を突ついた。


「私図書室に本を返すの忘れてたから、ごめん、先戻るね。」


「いいけど、でも大丈夫?なんだったら私も一緒に…」


云いかけた彼女を手で制して大丈夫だと云う代わりににこりと笑みを投げ、

私は少し急ぎ足で踵を返して彼女に片手を上げた。

少し心配そうに見送っていた彼女だったが、すぐにまた先生との話に戻ったようだった。



先程リリーと通った薄暗い廊下を引き返すように戻り、途中の曲り角で図書館に向かう。

普段あまり人通りの無い通路であるせいか、

所々蝋燭が消えていて闇はますますとろりとした洪水のように押し黙る。

一瞬杖で灯を灯そうかとも思ったが、そうしなくても何とか歩く事には支障がなさそうだったので、

少し考えて、懐に入れかけた手を降ろした。


1人きりの靴音はもの寂しく思われたが、身体の何処かで安心しているようにも思える。

此の城で生活していると、1人でいる事の方がずっと少ないのだ。

たまに訪れる1人の沈黙は辿々しく幼稚な安堵を生む。


自然と歩調が弛んで彷徨うようにゆっくり歩いていると、段々靴音が二重に響いているような気がしてきた。

聞き違いだろうかと歩調を少し変えてみればやはり自分とは違う速度で靴音が聞こえる。

前方からこちらに向かうように聴こえて、私は思わず立ち止まった。


自分もこんな所をこんな時間に歩いているのだから、別段誰かが此処を通っていたとて不自然な事では無い。

にもかかわらず何故か得体の知れないものが近付いているように思われて脚を強張らせ、

蝋燭の消えた闇の中から次第に近付いてくる足音の方を眼を見開いて見つめた。

見つめたところで、闇から輪郭を識別出来るはずも無いのに。


いよいよ足音の主が近付いて来たところで、私は誰ですかと尋ねようと口を開きかけたが、

足音の主が私が尋ねるより早く鋭利に質問を投げかけてくる。


「…其処にいるのは誰だ?」


声の低さから、恐らくは同年代くらいの少年であるようだった。

其処かで聞いた事があるような声だと首を傾げながら、私は闇に向かって取り敢えず返答してみる。

おぼろげながら、闇の暗さに慣れた眼に毅然と立つ少年の輪郭が見えて来た。


ですけど、えと、あなたはどなたですか。」


か…。お前、こんな所で何をしている。」


私の質問を全く綺麗に無視して、少年は厳しい口調で私を諌めるように問う。

あれ、と、私はようやく其の口調と声を持つ人物に思い至った。

どうして気付かなかったのだろう、顔はあまり覚えていないが、声ならよく覚えていたはずなのに。


「もしかして、セブルス・スネイプくん?」


「もしかしなくともそうだ。それより、こんなところで何をしているのかと聞いている。」


お互い同学年だとは云え、名前と顔を辛うじて知っている程度の繋がリしか持たないのに、

それにしてはどうにも不自然な迄に尊大な態度で、彼は威圧的に私を詰問した。

面白いくらいに尊大なひとなのだなぁと呆れるように感心したが、別に不快感は無かった。

きっとそういう態度をとっているのが彼である故にそう思うのだろう。

如何にもそれが彼の当たり前の態度であるように思えてしまうのだ。


(嗚呼、駄目だ、そうなんだよ、彼の顔が、思い出せない。)


「何をしているって、云われても。図書館に向かってるだけなんだけど。」


「図書館…?」


訝しげに返された言葉に、此の闇の中では見えないだろうが、取り敢えず肯定の意を込めて頷いた。

すると、一拍置いて、少し嘲りを含んだ声音が帰ってくる。


「お前、知らないのか、今日は臨時休館だぞ。」


「わぁ、そうだったっけ。あー…しまったなぁ…。」


返却期限を一日過ぎても、赦してくれるだろうか。

そんなことを考えて少し溜め息を吐きたい気分だった。

ふとセブルスの方を見ると、闇の中にうっすらと浮かんだ口元はにやりと蔑み混じりに嘲笑しているらしい。


「わざわざ教えてくれてありがとうね、セブルスくん。」


馬鹿なやつだと嫌味の言葉を投げかけようとしていたのだろう彼に、

先手を打って私は何事も無かったかのように謝辞を述べた。

悪意、と云う程のものでもないが、そういう類いの感情はすり抜けて何事も無く振舞うのが良い。

別に彼に馬鹿だと云われてもさほど傷付きもしないが、そう甘んじてばかりいるつもりもなかった。

予想した通り、彼は虚をつかれたように少し言葉を詰まらせて、忌々しそうに押し黙った。


(駄目だ、思い出せない、どうしてもセブルスくんの顔が思い出せない。)


先程から頭の片隅で囁かれる苦しい言葉が離れてくれない。

あぁそうだ、そうだよ、彼の顔が私はどうしても思い出せないんだ!

脳内の自分の囁き声に苛ついて叫び返せば、

自ら認めた事実が、何故か気管が締めつけられるように痛い。


セブルスとは、寮も性格も恐らく価値観や趣味といったものまで全てが、

私との相違ばかりの存在であることは明確なのだ。

そして私は彼に興味が無かったのだ。


(畜生、どうしてこんなに息苦しい!)


「…?」


無自覚に喉を押さえ込み唇を噛み締める私の姿が、朧げに見えたのかも知れない。

訝しげに彼は私の名を呼ぶ。


夜の中で私は声でしか彼を判じ得ない。

声から彼の顔を思い出す事も出来ない。

けれど私は彼の顔をまともに見た事がなければ、まともに見る事もできないんだろう。


「待て、おい、!?」


黙って身を翻した私を気配で察し、セブルスは咄嗟に右手で私の手首を掴んだ。

強く掴まれた手首から、彼の指は幾ら足掻いても剥がれそうに無かった。

彼に顔等無く、ただこんな闇の中の存在であったなら、私は此れ程息苦しくは無かった。


ふっと眩しい光を感じて咄嗟にセブルスを振り返れば、

灯を灯した杖を掲げて彼は私を困惑したように眉を顰めて見下ろしていた。

明るさに眼が眩み、一瞬眼を細め、ふと彼の顔を初めて正面から見据えた。


(こんな、顔をしているひとだったのか。)


余りにも有り触れた感動で、私は呆然と眼を見開き、灯に照らされた彼の顔をただ黙って見上げた。

静かに、涙が流れた。













fin.




初めて世界を眼にする幼子のよう

零れる涙の意味も知らずに

(04.8.27)

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