靴音はモルヒネ











此処の地下には吹き溜まりが形成される。

土と云うものは地球的視野で見ればそれも貴重な資源であるし、植物の生育を基本とする生物にとって、

あるいは海と同じ程に母なる存在なのかもしれない。

しかしその土の内側に造成されるこの地下室はと云えば、訪れる者にそんな生産性など思いもさせない。

其の部屋を支配する者にも原因はあるのだが、ひんやりとした独特の地中のにおいは、

多くの人間の気持ちを不思議に不安にさせ、陽の当たる場所へ急がねばならない気持ちにさせるらしい。


「スネイプ教授、…スネイプ教授」


ノック音は石の床に喰い殺された。地下の支配人は、生憎と留守らしい。

両腕に抱えて眉を顰めたくなる程重く厚い古書を腕を捩って抱え直して、口唇を柔く嚼んだ。

なんだ、今日迄に此の本を返せと横柄に云い遣ったのは教授の方なのに、と、はっと短い息を吐いた。

何時もならばこの黄昏の刻、平生からの塒(ねぐら)のように薄闇に乗じて存在しているはずなのだが、

今日と云う日に限っていないとはけしからぬ、指が痺れてゆくえも云われぬ気持ち悪さの為そんな気分になる。


しかしながら流石に何時彼が自室であるこの地下に戻って来るかも見当がつかない。

神経質で習慣に忠実ながら、反面実に気紛れでもある教授は私にはそのパターンを決して悟らせてくれない。

少しくらい裾を掴めてもいいはずなのだ、もう入学当初から数年の付き合いになるのだから。


たいした感慨も無くそんなことを思い、厳粛に錠が施された扉の前に座り込む。

多少荒く背中をぶつけるように凭れ掛かれど聳える扉は一インチも動かない。

膝の上に抱きかかえた古書が重い。酷く重い。


そもそもこんな本借りるものではなかった、という後悔は珍しくも、無い。

悔しいがいろいろと興味深かったことも事実であり、比較的貴重な代物であることを考えても、

借りた事自体を憎む事は出来なかった。

(借りた、正しくは無理矢理貸し出させた、のかもしれない。

しかしそう云ったニュアンスは畢竟個人の感覚次第なので私は借りたという表現が正しいと思っている。)


「またグリフィンドール寮生をいびってるのかしら…忙しい癖に暇人でいらっしゃるなぁ…」


本人がいない事を確かめて、独り言を呟いた。

質が悪いのは自分のこと、もちろん十分理解している。

しかしだからと言って明け広げに云う訳にもいかない。本人が聞けば必ず怒りをかってしまい、

もしかすると2度とこのように本を借りる事が出来なくなってしまうかもしれない。


(利用できるものはそれが例えスネイプ教授であっても利用する。

 なかなかいい心構えだとは思わないか、自分に素敵に忠実じゃないか、ねぇ、教授。)


胸の内の空洞を音も無く反響させて囁きながら、無感動な手つきで保存状態の悪い古書の表紙を捲る。

紙がひらりと動く度、多種の薬品が混じりあうような湿った匂いが微風に溶けた。

此の本が教授の部屋に辿り着いた時には幾年も風光に晒された後であり、既にこのような状態だったと云う。

教授が少々修理を施して、これでもましになった方だと彼は忌々しそうに語った。

繊細な学問を教える者らしく、貴重な書物を手荒く扱う行為が彼にとっては甚だ不愉快でならないらしい。


私も確かに自分の所有物は大切に扱うし、見知らぬ第三者に粗末にされたく無いと思うだろう。

だが、私は教授の関心をこちらに向ける事に意義を感じるような場合が在れば、

此の本を教授の目の前で灰にすることも辞さないつもりだ。

大切なものでも、突如としてまるで塵以下の不必要なものに価値観が逆転する事だってあり得る。

そして大切なものを壊す事によって得られる至福の類いが、また、不条理にも存在する事は事実だった。


渦巻く矛盾した仮説を感情を伴わない手で鎮火させ、指先は涼しく次々と頁を捲る。

昨夜枕元のランプを灯して急ぎ読んだ文章の羅列が網膜を意図も無く走り抜けていく。


かすかな足音が聞こえてきた。

重く毅然とした足音が聞こえた。

特徴の無さが特徴である足音が。


弾かれて本をばさりと閉じて、本に両腕を回した。

反響しながら近付いてくる硬質な靴音を聞いていると、首筋の皮膚の下を何かの虫が這いずり回るように、

心地の悪い震えと寒さが首筋を中心としてずるりと末端部に移動する感覚がある。

其の気配だけが何と私を恍惚にさせるだろう。喉を駆けるそれは気味の悪い歓喜だ。

近付いてくる靴音、もう少しで角を曲がり、少し奥まったこの教授の自室に辿り着くはずだ。


スネイプ教授、と呼び掛けたい気がするが、死んでも呼びたくない気もする。

呼び掛ければ私のその声はおぞましいまでに浮ついた渇望や愛情に模した一種欲情のようなものが混じるだろう。

先程の独り言や留守だった教授を探す呼び声とは、意図を全く異なるものにしてしまうのはよくわかっている。

意図の異なってしまった声は、本質的に純粋な声では無くなる。

そして、それは私を自分自身への軽蔑の底に沈める。


自分の擁護をするのは結局の所自分以外に無く、自分が自分を擁護出来なくなった時、人は死ぬのだろう。

ではこの理屈に従うなら、私は今教授を呼べば死ななければならないではないか。全く冗談じゃ無い。

生きたい理由も無いがそんな下らない死なんて私は尚更御免だ。

(利用しているつもりでそれに身を滅ぼされるとはまったくもって笑えもしない程に滑稽。)


靴音の近付く歓びと憎悪と向かう所の無い幼い癇癪が、本を胸に抱く腕に冷たい震えを与えた。

指の付け根で筋がきりきりと引き絞られている。


(呼びたい、呼びたく無い、早く来て欲しい、来ないで欲しい、声が聞きたい、二度と其の口を開くな!)


私の不条理が駆け巡ったは教授の靴音にして二回分の時間。それ程の長い時間では無い。

嗚呼、しかし私は、どうすべきなのだろうか。

道理に叶わない逆説的拒絶を抱えて、それは前触れなく弾けた。

脳内ではっとするような一瞬、小さな塊は液体と散り、その麻薬が逆説をそっと掌握する。


麻薬が。


急に喧しく愛を憎を理をと叫んでいた脳内が静かになり、茫洋として、指が本の縁を滑り落ちた。

支えを求めて本は私の胸にとさりと寄り掛かり、両手がだらりと腿に落ちる。

立てていた膝も倒れ、ただ呆然とした霧の中の心地で、支配を待ち受ける扉に寄り掛かった。


目覚めたばかりの幼子の眼でゆっくりと薄汚れた天井を見上げれば、酷く穏やかで。

なんとなく、質問も存在しないのにただ解答だけが唐突にやっとわかったような気がして、眼を閉じた。


いつのまにか私のすぐ傍まで近付いていた靴音も、とても間近で今鳴り止んだ。

麻薬が眼球まで滲みた。さぁ、もう眼を開けようか。










fin.




(04.3.21)

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