dying field















私の網膜が壊れた。


何の障害もなくこの世に産まれ、10数年間一度の例外もなく、視界内の事象を映し投影してきた網膜が、

ある日から、何らかの原因に因り、視線の先の景色とは異なる別の景色をも映すようになってしまった。


眼前に広がる光景に、丁度薄い半透明のフィルムを重ねているような映像。

赤と青のフィルムを重ねれば紫が産まれるように。

その重なるもう一つの景色と眼前の景色は、全く違う2つのものであるにも関わらず、

まるで最初からそうであったように、網膜上で重なり、溶け合い、美しい合成を為されて脳に伝達されて行く。


目の前にはないものを映しているのだが、それは幻覚といった類いのものではなかった。

薬物中毒者の起こす手の大袈裟なフラッシュバックとは程遠くて、

時々ふいに、任されてもいない映写機の役目を思い出すように静かに、ゆっくり、眼は映像の上映を始める。

ノイズ混じりの古い無声映画みたいだ。


辛うじて輪郭が認識出来るくらい本当に透明な映像で、視ようとしなければ視えるはずもないような、

日常生活に何の介入も働きかけようとしない謙虚なそれ。


至極あやふやで儚い影を映像と錯覚して視ているような不安定感と、でも、確かな映像としての確証。

感覚としては、天井の滲みや模様がひとの顔のようだといって怖がる子供のような気分にも近い。

それでも、確かに視ようとすればする程はっきりしてくる、眼前とは異なる確立された1つの風景なのである。


網膜に重なるもうひとつの景色は、色彩、対象、実に様々でバラエティーに富んだものだ。

過去に視てきた見覚えのある風景もあれば、視た事もない場所を眺めるという不思議な感覚もある。


最近では、友人であるハーマイオニーやロン達とクィディッチを観戦中、

何時の間にか重なるフィルムは、薄いながらも海の底を漂っている深い碧瑠璃の色彩。

一瞬クィディッチを視るべきか網膜の映像を視るべきか深く迷ったのだが、

結局つい海中の映像に見愡れてしまい、ハリ−少年がスニッチを手中に納めた瞬間を見逃してしまった。


少し彼にはすまない事をしたなと思ったけれど、

さらに申し訳ないながら、罪悪感ひとつ感じないくらい、それは美しい景色だったのだ。


もう一つの景色を刻む網膜の映像は、その全てが必ずと云っていい程、常に美しい光景だった。

光りの毀れ射す蔓薔薇のアーチと垣根、瑠璃や緑柱石等の鉱石の欠片のような海の色、

紅色の天と雲の流動、濃緑色の夏の木陰。


私自身すら笑ってしまったのだが、驚いた事に私の愛するセブルス・スネイプの研究室を視た事もあった。

私がよく行く彼の私室の中でも、一等薄暗くて灯の届きにくい隅に重厚に構えた棚、

無造作に、しかしれっきとした規則を備えて並ぶ、ホルマリンを注がれた保存瓶の数々の映像だ。


これも私にとっては"美しいもの"の類いに分類されるのだが、一つ誤解の無いように明らかにしておく事と云えば、

それは決して保存瓶の中に漂うものを指して美しいと形容するわけではないということなのだ。


幾ら(一応一般的に云えば趣味が悪いと云われるだろう自覚を持っている)私でも、

得体の知れない中身まではそれ程愛しているわけではない。

保存瓶の整然とした配列や、彼が其処に向ける意図、箱庭的な退嬰の世界、

そんな感情を憶う感覚的な美学を感じた為に、私はそれらに"美しいもの"という定義を与えたのだ。


そう言う事を踏まえて考えてみると、つまりは壊れた網膜が映す美しいもの達の映像、

それも一般論でなく私の精神と思想により合成、複製されたヴィヂョンは、

私の意識へ何かを提示しているつもりなのだろうか。


健気にも私が私に差し出している網膜の映像。

一体何が原因で網膜が壊れたのかわからないが、別段修理の必要性も感じなかったし、

むしろ楽しんでいるきらいさえあったので、私はこの網膜に起きた故障もと、りもなおさず愛することにしたのだ。










近頃、私は網膜のヴィジョンの中に探し物をしていた。

その探し物は、私がセブルス・スネイプを慕うようになってからというもの(慕うなんて言葉では足りないけれど)、

延々今に至る迄、そして今も尚ずっと探し求めているものなのだが、どうしても見つからない。

だが私はある直感的な感覚により、その求めていたものがきっと網膜の映像の中に隠れているはずだと思うようになった。


私が求めてやまないもの、それは私と先生とが2人きりで在るべき場所を示す。

そう、私と彼だけしか存在する事を赦されない程に、きっと完璧な世界を確固たる意志で保ち続けている場所。

その場所を示すべき光景を故障した網膜が展開する、それが私の望みなのだ。

私のつたない思考だけでは想像を手に入れることができない、深層真理の奥で嘲う匣庭という名の理想郷。


幸福と唯一に彩られ統治された世界、その想像を絶する光景を、私は常に網膜の繰り出す映像の中に探し続けていた。

見つからないかも知れないような私の求めた幻の光景を、もし見つける事ができたなら、

拒絶する彼を無理矢理連れ去ってでもその世界へと向かいたい。

おびただしい幸福に塗れながら、先生と共に朽ち果てる迄、其処で在り続ける。

そうすれば私達は、「唯一」になれるだろう。




「ねぇ先生、私の壊れた眼、いつ治るのでしょうね。」


さして治って欲しくも無さそうな意志を滲ませた声音でぼんやりと問い掛けてみた。

地下に在る先生の私室で、私はヴェルヴェットのソファーに横たわり沈んで、

退廃的なテディ・ベァを両腕で絞め殺している。


この似非少女趣味な熊の縫いぐるみは、私が望んで手に入れたものではない。

何歳だったか、私の誕生日にとある友人が以前贈与してくれたもので、

決して私は縫いぐるみを愛するような性質ではないことは、友人も重々承知していたはずだった。

(何故よりによってこれなのか、友人の選択動機は私には理解できなかった。)


寮の自室を出てこの先生の部屋を訪れる際、偶然に自分のベッド脇に放置しておいたこの縫いぐるみが眼に入った為、

無造作に、無意味に、そして衝動的に引っ掴んできたのだった。

(これを携えて夕暮れの廊下を歩いたのだが、妙に突き刺さる訝し気な視線を感じたことは気のせいだとしておく。)


もちろん先生に見せる為ではないし、敢えて云うならば、この陰気な地下研究室にあまりに不似合いな布張り玩具で、

彼が張り巡らせた拒絶的空気に少々歪みを生じさせてやろうと云う私の些細な悪戯心だ。


「壊れているのは眼だけかね、それはそれはおめでたいことだな。」


「どういう意味ですか、失敬な。」


私は戯けるように不敵に笑みながら、先生の皮肉も両手で受け取ってみせた。

先生の苦々しい表情は相変わらず愛しくてたまらなかった。

ソファーに仰向けに寝転がり、片脚をぶらぶらさせながら掲げるようにして持ったテディ・ベァ。

テディ・ベァは右足を掴まれているだけなので不安定に揺れている。


「私、スネイプ教授と私の2人だけが唯一存在出来る所に行きたいです。」


「そのようなおぞましい場所へ誰が行くものか。我輩は断じて断る。」


確かにおぞましいかもしれない。しかし今は上辺だけは取り繕っていてあげるけれど、

何時か私のこの狂気に達しようとする愛を思い知らせて差し上げよう。

(貴方が云うところのおぞましさをもって、私の深い愛をその身に滲みて味わうがいいわ。)

一度踏み込んでしまえば快楽を伴って、貴方の全てと、私の全てを喰らい尽くしてくるに違いないと、私は思う。


「断ったところで、どのような狡猾な手段を使ってでも無理矢理連れて行きますけれど。」


私には、彼が武器として振り翳す減点も皮肉も罵倒も一切通用しないのだ、

と、誇らし気に宣言する代わりに、余裕を思わせる笑みを讃えながら駄目押しをした。

テディ・ベァは私の片手に右足を掴まれ、もう片手に首を絞められている格好のまま宙に漂っている。

私の思っていた通り、このファンシィな布張り玩具は薄暗い地下室の天井と見事なミスマッチを醸し出した。


「貴様の気違った言い分はもう聞き飽きた。

 いい加減、まともな事を云う練習でもしていたまえ。」


その声音だけでもうんざり度はもちろんはっきりと感じ取れてるよ、と私は内心頷きながら、にやりと笑う。

そしてもう一言だけ、彼に不敵な言葉を捧げてみせようと口を開いた。


「そんな事いっ・・・・・・」


ふいに私は、思わず言葉を失い、黙り込み、眼を見開いた。

続けようとした言葉が、中途半端に途切れてしまった。

両手で掲げたテディ・ベァもそのままに、ひたすら何処をともなく凝視している私を、先生は訝し気に窺う。


私はそれ以上何も考えられなくなって、しっかりと眼を開けて「見る」事しかできなくなってしまった。

気付いたのだ。

うっすらと、知らないうちに新たに重なる網膜の映像に。

先生の声も耳鳴りも脈拍も、一切の音が私の感覚世界から消え失せて、

言葉を飲み込んだ私に対して、眼前に重なる脆弱な映像だけが「本質」と「真理」を主張する。


テディ・ベァをぐっと握り潰し、中綿を捩れさせる爪はしっかりと食い込み、爪も指も白く変色していた。


「まったく、今度は何だ、。」


何処か諦めたようにそう云う、彼の愛しい声だけは、だんだんと私の頭の中によく響いてきた。

しかしそれに対して返事を返せるかどうかは別で、暫く私は口をきくことが出来なかった。


ソファに仰向けに寝転がった私の視界には、琥珀色のテディ・ベァが掲げられ、背景には薄暗く煤けた天井。

そうして例によって、それにかさなるように透明のフィルムは全く異なる光景を重ねる。

その、景色。

残酷な迄に美しい、私が心底望み手を伸ばした、まさに理想郷の姿だった。


荒れ野。

枯れ草は薄茶色に乾燥し、風化しかけた白くかさかさした硬質な地面を覆っていた。

所々色褪せた黄緑色が見えるけれど、花等の鮮やかな色の存在の無い、灰色が降っているばかりだった。

荒れ果て寒々とした広野はあまりに悲し気に風の音に哭いている。

無作為に点在する鋭利な岩肌は、きっと延べた私の手を無情に切り裂くことだろう。


あまりに寂しく、そしてその寂しさが絶対的に美しい、網膜の映像。

(そして私達の理想郷)


本来の視界にあるべきテディ・ベァと、大好きな部屋の暗い天井がどうでもよくなるくらいに、

私は深層から提示された、その、先生と私だけが在るべき場所に惹かれていた。


「おい、・・・・?」


「あ、はい・・・・何でしょうか。

 私ね、今、ようやっと見つけたところなんですよ・・・。」


私の歓びを抑えたようなうっとりとした掠れ声が、鉱石のように甘く張り詰めた空気を割り、

絶望的幸福の愛しさと先生への愛しさが混濁し、一つになり始める。

これが完全に溶け合ってしまえば、私はきっととんでもない情動を手に入れるかもしれなくて、気が気じゃ無かった。


(私、先生と私の2人だけが在るべき場所へ、私達が行くことを邪魔するのならば、たとえ神でも殺してみせるわ。)


動きを鈍らせる大きな荷物もチケットも要らないから、ただ私と私の愛したこのひとを連れて、

何処に在るかも知らない、あの死に向かうばかりの退嬰の原へ行きましょう。


(そして私達は抱き合いながら地に倒れ、風に晒され、2人きりで風化していく。)



私は価値を無くしたテディ・ベァを放り投げて、優雅に、荘厳に座している先生の元へ駆け寄った。

ふらつく足も、ぎりぎりと痛む頭も、眩む視界も、縋るように先生の前に跪けば、それが正常になる。

あぁ、私の全てはこのひとに委ねられているのだと思うと、背筋の神経達が狂い出す。


もはや私には世界の基準が先生しかいなくて、そしてそのせいで、

どれ程に狂信的に盲目的なむき出しの愛で彼を傷つけてきただろう。

けれど悲しいことに、彼のその痛みを思い遣り後退出来る程、私のこの気持ちは生易しいものではなかったのだ。


「貴方となら、何処にだって行けるけれど、私は貴方としか行きたくない場所があるの。」


跪き、脚に縋り、私は彼の、私を蔑むように愚かな虚勢を張る愛しい眼を見上げていた。

彼の眼には、底なしに闇の色が揺れていた。


(私は実は知っているのです、自惚れではなく、何も愛し狂っているのが私だけではないことを。)




疎むことを装った貴方の虚構を剥がせば、

貴方はいつか私と共にこの普遍の俗世を去るでしょう。




















Fin.




どこまでも不必要なものを省いた絶対世界への憧憬

(03.5.1)


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