切り裂きジャックは死んだ
真夜中のロンドンの中でも、最も人通りが少なく、最も灯の少ない、ひたすら静かな通りをそぞろ歩き。
人1人、犬一匹見当たらないので、きっと私を孤独死させようとして企み、皆で隠れているのでは無いか。
黒い沓の踵を鳴らして、墨の塊みたいな石畳を歩く。
切り裂きジャックさながら黒いロングコートに黒の帽子を冠ると云った出立ちで、
黒い革手袋を嵌めた両手をポケットに隠し、不審極まりない夜の異端者を演じる。
百数十年前かにこの静寂のロンドンを徘徊し、赤の温度を奪った殺人者も、何かを憶いながらこの石畳を踏んだだろうか。
醜い欲か、高尚な完成を求めてか、そんな現実はどうでもよい。
大切なのは、結果と憶測、少量の理想論でいい。
曇った夜天には星も月も、何一つこの手を照らし出してくれるもの等ありはしないけれど、
「彼」の手の平の中で冷徹に、妖艶に、白銀の刃が仄かな輝きを帯びていたのだろうと想像するだけで、
ざわりとする不思議な恍惚が背筋を掻きむしり、異端を演じている私を甘く痛く急き立てた。
カツーンカツーン
硬質な踵の響きに一歩足を踏み出し前進する度満足感を得て、行く宛ても何もないままに、よく見えもしない道を歩く。
暗闇の海を漂って見えない世界を見ようと、私は帽子の鍔の下で眼を見開き、闇を掴むようにポケットの中の手を握りしめた。
目指す先の無いそぞろ歩きと云うものは、何と無機質に私の憶いを浮遊させるのだろう。
住宅地から、様々な店の並ぶストリートへ、そこから田園へ、そして田園から寂れた町へ。
夕暮れ時、蝙蝠達が飛び回るのと同時刻に、私はロンドンの街を徘徊し始めた。
あえて魔法使い達のいる場所を避け、魔法と云うものの存在する世界を瞬き程も知らないマグル達の世界を行く。
これは少しの反抗心だ。
私の愛するセブルス・スネイプはマグルをあまり好ましく思っていないようなので、だから私は下らない街の他人達に溶け込んだ。
一応私の恋人であった彼が、もし私を愛しているのなら、私を愛したことを後悔するくらいに。
こんな下らない世界に溶けて崩れ落ちる私の残像を、それでも愛さなければいられない己を悔やむ程に。
見渡した街の、一人一人が自分の物語を演じる世界で、主役も脇役も交錯しては所詮無意味に大衆のコロニーを形成して、
自身だけを軸にしてぐるぐる周囲が回る世界だと信じ切ったままで何ができる訳でも無い。
彼等大衆は、顔を失いつるりとした仮面をかぶる、人形的な他人以外のなにものでもなく、無関心に私の眼球を過った。
私は捻曲がったやり方で気まぐれな彼の感情の撚り糸を手繰り、切れてしまわないように必死でこの手首に巻き付けている。
肉に食い込み、例え骨を断ったとしても、私は糸をただ途切れぬように撒き続けた。
不変であるはずのないものの時を止めようと必死に手を伸ばし、或いはまるで彼の研究室に並べられた保存瓶達のように、
色褪せもせずその存在を主張するように、鮮やかに彼の網膜に焼き付いて、深い深い後悔をさせてみせようと。
身を翻して嘲笑って、ずっと彼の背中を追いかけていた私を、今度は彼に追わせてみるのだ。
夕暮れの中で浅ましく哀れな欲望と願望に背中を押されて、何処へでも行った。
私は浮かれ果てた観光客達の為に控えている陳腐な馬車にも乗ったし、そこら中に溢れた無愛想なタクシーにも乗った。
様々な他人の乗り合わせる真っ赤な車体のバスにも、路面を走るレトロな電車も、
太陽からも月からも逃走を図った地下鉄にも、移動手段は問わないで、私は黒尽くめの異端者としてロンドン市内を徘徊する。
私の姿をさも滑稽な道化師でも視る様に、視線で私の存在を訝しがる他人達には見向きもしないで、ただ徘徊と思考とを巡らせるだけ。
彼のことをただ考えて、どうしようもない膨大な愛と狂おしさに息を削り、石畳を蹴った。
無心に目指してもいない場所へと向かい、知らない場所を横断する。
陽は、とうに暮れた。
蝙蝠達の飛び姿も、あまりの濃い宵闇に閉ざされて、時折羽音だけが震える。
賑わう街のネオンサインから逃げ、掲げられた街灯を避けて通り、人のいない場所へ。
私は何処へ向かう。
私は何を求む。
黒衣に身を包んだ私にあるのは、ささやかながら思想だけだったのだ。
やがて辿り着いた寂れた町外れに、私は吐き出された。
辺りには街灯一つなく、煌々と照る店灯もない、完全なる闇の住処であり、じんわりと何の光も見出せない夜に眼を見開いた。
私が厭ったもの達がない場所は、どこか悲しそうに風鳴りに踞る。
暗さに馴れた眼が、遠くにぼんやりとした薄い灯を視た。
等間隔に、ある敷地の一定範囲を囲むように、浮かび上がる白い焔が守っているのは恐らくは墓地であるらしい。
引き寄せられるように、首筋の震えと衝動に従って歩みを速めては、ただ真直ぐに小さな墓地と、それを囲む灯を目指した。
私の頭に浮かんだのはまるで苺ヂャムのような血糊をまき散らす、ありふれたB級スプラッタ。
墓に土葬された哀れな被害者と、恍惚に顔を歪めたであろう、栄光を掴んでいると信じきっていた愚かな殺人者。
闇に朧な白の大理石で作られた十字架、石盤。刻み込まれた文字は流石に読み取ることができなかったのだが、
低いフェンスと申し訳程度の錆びた有刺鉄線の囲いにそっと身を寄せて、闇の中で墓石を視ていた。
黒の皮手袋を嵌めた手でフェンスの金網を掴めば、滲み行く冷徹な温度。
そこで私は、私がずっと考え、想い続けていた事柄にたいして、初めて真面に眼を向けたのだった。
どれだけ歩いても振り切れない姿、それはこの夜の闇より濃い黒の人。
呻いた声さえもなかった事にされてしまうような、冷たい、私が恋い焦がれたひと。
『いつか迎えに行く。』
無慈悲な色をした列車の窓から、私はそう云った彼を、心底軽蔑したように見下ろしていた。
本当は軽蔑なんてしていなかったし、今すぐにでもこの化け物みたいな列車から飛び下りて、
少し苦々しい顔をして私を見送る黒衣の男に縋り付きたかったけれど。
『いつかって、一体何時なの?
そんな曖昧な言葉でわたしを永遠につかまえられるとでも思う?
きみが気紛れに私を求めた時、まだきみに私を捕まえる事ができるだなんて、そんな都合のいい事。
私がきみを愛していることを知ってて、そんなこと云うんだね。
狡い人だね、酷い人だね。セブルス。』
『・・・・・。』
私の声は多少震えていたかも知れない。
なんてことはない、ただの強がりにしかならなかっただろうから、彼は憐れむような酷い眼で私を見ていた。
自分の我が儘と、愛する彼の傲慢に、私がどうすることができるというのだろう。
私は愛しさの痛みに疲れて彼から逃げ出し、列車のシィトに身体を縛り付けた。
彼は私を愛していると何度も云いながら、闇に向かい、そして、私を守る為だと云い繕いながら、私を捨てる。
あまりに傲慢で、生温い愛情が、私の身体を強張らせた。
其の癖、いつか迎えにくるだなんて気休めを吐くのね。
『莫迦にしないで。私、そんな辛抱強くなんてないんだわ。
きみの迎え等、私は決して待ちはしない。』
『・・・泣くな。』
『泣いて等いません。』
『泣いているぢゃないか。』
『泣いて等いません。』
プラットホォムに溢れかえるざわめきもどこか霧がかかったようで、ぼんやりとして気持ちが悪かった。
イギリスの曇り空を、私は恋い慕っていたはずなのに。
彼が、私から世界の全てへの憶いを奪って、私は世界の美しさを永遠に失った。
見る人全てが一様に灰色に滲む。
私の視る世界の中で鮮烈に輪郭を形取るのは、もはや彼1人きりに独占されてしまった。
『いい加減にしないか、!・・・いつまでもそうやって、独りで強がっていろ!』
『えぇ。
迎えになんて、来ないでください。
来たら、私はきみを殺してしまうんだから。
えぇ、そうね、さようなら。』
力任せに閉ざした列車の薄汚れた窓は、蒸気に白く、彼の黒の立ち姿を永遠に消した。
私は泣かなかったのだ。泣いていない。
この先もずっと。
(最後に見たきみの顔ってば、嗚呼!なんてまったく情けないったらない!)
吐き気を我慢しながら、闇の中で私は1人フェンスにしがみついて踞る。きしきし鳴るフェンス、有刺鉄線が揺れていた。
私の上を、毒蛇でも這えばいい。毒蛇にすら彼の面影を重ねて、焦がれて嫌悪してしまうはずだから。
地に付き砂に汚れた黒いコートにも何の感慨も湧かなくて、ただ全てが黒く塗りつぶされた視界に貴方を見てしまう。
私は似非墓荒らしで、自称切り裂きジャックで、ただの無力な嫉妬深いおんな。
(されど私は彼を彼だけを愛した純粋無垢なおんななのよ。)
彼は、今はもしかしたら人を殺めているかもしれない、今はもしかしたら血の匂いのする身体のままで眠っているかも知れない、
今はもしかしたら正しいと信じて疑わなかった行為に対する罪の意識に嘖まれ、優しすぎた心を無惨に裂いたかも知れない。
私は、もし自分がその隣に居たとしたら、自業自得だと彼を罵っただろうか。
そして、命を賭してでも彼を逃がしてやっただろうか。所詮逃げられもしないだろう、あの深い闇から。
「・・・・いつかって、一体何時なの?」
もしも彼が迎えに来たら、私は本当に彼を殺そうと誓った。
そして私も、彼を殺めたのと同じ刃で私自身を終わらせてしまえばいい。
私が最初で最後に演じる殺人鬼。
彼を殺し、自分を殺し、そして、物語の結末はこう在るべきだと憶い、私は眼を閉じたい。
見上げた夜天は闇雲に覆われて、私が途切れ途切れに歌う声を広く響かせた。
吐き出した古い歌は、柔らかな褥の中で夢に濡れる人々には届かない。
誰にも。
あの人にも。
私は踵を鳴らして歩く。真夜中のロンドンを徘徊する異端者を演じて。
Fin.
今ではもう きみの姿も見えないのに
(03.4.12)
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