果実の滴り















はある日、奇妙な生き物をその両腕に抱いて私の部屋を訪れた。

その奇妙な生き物は、彼女の両腕にすっぽりと納まるくらいの大きさである。

真っ白いタオル地の布にくぅるりくるりと丸め込まれて、その隙間から覗くぴんく色の生々しい色。

小さいが、それはにんげんの2本の手を形作り、小さいが、それはにんげんの1つの顔を形作っていた。


「何だ、其レは、」


自分が厭そうに顔を顰めて一睨みしてやるも、彼女は相変わらず平然と優雅に贋もの紛いに微笑みつつ、

穏やかな独特の、しかしありふれた声で一言戯けてみせる。

揚羽蝶のふりをする醜い蛾のような彼女の戯け癖が、まるで自分を莫迦にしているようで嫌いだった。

しかし、事実彼女は悪趣味な事に、私のそうした不快感を楽しみわざとそうしている事は私とて知っている。


「スネイプ先生とわたしのこどもですよ。どうですか、わたしにも少し似ているかしら。」


「ふん、虚言癖の子娘め、」


「失礼ですねェ、私が云うのは何時だってほんの可愛い冗談に過ぎませんでしょう。

 それに、こんな"子娘"にいちいち腹を立てていては身体が持ちませんよ、教授。」


ねぇ、と、喋りもしない、私にとっては皺々の醜い生き物にしかみえない嬰児に彼女は話し掛けた。

嬰児は眠っているのか、鳴き声ひとつ洩らさず、黙ってに抱かれるがままになっている。

唯一露出された小さな顔と小さな手が、何ものかの酷く生々しい「現実味」を帯びていて、厭な気分だった。

(現実味とは云ったが、それは決して自分と彼女のこどもであるという意味ではない。もっと別の次元での「現実味」である。)


一体何故彼女は斯様な生き物を抱いて私の部屋等訪れたのだろうか。

私が斯様な生き物を寵愛し可愛がってやるとまさか彼女も思った訳では有るまいだろうに。

常日頃から得体の知れぬ気味の悪いおんな(そして、しかしながら厭う事の出来ない不可思議な存在)だとは思っていたが、

彼女はさらに私のこの奇妙極まりない認識の溝を自主的に深めようとするのである。


眠った侭の静かな嬰児緩やかに揺らしながら、暫く其レをあやしていたが、やがてちろりと視線だけで私を一瞥すると、

目元を少し歪めるだけの極めてささやかで、そして厭らしい微笑を私に向けた。


「"結局、その醜い生き物は一体何なのだ、"」


彼女は、先程から私が云いたいけれど咽頭の奥に押し殺して云わなかった台詞をにやりと美しく笑いながら代弁した。

私は内心どきりと心臓の奇怪なざわめきを感じたが、表情や態度には微塵もその素振りを出さずに、彼女を侮るように一瞥する。

私は別段そういうつもりではないのだが、恐らく彼女の事だから私のこの一瞥さえ虚勢だと捕らえるのだろう。

こちらの意図が届かないことに関してはわざわざ彼女の認識を修正するつもりもない。

何故なら、私の意図を認識してもらおうとするつもりもない。無駄な思惑を彼女が素直に受け取るはずもないのだ。


「・・・って、顔をなさっていますよ。

 えぇと、此れはですねぇ、乳飲み子です。」


そんなことはわかっている。答えならぬはぐらかされた答に、無性に苛つきが募る一方だった。


「先生、子供はお好きですか?」


「好きなように見えるかね?」


嬰児を抱いた彼女が自分に近付こうと足を踏み出したので、向こうヘ行けと云わんばかりに手を数度翻す。

そんな私の様子を見て、歩み寄る事を諦めた彼女は俯き気味に少し苦笑のような笑みを浮かべて、

私と彼女の間にある黒の皮張りのソファにそっと腰を降ろした。


嬰児を抱き包む手の緩やかさはそのままに、ふと眉根を寄せて、薬品の匂いは好きですけれど、皮革の匂いは嫌いだわ、と云う。

お前の好み等知った事か、と、私が態度で表すも、彼女は極自然に涼しい顔で無視を決め込んだ。


「まぁ、お好きなようには全く見えないですけど。

 赤子でも、泣き喚けば五月蝿いと云う理由で容赦なく減点でもなさりそうですしねぇ?」


くすりと小馬鹿にしたように小さな笑い声を洩らし、皮肉を云う。

初めて会話を交わしたばかりの頃から、の性格はあまり変わってはいないが、皮肉の饒舌さに於いては変わったように思う。

エスプリに富んだ皮肉、もともとは彼女に対しての自分の発した警告だった。

それに怯むどころか、彼女は其れを喰らっては自らの血とし肉とし、今度はそれを私に返そうと云う。


「その嬰児が何者か等我輩には興味はない、早急にこの部屋から出ていき給え。」


「この児が何者か、先生に興味はなくとも関係は大有りですよ。

 だって先程も云ったように、この児は先生とわたしの児なんですから。」


「頭の弱い可哀想なミス、どうやらその妄想癖故に会話を成り立たせることすら出来ぬようですな。」


「そうですね。嗚呼、本当にわたしってば可哀想。妄想だと云われて信じていただけないんだもの。」


「いい加減にしたまえ、貴様の悪ふざけ如きに時間を割くつもりはない!」


苛つきも限界を迎え始め、声を荒らげて彼女を制しようとするも、聞く耳持たぬ彼女は穏やかに腕を揺らす。

此れ程私が大きな声をあげて一喝しても、眠った侭泣きもしない嬰児は、ひたすら世界と切り離されて平穏を維持している。

切り離されているのは、もちろん其の児だけではなく、其の児を抱くも同じことだ。

一体如何して彼女はこうも美しく、忌わしい棘を備えて平然と確立していられるのかと、無意味な怖れを抱きそうになる。


「ところで、」


何事もなかったかのように云いながら、ふと彼女は、抱いていた嬰児をその膝に寝転ばせるように置いた。

その手つきは丁寧ながら、不思議と、どこか物を扱うような温度の無い突き放した行為に見えた。

彼女は、其の児を包んでいた柔らかなタオル地の布を解きはじめる。


「この児、ちっとも泣きませんでしょう?」


そんな言葉を少し嬉し気な響きを含ませながら云い、嬰児の纏う着物を丁寧に引き剥がしていった。

やがて露になった、新生児独特の、やや濁りを見せる赤味が強いぴんく色の護謨の様な膚が露になり、

それを見た私は背筋を駆け巡る冷たさにぞくりと粟立ち、

そうして、この時、私は始めて彼女を心底怖れた。


私は強い歩調で即座に彼女に歩み寄り、彼女が穏やかに優雅に膝に乗せた其の児を奪い取るようにして抱き上げると、

胸部に手を当て、それから鼻孔と口唇に手を当てた。

ぐにゃりとした感触は見た目通り護謨のようで、しかし弾力が無い柔らかな皮膚で、

生まれたばかりの子供にしては、それはとても有り得ない温度しか有していなかった。


体温の低い自分よりも、温度の低い嬰児がいるか否か?

斯様に揺すっても目覚めぬ嬰児がいるか否か?

胸部が上下せぬ嬰児が、生きているか、否か?


、これは、一体どう云う事だっ・・・!?」


片腕でだらりと項垂れる児を掴み抱いたまま、もう片腕での襟首を掴み上げた。

足先が少し浮くくらいに引き上げた彼女は、其れ程力の有る訳では無い自分の片腕で持ち上げられる程、実に軽く感じられた。

少女の様に無邪気な憐憫を讃え、少し苦しそうな表情で私を見上げる瞳は、おおよそ平生よりもずっと光と云うものが無い。

(実際彼女の年齢からすれば少女に過ぎないが、底の計り知れない彼女を"少女"と呼ぶつもりは、私は無い。)


ケホッ、と、声を上げられない事を控えめに主張した彼女に、少し我を取り戻した私は、襟首を掴み締め上げた手を緩めた。

されるが侭になっていた彼女が、襟首を掴む私の手に、そっと彼女の冷たい両の手の指を這わせた。

冷たさのせいだけではない、彼女に触れられる事への嫌悪感を覚えて、彼女から手を離し、絡み付かんとする指を振払った。


「ふふ、そんなに怯えないで下さいよ、スネイプ先生。

 その児ね、あんまり泣き喚いて煩かったものですから、少しお仕置しただけですよ。

 だってその児が泣いて煩くすると折角先生に逢いに行っても先生に迷惑がかかってしまうし、

 わたし、先生に嫌われてしまったら、生きていられないもの。」


そう云って、はにこりと無垢に微笑んだ。

それがこんな奇怪極まりない状況下での笑みで無ければ、少しは彼女に対して好感を覚えたかもしれない。


身動き出来ずに、だらりと嬰児を抱いて立ち尽くす私から、彼女はそっと嬰児を取りかえし、

もう一度ソファに座り、膝の上で、丁寧に着物を着せていく。

その手つきは、やはり、変わらず温度の無い突き放した行為にしか見えなかったが、其の理由は既に明白であった。


改めて、彼女は冷たい嬰児をこの部屋に訪れた時のように大事そうに抱くと、立ち上がって私の眼を視た。

私は少しの怖れ、怒りが混じった眼で彼女を睨んでいるのであろう。

は、光の無い、夜の闇よりももっとずっと濃密な深い暗黒色の眼をして私を見据えている。


しかし、やがて彼女はそれまでとは打って変わって子供っぽい苦笑いをして溜め息をついた。

不思議な事に、その途端、緊迫して窒息するような痛い雰囲気を棘のように感じていた、この空気が溶けた。


「はぁ、・・・・もう、やだなぁ、冗談ですよ、先生。

 コレ、本当の"こども"じゃないんですもの。」


そう云って、彼女は両手を離した。

嬰児は、落下した。

ぐちゃりと音を立てて強かに床に打ち付けられた、

私が嬰児だと思っていたものは、

潰れて、甘い匂いを漂わせた。


そうしてタオル地の布やらの着物に包まれたまま潰れたものは、

毒々しい赤と黄色い果肉を見せつける、幾つかの果実だった。


「ママが送ってくれたのだけれど、私、林檎って好きじゃ無いの。

 林檎が好きなのは姉さんの方なのに、いつも間違えるんだもの、厭になっちゃう、」


しゃがみ込み、潰れた林檎を一欠片つかむと、柔らかくなった果肉をぐちゃりと握り潰す。

綺麗に伸ばされた少し尖った爪が果肉に食い込み、手首を伝い滴る果汁が袖を汚したが、

彼女は全く気にする様子も無いまま、握り潰した果肉を再びタオル地の布に投げ捨てた。

そうして立ち上がり、私を見上げて笑いながら云った。


「わたし、云いませんでしたっけ、変身術は結構得意なの。」

「思いのほか上手く魔法を掛ける事が出来て、少し嬉しいわ。」

「ネェ先生、吃驚しましたか?」


彼女が手品の種明かしをするように呆気無く一連の事実を告げてしまうと、途端に秘密めいた妖しさも何も消え去った。

饒舌ににこにこしながら云い募る姿を視ていると、酷く胸がむかついた。


「70点の減点だ、ミス。教師に対する誠に不謹慎な偽証、悪びれない態度は悪質且つ・・・」


「やっぱりわたしは先生は愛しておりますけど、先生との子供は欲しいなんてこれっぽっちも思いません。」


云いかけた言葉を完全に無視して遮り、そんなことを云う。

睨みつけたところで彼女がまったく頓着しないことはわかっていながら、それでも睨み付けずにはいられなかった。

すると、いつもと違い、彼女はそんな睨みつめる視線を受け流すのでは無く、

胃液に泳ぐような緩やかな消化をもって、私の向ける視線に込められた感情全てを食べ尽くす。

彼女は笑みを収め、私を見上げた眸は、不安定で、受動的で、また、挑発的でもあった。


「アレを先生とわたしの子供だって云った事、間違ってはいないんですよ。わたし嘘は吐いていないんですよ。

 わたしが、先生を、憶いながら創ったんですからね。」


彼女は少し背伸びをして、両手で私の顔に触れた。

先程握りつぶした林檎の果汁でべとつく感覚があまりに不快だったが、冷たく甘ったるい馨りを振り払いはしない。

どちらかと云えば、認めたくは無いが、動けないでいたと云う方が正しいのかも知れなかった。


「先生の面影を残した子供なら、愛せるかと思ったけど、やっぱり駄目、先生が"死んだ嬰児"をわたしから取り上げて、

 わたしを責めた姿を見てたら、先生の気持ちを私から奪う"嬰児"がとてもとても憎らしかったんです。

 もし仮に先生がわたしを愛して下さって、子を成す事ができたって、どのみち、わたし子供を殺してしまいそう。」


立ち尽くす私に寄り添い、縋り、腕を回し、私の纏う黒のローブに頬擦りをする。

それは裏の無い(ように見える)酷く甘えた仕草だった。


私は、しかし、それでも、馬鹿馬鹿しいと冷淡に告げて、彼女の脆弱な身体を突き放してやることが出来なかった。

見上げてくる常闇の狂気が滴り落ちる視線を、振払うことすら。

そうしては、果実の味のする甘く冷たい指で、舐めるように緩やかに私の唇をなぞる。



その近くで薫った果実の甘美さに、喉の乾きを憶えた時、

私は皮肉にも、吁、もう戻れないのだと悟った。



















Fin.




 

魅せて壊して無邪気な確信犯

甘い滴りを あなたはもう手放せない

(03.3.17)

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