シトロン














この国の夏の暑さも、祖国ほどひどく蒸しているわけではない。

とりわけ雪国に育った訳でもなく、南国に慣れ親しんでいた訳でもない私としては、

この暑ささえ少し過ごしやすいくらいだと思ったのだった。

体感温度と云うものに、私は人よりも頓着しないせいでもある。


廊下を歩きながら、薄っぺらい教科書をひらひらさせて、喉元めがけて自分を扇ぎ倒せば、

髪をわさわさと揺らして温い風を浴びた割に、何だか余計に体温が上がった気がした。


吁、こうして暑さに惑わされて私達は、右往左往しながら無意味な事象に足を掬われるのだろう。

そう考えると、何だか巧妙な夏のレトリックに上手く騙されている気分になってくるのだ。

騙されていることを知らない内は善い、そう考えて熱い溜め息をつきながら、

とりあえず教科書で扇ぐという無駄なことに体力を使うことを中止した。


広い廊下の隅っこを歩きながら、天井近くにくり抜かれた窓を仰いだ。

日射しはしとしと降り積むのだが、それでいて空は明るく曇っている。

雲の切れ間から光の帯がしなだれるわけでもなく、ただ取り敢えず明るい曇り空の日だった。

生ぬるいようなそんな天気が変に陰鬱で、じとりと湿る額に重なっている髪を掻きあげた。


「うわっ」


「え」


無感動に驚いた時には既に、私は冷たい廊下の床に、如何にも半端な体勢で横様に寝転んでいた。

軽く身体を打ち付けたけれど、そんなに痛くは無い。

気温に気をとられて軽くトリップしていた私は、急激な視界の変容に付いて行けず、

眼を開いたり閉じたりしつつ、身体を仰向けに直した。(これで楽な体勢になった。)


「すまない、君、大丈夫かい!?怪我は?」


何を慌てているんだ、と、ふと考えたが、よくよく思い直せば、

必死に私に謝り、暢気に寝転がったまま動こうとしない私を助け起こそうとしているこの人、

ルーピン教授が、曲り角で私にぶつかったという出来事が、数秒前の出来事。


起き上がらなきゃ駄目かな、私この心地よい迄に冷たい床の誘惑に勝てそうもないのです。


「おや、だったか、本当にすまない、つい考え事をしていたものだから・・・。

 どこか、怪我でもあるのかな、痛むかい?」


改めて自分を落ちつけてから、ルーピン教授は過剰な程に謝罪して、私の怪我の有無を察しようとしていた。

ぶつかり、重量の違いから私が床に落ちただけのことで、怪我迄心配する教授はとても律儀な人だと思った。

これが魔法薬学の権威、某教授であれば、気を付け給えとこちらの非を問われるところであるだろう。

(まぁ非を問われたところでどうするわけでもないが。)


「御機嫌良う、ルーピン先生。

 怪我なんてありませんよ。立ち上がれるんですけれどね、床が・・・・」


「床が?」


「冷たくて気持ちいいじゃないですか。」


「・・・・・あぁ、そういうことか。

 うん、まぁ、気持ちは分からないでもないが、起き上がった方が衛生的だと私は思うけれどね。」


ルーピン教授は、お得意の困ったような柔和な微苦笑をしてみせた。

私は、極めて当たり前のように紳士的に差し伸べられた教授の手を遠慮なく取らせてもらうと、

しかたなく起き上がり、汚れたローブをはたはたと払った。

そうして、足下の薄っぺらい教科書を拾う。


ふと、床に散らばった羊皮紙に気付いて、私は無言で教授の落としたそれらを拾い集めるのを手伝った。

生徒のレポートか何かだろうか、赤い洋墨で丁寧に添削された跡が見て取れる。

流れる細い文字を見て、この人は案外几帳面なんだろうかと何気なく感じた。


「あぁ、ありがとう、ごめんね。」


ようやく集め終わった羊皮紙の束を渡すと、教授はまた少し薄く微笑んだ。

疲れたような顔をしているものだから、その笑みの薄さが存在の影を少し希薄にしている。


「先生、また少しお痩せになりましたね。」


「そうかな?」


短いその言葉は少し素っ気無く、誤魔化して突き放すニュアンスを感じ取れて、むしろこちらが心苦しい。


教授のひた隠しにしてきた引け目の理由も私は何となくは知っているが、

まさか面と向かって、貴方は世間に白い眼で視られる化け物ですかと尋ねるような真似はできない。

こういう気持ちが互いにとってのボーダーラインなのだ。


人狼であっても先生は先生だ、なんて、如何にもらしい慰めは偽善者くさくて私にはとても云えない。

一介の生徒であるだけの私に、悪戯に教授の古傷に今更爪を立てて、理解者面をどうして曝せるだろう。


そんなこともあって、私は私で、教授は教授で、お互いがお互いに気付いている。

乃ち、私が教授の「体質」を知っていること、教授が私の「気付かないふり」を知っていること。

そういう基盤をもってそれらを暗黙の了解としているのだ。


しかし、その一見完璧に見える相互の了解にも、多少の認識のズレがある。

それがつまり、彼が先程発した、素っ気無くて誤魔化し突き放すような声音だ。


臆病さ故か、もともとそんなに親しくもない私への当然の不信故か、

互いの間に横たわる暗黙の了解を承知した癖に、彼はそんな態度で、謙虚な攻撃性を私に感じさせるのだ。

余計なお世話かも知れないが、こちらとてようやく馴染んできたこの教授を慕いもしているし、

それなりに信頼をもって接しあっているつもりだったのだが、この信頼は未だ一方通行だったらしい。


「私は一介の普遍的な生徒ですけれど、先生の授業は興味深くて好きです。

 先生を"いろんな意味で"信頼しているんですけどね。」


一見脈絡のない、私のこの少しだけ切実な台詞も、きっと彼にとっては重荷になるだけなんだろう。

(もしかしたら、この推測さえ傲慢な憶測でしかないかもしれない。)


少しだけ溜め息をつくように息を吐いた後、

ルーピン教授は教師らしい顔と声で、私に云った。


「・・・・じゃあ、私はこれで失礼するよ。

 ぶつかってしまって悪かったね、怪我がなくて本当によかった。」


"いろんな意味で"という言葉に込められた私の意図がきちんと適切に伝わったかどうか知らない、

ただ彼はくたびれたローブを翻して、自室へと歩みを進めて行った。



私はその後ろ姿を暫く見ていたが、突き放され置き去りにされるような錯覚を感じたので、

つい、その背を追って彼の教授の後をついていってしまった。














「何か私に質問でもあるのかな。」


ルーピン教授は、後をついてくる私の気配を感じながらも、結局自室の前に来る迄、

私を敢えて無視するかのように黙々と歩みを進めていた。

自室の前に到着してから、彼はようやく私に向き直って微笑みかける。


作り笑いじみたところのないその笑顔だからこそ私は憎らしいような気持ちに駆られる。

なんて自然で上手で無意識な嘘をつくんだろうと、どうも私は勘繰ってしまうのだ。


羊皮紙の束を少し抱え直している教授を見ないで、両手の塞がっている教授に代わり、黙って扉を開けてやった。

初めて気がついたように彼は、あぁ、ありがとう、と云って部屋に入った。

私は扉の敷居の外側で、入室の許可か帰れと云う命令かを待っていたのだが、

教授は何事もなかったように眼を細めて私を手招いた。


「まぁ、そこに座っていて。何か冷たいものでも飲むかい?」


「はい、お言葉に甘えて、頂きます。」


その辺りに転がっていた椅子に腰掛けて、奥の部屋に消えた教授を待った。

しんとした涼しい室内の中にいて、ふと汗がまとわりつく皮膚の感覚を、再び思い出した。


涼しい室内の黙った空気、窓から毀れる狂ったように明るく曇る空。

この部屋で感じる感覚情報は、他の場所と何の変わりもないはずなのに、何処か穏やかな寂しさの匂いがする。

ルーピン教授は月に1度、この部屋で一体何を憶い、床に伏して毛皮に覆われた身体を丸めるのだろう。


其処迄考えて、少しハッとして眼を閉じた。

私は踏み込んではならないラインを越えた追想をしてしまった、そんな罪悪感に背中を掻きむしられた。


(でも、ライン向こうで何かが美しく手招きする。)


「どうかした?」


奥から飲み物を携えて出てきた教授は少し不思議そうな顔をして私を見た。

彼は砕いた氷入りの玻璃洋盃を2つ、それと透明な月色をした、冷たいシトロンの入ったカネット瓶を抱えていた。


「いいえ。何でも。

 やっぱり夏は暑いんだなぁと思いまして。」


「はは、何だい、それ?」


愉快そうに笑いながら、教授は玻璃洋盃にシトロンを注いで私に手渡した。

曹達水も加えてあるらしく、洋盃に細かい沫が付着し、弾けるように消えていく。

一口飲んだその液体は、何処か懐かしい、いい加減なくらい爽やかな酸味だ。


「先生、窓を開けてもいいですか?」


「ああ、もちろんいいよ。」


私は軋む鍵を開けて窓を開くと、窓枠の隅にシトロンの入った水滴に濡れる洋盃を置き、自分も窓枠へ腰掛けた。

窓から覗き込むように下を見遣れば、それはそれは、私は地上からとても遠いところにいる気がした。

雲に覆われながら奇妙に「晴れ」た空が少し眩しく、温んだ風がますます暑さを感じさせた。


「危ないよ、。」


「大丈夫です、もし落ちたとしても、少しだけ悲しんでくれればいいもの。」


教授、貴方がね、そう思いながら私は徐に煙草を取り出し、火を着けた。

シトロンの味と、煙草の苦さが交差して、混じりあい、私を満たす。

教授は少し顔を厳しく顰めたが、結局は何も云わなかった。


「先生は如何、」


きっと要らないと云うだろうなと思いつつ、煙草の箱を差し出すと、

意外にも教授は細い煙草を1本摘まみ上げた。その指は、こう云ってはなんだが、まるで枯れ枝のようで、

私はそこから彼の全ての苦悩を覗き見したような気分になり、ばつが悪いような気がしてならなかった。

無意識に眼を逸らした私に気付かないで、ルーピン教授は杖に灯した火で煙草に火をつける。


「・・・苦いね。」


「先生、甘いものが好きだものね。余計に苦くて仕方ないんじゃない?」


まったく予想を裏切らない顰め面をしてくれるものだから、私は笑った。

そしては、私は笑いを収めて云った。



「・・・・月1のお薬の方が、もっと苦いんでしょう。」



私の、確信犯ながら、ボーダーラインを踏み越えようとする言葉に、ルーピン教授は煙草を持つ手を暫し凍らせた。

酷いことを云っている。古傷を抉るようなことを云っている。彼の秘密を強引に暴こうとしている。

分かってはいても私は今この気持ちと言葉を止める術を知らない。


「もう内緒ごっこは止めにしませんか?」


「何のことかな、?」


「ありふれた誤魔化し方をなさるんですね。

 誤魔化し切れないその古傷は一体どうなさるおつもりなの?」


「・・・・参ったね・・・。

 やっぱり、君は気付いていたんだね・・・。」


寂しそうに笑うふりをしないで欲しいというのは、所詮は私の独りよがりだ。

でも、嗚呼、そんなありふれて使い古された白状の言葉等私が求めていたとでも思うのだろうか。

幻滅と悲しさが瞼の裏側で翠色の光の粒となり蠢いている。


(でも、でも、所詮はそんなすべてが私の独りよがり。)


確たる眼に見える証拠などはないけれど、私は、ルーピン教授が私と暗黙のルール線上を歩いていたことを、

確実に知っているのだ。それは彼も同じこと。

しかし、今では、交わっていたと私が思い込んでいた「信頼」は、もはや架空の願望に過ぎなかった。


「先生、私は望まれるならば黙りもします。望むなら言いふらしもします。

 望むなら忘れもします。例えば忘却の魔法をさえも、ただただ受け入れましょう。

 なにかを無理強いするつもりは毛頭ないのですから。」


架空の信頼を築き上げたのは、私ただ1人であること。

あまりにも一方的に、無関心を装って求めた教授の特別な信頼。


一介の生徒に過ぎないと諦め云ったのは、私の方なのに。


「・・・・、私が怖くないのかい?」


ありふれた言葉を云わないで。(独りをもって、私を突き放さないで。)

私は飽きる程そのことにたいする教授の怖れと躊躇を、彼の憂えげな眼に見てきたのだ。

彼自身気付かないくらいの僅かな嘆き、そして諦めに、私はずっと気付いていた。


「・・・・私は、先生が思っている以上にたくさんのことを知っているつもりだったのよ。

 そして多分、先生もたくさんのことに、気付いてくれていると、思いたかったわ。」


煙草を持っていない方の手で顔を覆い、私は項垂れた。

シトロンの氷が弾けて、煙草の煙は揺れて、空は相変わらず明るい曇り空。


(だから、ねぇ、生温い風なんていらないのよ!)






「ボーダーラインを、踏み越えるべきじゃなかったのね。

 先生。ごめんね。」






私に視線を向けるルーピン教授から顔を背け、私は窓の外を見た。

涙が流れ始めた眼を閉じて、私は肺の奥底迄深く煙草を吸った。






















Fin.




 

優しさと愛すべきその弱さが残酷過ぎて。

(03.4.22)

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