愛しのヘリオドール 7
ある朝、所用でピオニー陛下の執務室を訪ねた私は、おや、と首を傾げた。
今の時間なら陛下はこの部屋で執務をしている筈なのだが、
足を踏み入れた室内には、悲愴な顔をした大臣さんが一人で佇んでいるばかりだったのだ。
こちらを振り返った大臣さんのあまりに不憫な様相の理由が厭でも察せられて、
私は思わず吐き出しそうになった溜め息をぐっと飲み込んだ。
例によって皇帝陛下はお出かけ中らしい。残念ながら、実にいつものことである。
心底困り果てた様子の大臣さんに、嫌々ながらも一応どうしたのかと問うてみたものの、
予想に違わぬ答えが微妙な苦笑とともに返ってくる。
曰く脱走してなかなか見つからない、急ぎの書類があるのに、と。
別に私が何かした訳でもないのだが、端から見ていて申し訳なくなる程、悲痛な様子で嘆かれた。
私はちょっと考えて、自分に出来る様なものであればなんとかするが、と申し出てみることにした。
と、余程切羽詰まっていたのか間髪入れずに、だったら御願いするよ!とばかりに、
躊躇無く即座に書類を渡して来る大臣さんの切り替えの早さと強かさに、私は若干顔を引き攣らせた。
ただ、申し出ておいてなんだが、多分私に出来ることは殆ど無いですよ大臣さん。
本当に苦労してんだなこの人…と生暖かい眼をせずにいられなかった。
そんな訳で、陛下の執務机を借りていやに座り心地の良い椅子に座し、
大臣さん指導の元、しどろもどろに普段なら私が扱わない類いの書類をもたもた片付けていた。
何とか昼過ぎには、急を要するもので、私にどうにかできるものは一応処理する事が出来た。
(当然ながら、陛下にしか判断できない案件が8割を占めていたので、大半がっつり残ってるけどね!
マジではやく帰って来てあげて陛下。大臣さんの胃がかわいそう。)
「何だか、返って手間を掛けさせてしまいましたね。」
そう云ってペンやインクを片付けつつ私が苦笑をこぼしていると、
そんな事は御座いませんよ、とにこやかに感謝の言葉を述べてくれる大臣さんの優しさが痛い。
云う迄もなく実際あまり役に立っていないからである。
これなら逆に陛下捕獲の援護をしに行った方がまだ役に立ったかもしれない、ともちょっと思ったが、すぐ却下した。
そんな無駄な労力を割くのは御免である。体力勝負の仕事は兵士さんの専門分野だ。
「…陛下は、普段これを全てお一人でこなしていらっしゃるのですね。」
見ているだけでうんざりする書類の束を眺めやり、何だか感慨深い気持ちになってしまって、ぽつりと呟いた。
しょっちゅう脱走してようが何だろうが、結局のところ、本当に仕事を放り出すような事は決してしない方だ。
そう云うところを考えれば、陛下は実際のところ至極真面目な方であるとも云えるかもしれない。
今日もまた適度なところで直に捕獲されて、いつも通りに戻って来るのだろう。
多分ピオニー陛下が本気で逃げたら、同じく本気を出したカーティス大佐くらいにしか捕まえられないと思う。
陛下の言動に関して、何処までが本気で何処までがポーズなのかを正確に見極めるのは、きっと私には不可能だ。
まぁ、後で仕事するからと云って、今脱走して良い、と云うものでもない。
やればできるなら最初からやればいいのに、とは、あの手の人間には最も無意味な言葉だ。
陛下のフリーダムさは伊達じゃない。
煩雑な仕事を文句云いつつもさらっとこなせてしまうスキルは尊敬するが、
誰にも見つからずに逃亡するスキルは果たして尊敬していいものだろうか、と、
机を眺めながら不毛な事を思案していると、何故か大臣さんがものすごく温かい眼で私を見ていた。
…何でそうなる。そ、そんな眼で私をみないでいただきたい。
寸でのところで眉間に皺が寄りそうになるのをぐっと堪えた私は、
努めて何事も無かったかのように視線を逸らしつつ、大臣さんに向けられていた視線を見なかった事にした。
如何に上手く自己暗示を掛けられるか、その真価が問われている。かもしれない。
「そ、それでは、私はこれで失礼致します。
陛下を見掛けましたら、御戻りになるよう御伝えしておきますから。」
失礼の無い程度にそそくさと退室した私は、
自室に向かいながらも腑に落ちない居心地の悪さに歩きながら暫し考え込む。
何なんだろう、こう、微笑ましいものを見る様な、子を見守る親の様な、
大臣さんの温か過ぎて居たたまれないあの反応。
実を云うと大臣さんのみに限らず、メイドさん達とか軍の方とか、
最近よく彼らにあの手の視線を頂く事が多い。
何と云うか、ものすごくむず痒い。
敵意や悪意を持たれるよりは遥かにいい事ではあるのだが、
しかしながらそんなに温かく見守られても逆に困る。
彼らの意図は何となく分かる。
最近になってようやく私と陛下が打ち解けてきた事を、彼らは殊の外喜んでくれているらしいのだ。
それはいい。
それはいいのだが、何と云うか、こう、そんな二人を温かく見守って行こう的な配慮が、
此処最近の私に余計な精神的ダメージを与えていたのであった。
陛下と穏便な関係を築くのは私にとっても国にとっても良い事なのは事実なので、
頑張って否定するような事でもないだけに、何だか余計にやりきれない気持ちにさせられるというこのジレンマ。
足早に自室に戻り、扉を閉めてからようやく我慢していた溜め息を吐き出すに至った。
厭な訳ではない、だが如何ともし難い、と云う複雑な気持ちを持て余した末、
結局投げ遣りに放棄して、私は諦観と共に大人しく自分の執務机に向かったのであった。
余談だが、この出来事以来、私はしばしば陛下の仕事を手伝うようになった。
正しくは、主に陛下の脱走に際して切羽詰まった大臣さん方が、私の方に泣きついて来るようになった。
使えるものは皇妃でも使え、と云う事らしい。
彼らの苦労ぶりと強かさに泣けてくる。
マルクト帝国的にこれで本当にいいのだろうか、と、国の重要機関の案外いい加減な現状に一抹の不安を抱いた私だった。
…この有り様を「一抹の不安」で済ましてしまった私も、案外毒されているのかもしれない。
(11.6.11)
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