愛しのヘリオドール 4
さて、これからが先行き不安なまさかのマルクト皇妃生活の幕開けだ。
何の冗談かと未だに思う。
見も知らぬ星に転生した挙げ句、貴族なんて肩書きを背負わされ、預言に振り回され。
フィニッシュが皇妃だ。あり得ない。
あり得ちゃったのがやり切れない。
延々続く言祝ぎや挨拶の言葉が、まるで街の水路を止め処なく流れる水の如く、
私の耳を右から左にさらりと駆け抜けて行くかのようだ。
婚礼の儀の翌日。
それは、若干の現実逃避から始まった。
私の皇妃としての最初の公務は、続々と訪れる貴族などの有力者達から述べられる挨拶を聞き流す事だった。
いや、本当は聞き流してはいけないのだろうが、しかし内容など無いに等しい口上が大半なのだ。
しかもまぁ其のレトリックの秀逸さと云ったらない。言葉の過剰装飾にも程がある。
そんな私の内心を押し流すが如く、近く遠く響いてくる滝音を背後にしながら、
壮麗な謁見の間にて、私はピオニー陛下の隣に設えられた皇妃の椅子に座っていた。
何とも自分の場違い感が否めず、どう考えても非常に落ち着かない気持ちにさせられて仕方が無い。
しかしそんな素振りを見せる訳にも行かないので、ひたすら無心を心掛ける。
さながらワイヤーロープの耐久試験である。
…強度にムラがあるので、あんまり負荷を掛けないで頂きたい。
ただでさえあれこれと覚える事が多過ぎて頭がぱーんっ!となりそうな所であると云うのに、
祝辞を述べに、次々と入れ替わり立ち替わりやってくる、貴族だの何だのと云う人達の応対をするのは骨が折れる。
人の顔と名前を覚えるのがあまり得意ではない上に、
段々顔も皆同じように見えてくるし、横文字の名前がなかなか地味に覚え辛い。
ミドルネームも含んだ長ったらしいフルネームなど、一度に覚えられる訳が無いのだ。
そもそも覚える気もあまり無い。
とにかくまずは家名さえ把握していれば大体乗り切れる。はずだ。と思う。
しかしながら、ただ挨拶をしに来ただけの者ならまだいいのだが、
キムラスカ人がよほど嫌いなのだろう、嫌々愛想笑いをしているのがありありと感じられる者や、
媚を売るのに全力を注いでいる強か過ぎる者など、何とも癖のある人達の相手をするのは、無駄に疲れる。
漸く人が途切れて自室に戻ってきた頃には、ソファの上には若干よれっと草臥れた私の姿があった。
私付きになったメイドさんは、(依然として何故か若干私に怯えつつも、)
余程私のぐったり具合を不憫に思ったのか、温かい紅茶をそっと出してくれた。
心の底から疲れていた私は思わず、気遣いが出来る人って素晴らしい、と謎の感動を覚え、
癒されついでに我ながらいい笑顔で礼を述べると、一瞬眼を丸くして驚かれた。その反応は心外である。
…そんなに私は貴族の典型みたいな気位の高い人間に見えていたのだろうか。しつこいようだが心外である。
彼女はすぐにはっとして気を取り直し、けれど先程よりも少しだけ目元を和らげながら丁寧に一礼して下がっていった。
それからも暫くは、新しい環境に適応する事に手一杯だった。
昼間は、謁見の間で陛下の隣に座って奏上を聞いたり、自室でちょっとした書類仕事などの公務を行ったりしている。
仕事内容自体は実はたいした事はないのだが、見知らぬ人間に囲まれて慣れない事をするのは、想像以上に精神を消耗する。
疲れを取る為にも、出来れば夜くらいは一人でのんびり惰眠を貪っておきたいなぁ、と正直思っていたのだが、
今の所、陛下があれ以来そういう意味で私の寝室をおとなうことは無かった。
まぁ、向こうもこっちも、とにかく今は忙しい。
率直に云ってしまえば、別に私としてはどちらでもよい。その辺りは陛下次第で任せる事にして適当に放っておく。
其の代わり、なのか何なのか、時折陛下がふらりと部屋に現れて、たわいない話をしていくことがあった。
しかもそれがまた、私の仕事が丁度一段落付いた時など、まるで狙ったようないいタイミングで現れる。
(一度、お仕事はよろしいのですか、と尋ねてみたら、意味の分からない満面の笑みで流された。…そういうこと、か?)
話の内容は特筆するべくも無いような、本当にただの世間話だった。
今日は良く晴れているだとか、何か困った事はないかとか、其の服はよく似合うなとか、其の程度の事。
陛下は話術が巧みなようで、当たり障りの無い世間話でも上手く会話を成立させてくれる。
しかし当の私はと云うと、まだどうにも陛下と云う人間との付き合い方を計りかねており、
一体何を話せばいいのやら、結局のところさっぱり分からないでいる。
そんな訳で、私は専ら質問に答えるか相槌を打つくらいのことしかできずにいた。
自慢じゃないが、私の社交スキルは低い。
陛下がこちらを気遣ってくれているのは明らかだし、まぁ仲良くしようぜ!と云うその心意気は有り難いのだが、
しかし感情の折り合いをつけるのに何処から自分の思考を切り崩したものかなぁ、と、私はまるで人事のよう思っていた。
自然に仲良くなった人といつのまにか友人になる、と云うのならともかく、
友人になった人と仲良くしていく方法について悩む、だなんて、何とも奇妙で滑稽な話ではなかろうか。
しかしその辺りの人間関係の構築は、気長にやっていけばいいだろう。
どうせ制限時間は「死が二人を分かつまで」だ。
焦った所でどうにもならないものはどうにもならないので、案の定まぁいいかでさくっと流してしまう私だった。
ドンマイ、陛下。
そんな私とピオニー陛下の関係を他所に、人の気持ちなど知った事かと云わんばかりに口煩い事を云う人々もいた。
何を、と云うと、まぁ主に世継ぎとかそんな感じのあれの事である。
彼らの気持ちも、分からないでもない。
三十代後半になっても駄々をこねてのらりくらり逃げてきた皇帝を、ようやっと首根っこ引っ掴んで結婚させたのだ。
そりゃあ彼らとしても早く心配事を片付けてしまいたいのだろう。
彼らにしても純粋に国を思う故であるとは私も理解している。
何しろ此の国の大臣さん方ときたら、アバウトな性格の私が思わず引くほど、真面目な人ばかりなのだ。
(上がああだと、自然と下がこうなるのだろうか。実にバランスの取れた涙ぐましい主従関係である。)
だが、幾ら彼等に悪気が無いとは云え、言葉を覚えたばかりの九官鳥の如く何度も同じ事を云われれば、
私の精一杯の笑顔が引き攣りがちになってしまうのも、仕方の無い話ではなかろうか。
多分、私は今、堪忍袋の緒の耐久性が何かの神様とやらに試されているのだ。そうに違いない。
沈黙は美徳とばかりに黙って何とか微笑を浮かべてやり過ごしながら、
(そんなに世継ぎが欲しいならお前が産んでみろ!とか無茶な暴言を吐かなかった自分超偉い。)
と、自分で自分を褒める虚しさったら無かった。
湧き水の如く溢れ出しそうなストレスを解消するには、誰かに話でも聞いてもらえれば本当は一番いいのだが、
生憎と私は此の国にはまだ友人と呼べるような人間もいないし、
誰を信用していいのかわからない以上、迂闊に言葉を吐く訳にも行かない。
(ちなみに、一応陛下は信用も信頼もしていい人物だと思ってはいるが、此の件に関しては話の内容的に論外である。)
私はまだまだ立場が不安定なのだ。
だからこそ今は隙を見せてはならない、嘗められてはならない。
何事も最初が肝心だと云う事だ。
(…メイドさんに何故か怯えられていると云う時点で既に躓いているとか、そんなことは断じて無い。と、信じたい。)
公務以外の自由な時間は、凡そ勉強に費やしていた。
そもそも私は元はキムラスカの貴族である。自国の事なら大体分かるが、この国の事についてそうそう詳しいはずもない。
この世界は、情報伝達手段があまり発達していないせいで、他の地域の情報がなかなか入ってこないのが難点だ。
まずは前提としてマルクト帝国と云う国自体の知識が欲しいと思い、私は宮殿の書庫にある本を読めるだけ読む事にした。
譜術の盛んな国だけあってその蔵書は譜術やそれに類する書籍が多かったが、
私は其れ以外の本、即ち歴史や地理、政治や経済や産業、はては観光ガイドブックまでも網羅してみたのだった。
…最後のはいらなかったかもしれないけど。(だが普通に一番面白かった。)
今グランコクマで女の子に人気の、「かわいい響律符を扱う雑貨屋」を紹介する記事には、ちょっと惹かれるものがある。
というか、そんな記事に思わず食いついてしまったせいで当初の目的をうっかり忘れるところであった。
基礎知識がそこそこ増えてきたのは良いとしても、公務に関してはなかなか覚束無いもので、
こういうのを地位に振り回されていると云うのだろうか、と遠い眼をしたくなる。
キムラスカでも一応貴族としての仕事はしていたけれど、
実際に権力の行使をしていたのは侯爵たるお父様なので、私はその手伝い程度に過ぎない。
そもそも私は特別優秀な訳でもなし、性格的に人の上に立つような仕事には本来不向きな人間である。
高貴なる義務を果たせない人間に貴族を名乗る資格は無い。義務あっての権利だ。
それでもしがらみに絡めとられて身動きができないのには、
何ともやり切れぬ歯痒さを実感させられたものだった。
そんな、私にしては前代未聞の頑張りを見せているものの、そうすべて順調に行く訳も無く。
公務にて既に何度か割ときわどい失態をしかけたりして、ちょっと本気でへこむこと、数回。
そしてその度に、未然に防いだり、後のフォローにまわってくれたりする大臣さん方の優秀っぷりに涙が出そうだ。
穴があったら埋まりたいくらいの勢いである。
決して望んでなった訳ではない立場だが、後戻りできないのに駄々をこねて見せたところでナンセンスだ。
ならば嫁いで来た以上、確と自分の義務くらい果たしたいとは思っている。
私は基本怠惰で不真面目だが、大人として最低限のラインくらい遵守する分別はあるのだ。(一応)
今回生まれて初めて来たマルクトだが、水の都グランコクマは文句無しに美しい街だった。
街中を走る水路には絶えず澄んだ水が流れ、広場に植えられた瑞々しい常磐色の樹々の下では人々が憩う。
建築物や街路は、様式や色彩が統一されており、どこも綺麗に整備されている。
さすがに首都の名は伊達ではない。
個人的にはむしろ、実家のあるバチカルよりもグランコクマの方が正直好みではある。
バチカルの荘厳な雰囲気も嫌いではないのだが、少々あの街は息苦しい。
縦長の階層構造によって示された、あからさまな視覚的階級格差が、私は少々苦手だった。
見下ろし、見下ろされることに必要性を感じないのは、私に現代日本の感覚が染み付いているからだろうか。
余談だが、例え高所恐怖症でなくとも、比較的高層に位置する侯爵家の屋敷から、ちょっと下は見たくない。
要するにだ、此の国に骨を埋めてやろうじゃないかと思うくらいには、愛着が持てそうなのだ。
メイドさん達も少しずつではあるが私に慣れてきてくれている。
大臣さん方も徐々に私を受け入れてくれている。
貴族院の人達は、…あー、まぁ、上手い事つまらぬ化かし合いにでも興じてみせようではないか。
ピオニー陛下とはまだ然程会った回数も多くはないが、
国を、民を、本当に大事にしている人だと云う事はよくわかった。
(…まぁやっぱりと云うか、執務はしょっちゅう脱走してるらしいが。
そんな陛下の脱走にもすっかり慣れている様子の宮廷の皆さんが、ちょっと涙を誘うなぁと思わないでもない。
慣れって恐ろしい。)
あと、これは比較的フレンドリーなメイドさんが、こっそり微笑ましそうな顔をして教えてくれた事なのだが、
私が何かやらかした時の為に、大臣さんにあらかじめ私のフォローをするよう指示を出してくれていたらしい。
(どうりで、大臣さん方が何故かいやに温かく私を見守り、激励してくれる訳だ…。)
裏でそんな事にも手を回してくれていたとは、
ピオニー陛下は意外と(と云うと失礼かもしれないが)細やかな気配りをする人だ。何とも面映い。
陛下に対して今すぐ愛情を持てと云われても無理なものは無理だが、しかしこういう辺り、人として好ましく思う。
国単位の大き過ぎる出来事に振り回されて見失いがちだったが、よく考えるまでもなく、私はとても恵まれている。
申し訳なく思うくらいに、恵まれているのだ。
(11.6.11)
SEO | [PR] !uO z[y[WJ Cu | ||