愛しのヘリオドール 13

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

此処最近、確かに少々不穏な空気が時折漂うのを肌で感じる事が儘あった。

 

多数決で決まった事案に対して、必ずどこかに反意を示す少数派が存在するのは必然である。

それは国民の絶大な支持を受ける陛下であっても同じ事で、

未だに其の命を狙う様な反体勢派も確実に水面下には存在しているのだ。

全く以て、権力の集まる場所と云うのは、欲望渦巻く末恐ろしいところなのである。

 

そう云った薄暗い話が、ぽつりぽつりと不穏を伴って表出し始めた頃の事。

私がマルクトに嫁いで、気付けば半年が過ぎていた。

前の世界の時間感覚が未だに抜け切らない私にとっては、およそ一年だ。

 

ついに先日それとなく陛下にも注意を促された私は、現在自主的に防犯対策強化月間に入っていた。

自分の身を護れるのは、最終的には自分だけ。

とは云っても私に出来る警戒などたかが知れているので、

なるべく一人にならないとか、変なもの食べないとか、変な人に近付かないとか、

小学生でも出来る様なしょぼい感じの防犯措置がせいぜいだ。

 

はっきりと、何がどう云う理由で誰がどんな人に狙われている、と分かっている訳では無いのである。

何となく、どことなく、不穏かもしれないしそうでもないかも、と云った本当にアバウトな話なので、

結局の所そのくらいしか出来る事が無いと云うのが本音なのであった。

過剰に警戒し過ぎれば逆に悪い方にも転がりかねない、と云うのもまた厄介な話だ。

 

杞憂であれば申し分無いのだが、今のところ何とも云えない。

標的が私であるとは限らなくとも、標的にされる理由は無駄に満載だったというこの残念ぶり。

そんな人気は嬉しくも何ともない。

 

此れ迄いろいろな好意や好奇や悪意や敵意に晒されつつ、

それでも割と安穏とした日々を過ごしていたので忘れがちだったが、私も一応責任ある立場である。

ノブレス・オブリージュなんて嘯く程の気概は無いにしろ、

権利なんて頼んでもいないのに勝手に押し付けられるものなので、

私は私の義務を果たすべく今日も今日とて机に向かって書類と睨み合うのである。

…仕事は遅いが。

 

脱走するけど仕事が速いのと、真面目に取り組むけど低速稼働なの、どちらがマシだろう、なんて不毛な事を考える。

何とも選び難いが、後者(自分)の役に立たなさを思うとかなり切ないものがある。

ついでに云うと某大佐なんて脱走しないし仕事もできるのだから優秀なものだ、人間性には大いに問題があるが。

 

「皇妃殿下、そろそろ休憩なさっては如何でしょうか。

 丁度お茶が入りましたところですので。」

「…そうですね。」

 

下らない事をぐだぐだ考えていたせいか、メイドさんに声を掛けられるまで彼女の存在に気付かなかった。

私は暫し黙った後、そっと細く息を吐いた。

ペン先を拭ってインク瓶の蓋を閉め、机の上にやや散らかり気味の書類を乾いたものから纏めていく。

 

書類と云っても、大したものではない。

何処ぞの貴族の何かのお誘いをやんわり断わる内容をしたためた手紙だとか、

そう云った直接政治には関わらない、けれど立場上必要な遣り取りの為のものである。

面倒だが放っておく訳にも行かないので、着手してはみたのだが。

「だが、断る!」と云う一言を、婉曲に曖昧に遠回しにラッピングするのは煩雑で仕方が無い。

 

執務室代わりに使っている小さな部屋を出て隣室に行くと、

ローテーブルの上にほわりと湯気を昇らせる紅茶と、お茶請けに小さな焼き菓子が用意されていた。

 

私がしばしその場に立ち止まってじっとテーブルを眺めていると、

どうぞ、と微笑むメイドさんがソファに私を促した。

私も彼女にささやかに微笑みを返し、少し疲れを感じながらも、

適度な柔らかさのソファに、務めていつも通りの動作でゆっくりと腰掛けた。

 

浅い溜め息を吐くと、お疲れのようですね、と私を労いつつメイドさんがティーカップを手渡してくれる。

鼻先を近づけると、ほんのり甘いヴァニラの香りがした。

私が甘い香りが好きなので、私付きの侍女さんやメイドさんはよくこの手のフレーバーティーを出してくれる。

 

ああ、いい香りですね。

そう云って笑おうとして、失敗した。

 

私が思った事が、事実であるとは限らない。

もっと別の、そう、別の事なのかもしれない。

けれど私だって二十年以上貴族の家に生まれ育ってきたのだ、それなりに思う事もある。

自分の勘を信じて正解だったと、後に冷や汗をかいた事だって、無い訳では無い。

 

だから私は、この甘い香りのする紅茶を飲む事は出来ない。

 

もしこれがただの思い過ごしであれば、と考えて、内心自嘲する。

けれど、残念ながら。本当に、残念でならないのだけれど。

警鐘は高らかに鳴り続けていた。

 

そうして私はティーカップに唇を付ける事無く、そのままそっとテーブルに戻した。

私は顔を上げたくなかったけれど、顔を上げなければならなかった。

 

「あ、あの、皇妃殿下、どうかなさいましたか?

 何か、お気に召しませんでしたでしょうか。」

 

焦燥を押し隠した彼女の声音に、諦観を覚えて自嘲する。

 

「…私が貴方に云っていい言葉など、きっと、何も無いのでしょうね。」

「何の、ことでしょうか?」

「…駄目ですよ、だって、貴方、手が震えています。」

「あ、あの、申し訳ありません、私、まだ新人で、緊張していて…。」

 

彼女の云う通り、彼女は最近出入りするようになったメイドさんだった。

私付きの侍女さんやメイドさん達は、私の事を「様」と呼ぶ。

そして、彼女だけは、私を「皇妃殿下」と呼ぶのだ。

だから何だ、と云う訳ではない、けれど。

 

「…残念です。とても、残念です。」

 

私は見たくなかったけれど、見なければならなかった。

私の傍らに美しい姿勢で立っている、可愛らしいメイド服のよく似合う彼女は、

微かに身体を震わせながら、強張った青白い顔をしていた。

口元は微笑んでいたけれど、眼も何とか細められていたけれど、

追い詰められた様な、怯えた様な色は隠し切れていない。

 

彼女は『その役目』には向いていない。

もっと平然と演技できる人であれば、私は恐らく気付かなかっただろう。『成功』していただろう。

詰めが甘いことだ、と冷静な自分が心の隅っこで呟いた。

 

「…私の、勘違いでしょうか。」

 

ぽつりと、自分が思うよりもずっと沈んだ声が云う。

私から出た声では無いみたいだった。

 

彼女は質問に答えてくれなかった。

その代わりに、俯く彼女の口から紡がれ行く言霊にはっとする。

人を呼ばなければ、と考えるほどの余裕は無かった。

 

全く、裾の長い服は動き難くてしょうがない。

慌ててソファから飛び退くように立ち上がって、私は咄嗟に彼女から距離を取る。

途端、破裂音とも爆発音ともつかない音と眩い光が、先程迄私の座っていたソファで爆ぜた。

 

皮膚がざわつくような、この感覚は知っている。

室内に満ちている音素の収束した動きだ。

私は中身こそこんなだが、身体は間違いなくオールドラント産なので、

感覚としてそういうものを少しは感じる事が出来る。

そんなもの、今は嬉しくも何ともないが。

 

彼女はローテーブルの傍、窓際に近い位置に立っており、

私は先程の譜術によって吹き飛ばされた残骸を避けながら、壊れたソファの後ろ側へじりじりと下がっていく。

 

平生ならぬ慌ただしい足音と、怒鳴るような大声で誰かが何かを叫んでいるのが聞こえて来る。

彼らが思ったよりも早くやって来てきてくれたことに喜びたいところだが、

けれど、此の状況を見ると、本当に安堵してしまっても良いものだろうかと暫し逡巡する。

尚も血の気の引いた顔を歪めて短い詠唱を今にも終えんとする彼女を、瞬きもせずに私は見つめていた。

 

私が迷ったのは一瞬だけだった。

この位置ならいけるだろう。

 

蹴破らん勢いで部屋の扉が開け放たれたと同時に、彼女の詠唱が終わった。

 

「来ないで!」

 

部屋に傾れ込もうとしたのだろう衛兵達に、私は振り返りもせずに短く怒鳴りつけ、

目の前に迫り、今にも弾けようとしている白い光に向けて両の掌を翳した。

 

身体の内側を一気に何かがざわりと駆け巡る様な感覚。

そして其れが収束してゆく先に、熱を帯びる両手。

途端、硬質な硝子のひび割れる様な音を伴い、翳した掌の先に半透明の大きな譜陣が、

まるで私を守る盾のように、一瞬で展開されるのを認識する。

 

その直後、私の視界は痛い程の眩しい光に塗り潰された。

 

 

 

 

 

 

 

 

「…あまり手荒な真似は、出来れば、しないでください。

 事を、そう大きくするのは、本意ではないのです。」

 

私は床に座り込んだまま立ち上がる事も出来ず、気を失っているメイド姿の彼女が拘束され、

兵士達によって、引き摺るように部屋から乱暴に連れ出されて行くのを見送っていた。

 

紙のように白いその小さな顔には、額から流れた血がべったりと付着していた。

其れを見ていると何だか心臓が痛くなったけれど、

眼を逸らす事もできずに、彼女の姿が見えなくなる迄ずっと見つめていた。

 

そんな私の傍に膝を着いた侍女さんが、私の背を優しく撫でる。

きっと私は今、酷い顔色をしているのだろう。

侍女さんの手はほんの僅かばかりではあるが震えており、

其れに気付いてしまえば、逆に少し冷静になれたような気になる。

 

兵士達に掛けた言葉は、決して彼女に情けを掛ける為ではない。

私は自分を殺そうとしたひとを庇って許してやるような博愛精神の持ち主ではない。

警備の厳しい宮殿の奥、後宮内でこんな騒ぎがあっては具合が悪かろうと思っての話だ。

既に騒ぎは広まってしまっているだろうから、もう手遅れかもしれないが。

 

御無事ですか、とか、すぐに治癒師を呼べ、とか、陛下にご報告を、とか。

下級ではあったが二度も行使された攻撃譜術によって随分と荒れた室内は、ひどく浮き足立っている。

そんな中、慌てて治癒師を呼びに部屋を出て行こうとした兵士を呼び止めて、

務めて穏やかに聞こえるようゆっくりと声を掛ける。

私まで慌ててもどうにもならないだろうと考える程度には、今の私は変に落ち着いていた。

 

「私に治癒師は必要ありません。

 大丈夫です。私に、怪我はありませんから。」

 

私に怪我一つ無いのは事実だ。

ただ、咄嗟に譜術防御の為の譜陣を形成した事によって、体内音素をごっそりと削られてしまっただけで。

それは偏に私の音素制御が拙く、加減と云うものが出来なかった事が原因である。

倦怠感と、少しの目眩、僅かな息苦しさに荒い息を吐く。

 

身体に力が入らないので暫くは立ち上がれそうにない。

久し振りに感じるこの遣る瀬無い疲労感、

下手をすると一般人よりも体力が無いだろう貧弱な私にはなかなか辛いものがある。

(…うん、もうちょっと体力を付けよう、と、ささやかに決心した私だった。)

これだから音素を扱うのは嫌なんだと内心溜め息を吐きつつも、

今更になってじわじわと顔から血の気が引いていくのを感じた。

 

防御譜陣を展開するのが後一瞬遅かったら、私は死んでいただろう。

仮に死にはしなくとも、あれだけ間近で放たれれば重傷にはなっていたと思われる。

 

日常なんて簡単に壊れる儚いものなのだと実感せずにはいられない。

怖いか、と云われれば、私は正直に怖いと云うだろう。

だが今は恐怖に取り乱すより、間近に迫った死と云うものの、あんまりな呆気無さに呆然としていた。

 

額から血を流してぐったりと倒れ伏した彼女の白い顔が、頭にこびりついて離れない。

私が展開した防御譜陣は、譜術の効力の一部を、ほんの僅かばかりではあるが使い手に跳ね返した。

私が彼女を傷つけた。

死んではいないだろうが、そもそも先に私を殺そうとしたのは彼女の方であろうが、

自分が彼女を傷つけたのは事実なので。なので。

 

…其処迄考えたが、其の先が分からなくなった。

「なので」、何だと云うのか?

 

私のせいだ、なんて云う程、殊勝な人間ではないし、

仕方なかった、なんて言葉は余りに馬鹿馬鹿しい。

結局私はいつもこうなのだ。腑甲斐無い。

 

自分が考えている事もよく分からなくなって途方に暮れながら、

私は床に座り込んだまま、傍にあったぼろぼろのソファの、まだ破損の少ない肘掛け部分に額を預けて凭れ掛かった。

…とても、疲れた。

 

ふと視線をずらせば、ローテーブルの脚の一本が折れて傾き、ティーセットは床で粉々に砕け散っていた。

あの甘い香りの紅茶は、ロイヤルブルーの絨毯にすっかり染み込んでしまっている。

私の感が本当に正しかったのかどうか、

…あの紅茶に毒が入っていたのかどうかは、もう、私にはわからなくなってしまった。

 

 

 

 

ほんの数分の後、再びこの部屋に近付いて来る誰かの足音が聞こえて来た。

肘掛けからのそりと頭を離し、開け放されたままの扉の方を見ていると、

今迄見た事も無いような険しい顔をしたピオニー陛下が、足取りも荒く駆けつけてきたところだった。

そして、敷居を跨いだところで立ち止まる。

 

っ!」

 

荒れた室内にさっと視線を走らせて一瞥し、

ソファだったものの残骸の隣で、いまだにべったりと床に座り込んでいる私を見つけ、慌てて駆け寄ってくる。

 

 

すると次の瞬間、口を開く暇も与えられないままに、

陛下が私を、強く、強く、抱き締めた。

 

 

呼吸が出来なくなるほど力強く締め付けてくる両の腕に、私は酷く驚いた。

其の証拠に、骨が軋む程の其れに痛みを感じてもなお、眼を見開いたまま身じろぎ一つ出来なかった。

そして私が動揺から立ち直るより早く、陛下が急くように口を開く。

 

「大丈夫か、怪我は無いか!?」

 

突然其の両腕から解放されたかと思うと、今度はがっしと両肩を掴まれ、真剣な眼差しで真直ぐに顔を覗き込まれる。

肩にきつく食い込む指が痛い。

 

けれど陛下が余りに強い光を灯した紺碧の眼で、心配そうな顔で、

私を射るように見つめるので、何を云えばよいのかすぐには上手く言葉を吐き出せずにいた。

ぎゅうと私の両の肩を掴む其の手の熱さに、頭の中が真っ白になる。

 

「…は、はい、大丈夫です。ご心配をおかけして、すみません。」

「本当に、本当に大丈夫なんだな?」

 

ピオニー陛下の常に無いその鬼気迫る勢いに気圧されながらも、

ようようぎこちなく頷いてみせると、陛下は肩を摑んでいる手の力を少し緩めて後、おもむろにがっくりと項垂れた。

あーよかったー、とか、まじ焦った、とか、気が抜けたようにもごもごと口の中で情けなく何事かを呟いている。

 

やたら深い溜め息と共に、何だかすっかり脱力してしまっているようだった。

そんな陛下のつむじをぽかんと眺めつつ、ああ、心配してくれたのか、と、私は大分遅れて理解した。

自分では落ち着いていたつもりだったのだが、なかなかどうして、私もまだ相当気が動転しているらしい。

 

動転ついでに、その項垂れた陛下の頭を、取り敢えず撫でてみる。

彼は少しだけばつが悪そうな、それでいてくすぐったそうな、複雑な感じで小さく笑った。

まぁ落ち着いて下さいよ陛下。

 

…って。

いやいやいや、むしろ私が落ち着け。

ふと我に返って、私はさっと手を引っ込めた。

おっさんの頭を撫でてどうするよ、私。そして残念そうな顔をするな、皇帝。

 

しかし、いつまでもこうして床に座り込んでいる訳にもいくまい。

ぐっちゃぐちゃの部屋も片付けて貰わなければならないだろうし、それより何より、

私達を遠巻きにしながらも温かい眼を向けて来る兵士さんや侍女さん達の視線が、そろそろ心底いたたまれない。

誰かさっさと此の場の収拾をつけてほしい、と他力本願な事を考えていたところに、

何とも良いタイミングで、いつものあの声が。

 

「陛下。」

 

感情を削ぎ落としたような無表情で、いつの間にか其処にいたカーティス大佐が声を掛けると、

ピオニー陛下もまたすぐに「皇帝陛下」の顔で己の懐刀を見上げ、一つ頷く。

そんな二人を見ていると、何とも彼らの信頼関係がよく現れているやりとりだと、場違いながら感心してしまう。

 

ご無事で何よりです、と私に一声掛けて一礼し、大佐はすぐにこの場にいる兵に何かしらの指示を出しながら足早に出て行った。

そんな彼の後ろ姿に揺れる長い襟のひらひらを意味も無く見つめていると、とにかく此処を出るよう陛下に促された。

 

まだ怠くて動くのも億劫であったが、半壊のソファに掴まりつつ何とかよろよろ立ち上がる。

ぼんやりしていたせいで私に手を差し出しかけた陛下をうっかりスルーしてしまい、

ちょっと陛下がショックを受けたような顔をしていたが、其れは確信犯的に再スルーした。

いい大人が其の程度のことで泣きそうな顔をするなと云いたい。

だがまぁ気持ちは有り難いので、足元が覚束無いので手を借りても良いだろうかと御願いしてみると、

にこにこしながら私に改めて手を差し伸べてくれた。それもどうかと思います、陛下。

 

貧血ともまた少し違う、久し振りに味わう音素不足のこの感覚。やはり気持ちの良いものでは無い。

よろよろふらふら、酔っぱらいさながらの足取りで歩いていると、

隣で私の肩と腕を支えてくれていた陛下が眉根を寄せる。

 

、本当に大丈夫なのか?」

「問題ありませんよ。

 ただ、一度に体内音素が減り過ぎて、バランスがおかしくなってるだけですから。

 数時間休めば問題無く治る程度のものです。

 どうぞ、そんなに心配なさらないでください。」

 

苦笑しつつそう返すと、暫し何かを考え込んでいた陛下だったが、ふと、唐突に満面の笑顔を浮かべだした。

…もはや嫌な予感しかしない。

私が笑みを引き攣らせながら若干身構えたと同時に、

身体が一瞬で不安定な浮遊感に晒され、思わず近くにあった陛下の肩に縋り付いた。

 

「この方が早いだろう!」

 

子供でも抱き上げるように私を軽々と持ち上げて、さも良い事をしたと云いた気な、その輝く笑顔が憎い。

ついでに云うと私が軽いのではない、陛下が無駄に力持ちなだけである。

私は陛下に掴まった其の体勢のままぴしりと固まり、思わず真顔で低く呟いた。

 

「…なんと…これは恥ずかしい。」

 

 

 

 

 

 

 

存分に羞恥プレイを満喫させられた挙げ句、またしてもすれ違う人々に生暖かい視線のフルコースを浴びた後、

真顔の私と超いい笑顔の陛下はようやっと目的地に辿り着いた。

 

と云うか、私は何処に移動するとは聞かされていなかったのだが、気付けば陛下の私室に連れてこられていた。

まぁ一番安全と云えば安全なのかもしれないが。

入ってすぐの部屋ではなく、其の奥の家畜小屋…じゃない、

寝室の方に入ってようやく(ぐしゃぐしゃの)ベッドの上に降ろされた。

相変わらずの凄まじい荒れっぷりの部屋である。

 

ある意味、この運搬方法は防御譜陣を展開するよりも(精神的に)疲れることがよく分かった。

確かに歩くの怠くていやだなぁとは思っていたし、楽っちゃあ楽だった、が…。

何だろう、この納得のいかない感じ。

 

一応陛下的には7割くらいは純粋な善意と思いやりだったようなので、(3割は多分愉快犯である)

釈然としないながらも、取り敢えず礼だけは述べておいた。

ちょっと語尾が疑問系になってしまったのは見逃して欲しい。

善意に気付くだけに留めておきたかったが、無駄に残りの3割までしっかり読み取れてしまった自分が悲しくもある。

いつの間にやら、私もすっかり陛下のノリに慣らされている。

 

心なしか先程よりも二割増でぐったりしながらベッドの縁に腰掛けていると、

すぐに足元にブウサギが数匹近付いてきては擦り寄って来る。

初めて陛下に彼らを紹介されて以来、此の部屋を訪れた際はいつも撫でたりブラッシングしたりと、

何だかんだでちょいちょい構っているせいか、段々懐いてきてくれているのがちょっと嬉しかったりする。

 

頭を膝にぐいぐい押し付けて来るのは『ルーク』だ。

すぐ傍でベッドに凭れ、早くもうつらうつらし始めたのは多分『サフィール』だろう。

 

そして、いきなり私の足の甲の上に、遠慮の欠片も無く、

さも当然であるかの様にでんと腹這いになったのが『可愛いほうのジェイド』である。

ちょ、思いっきり足踏んでるですけど、と思ったが、その重さよりも、

何となく靴越しにもぽわぽわとやわっこい温かさに和んでしまい、結局されるがままになっていた。

 

それにしても、だ。

何故『ジェイド』は毎回毎回、私をどこかしら常に踏んでおこうとするのか。

懐かれてるのは分かるんだが、名前が名前だけについ身構えてしまうのは、私が深読みし過ぎなのか。

 

ぎゅうぎゅう足元に密集して来るぶさかわいい生き物達にへらりと眉尻を下げていると、

陛下が先程の騒動についての詳細を尋ねてきた。

状況把握は必要だろうと、私はすぐに頭を切り替えて事の一部始終を陛下に説明した。

 

主観を省けばそう長い説明は要らない出来事だ。

時間的にも、実際はほんの数分間の出来事でしかない。

伝えるべき事を伝えて口を閉じれば、何とも云えない鈍色の靄が心の内側に淀んでいる気がした。

 

「すまんが、俺はまだやる事があるから、行かなきゃならん。

 を一人にするのは気が引けるが…。」

 

そう云ってすまなそうな顔をする陛下に、私はちょっと笑って首を振る。

 

「此の子達が一緒にいてくれますから。」

「…そうか。」

 

云いながら『ルーク』の耳元を指先でくすぐる私の様子に少し安心したのか、陛下も小さく破顔した。

 

そして、何故かもう一度、私をゆるりと柔らかく抱き締めた。

 

全く想定していなかった陛下のその行動に思わず固まった私を他所に、

彼は一つにっこり笑ってから部屋を慌ただしく出て行った。

 

静かになった部屋で、数拍置いてから、

私はちょっと声にならない呻き声を上げながらのたうち回る羽目になった。

(な、何だあれ!ちょっ…うわぁああ…!へいかぁぁ…!)

 

一通り奇行と共に呻いて恥じて気が済んだ後。

私は暢気なブウサギの鳴き声と寝息が其処此処で聞こえる部屋で、

思いっきり深い溜め息を吐き出し、ようやく少し心が落ち着いてきた。

 

 

すみません、と私は音も無く囁いた。

所以の知れぬその謝罪は誰にも届かず、私自身にさえ届かずに消えていった。

それでよかった。

 

一人になると少し気が抜けたのか、音素不足からくる倦怠感が余計に増した様な気がして、眠気を覚えて仕様が無い。

だが依然として『ジェイド』に足を思いっきり踏まれているし、

回りは他のブウサギに密集して囲まれているしで身動きも取れない。

羊じゃないんだから何もこんなに群れてこなくとも、と思わんでもないが、懐かれて嫌な気はしないので黙っておく。

 

仕方なく私は腰掛けた体勢のまま身体をぱたりと横に倒し、少々休ませてもらう事にした。

眼を閉じると、足元の温かさに誘発されて、意識がとろりと蜂蜜のように溶けていく。

私はそれに抗いもせず、あっさりと眠りに引き込まれた。

 

ああ、もう何も考えたくない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

next.

 

 

 

(11.6.11)

 

 

 

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