愛しのヘリオドール 10

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ある日の昼下がり、いつものようにピオニー陛下がふらりと私の元を訪れた。

その足取りも軽く、表情からしても随分と上機嫌であることが見て取れる。

そんなやけにご機嫌さんな陛下の様子に首を傾げた私に向かって、彼は唐突に云い放った。

 

「さぁ、新婚旅行に行くぞ!」

 

だから何故そうなる、と、最早私が突っ込みを入れる事は無かった。

 

 

 

 

 

そんな訳で私は今、何故か陛下と共にケテルブルクに向かっている。

いきなり何がどうなってそうなったのか、経緯はさっぱり分からない。

しかしもう突っ込むのも面倒だったので全てを受け流す事にした私は、陛下に云われるがまま旅支度を整え、

大急ぎで仕事を片付け、二日後にはケテルブルク行きの船にあれよあれよと云う間に乗せられる事となった。

 

ピオニー陛下は勝手に「新婚旅行」と称していたが、実は一応「視察」という名前の付いた仕事ではあるらしい。

しかし其れは殆ど建前で、まだ一度もグランコクマから出た事が無い私の為に、

ちょっとした休暇をくれるという意味合いもあるのだと云う。(本当かどうかは知らないが。)

 

むしろ、私を理由にして陛下が大臣さん方から休暇をもぎ取った、と云うのが実際だろう。

水面下ではそれはもう随分と熾烈な攻防が繰り広げられていたのだと、後にカーティス大佐が面白そうに私にちくってくれた。

…道理で最近陛下が真面目に仕事しているなぁと思っていたが、此の為だったのか、と思わず納得してしまった私だった。

 

そんな知りたくもない裏事情はさて置き、確かに新婚旅行的なものはそういえばしていない。

意外と細やかな心配りをなさる陛下なので、本当に遅ればせながらのそれであると思って相違無いのだろう。

 

「本当はもっといろいろな街を見せてやりたかったんだがなぁ…。

 残念ながら今回はケテルブルクだけなんだ。」

 

本当に残念そうに云った陛下の言葉が、十分に其れを裏付けていた。

マルクトに来てからの日々は忙しく、グランコクマどころか、宮殿を出る機会も少なかった。

更に云うと、私が故郷たるバチカルさえ殆ど出た事がない、と云った事を覚えていたのだろう。

折角だからマルクト国内を、彼の治める国を、民を、この機会に私に見せたかったのかもしれない。

 

「だがまぁケテルブルクはいい街だぞ!

 きっとも気に入ってくれると思う。」

 

バチカルに住んでいたのなら、一面の雪景色なんては見た事ないだろう、と、

陛下はケテルブルクの街について幾らか話してくれた。

その屈託無い笑顔につられて微笑みながらも、私は内心苦笑をこぼしたけれど。

 

此のオールドラントに生まれてからは確かに雪を殆ど見ていないが、雪景色なら知っている。

ただ、それは此処ではない、私の記憶の中の故国にて見知っていると云うだけで。

 

こういう時、普段は気にならない「昔」の記憶と云うものが、「今」を生きる私の邪魔をする。

だが決して記憶其れ自体を疎ましく思う事は無い。

其の記憶も全て含め、初めて「今の私」が在るのだから。

 

私は全然貴族らしくなんてないし、まして皇妃なんて立場にも全く向いていない人間であると自負している。

けれど、私が二つの世界と二つの人生の全てを積み上げて形成してきたこの価値観や思想を、

今となっては不思議と尊いものだとさえ思えるのだった。

 

さて、ケテルブルク行きの船中、豪華な船室にて和やかに談笑している私達ではあるが、此の部屋にいるのは私達だけではない。

私とピオニー陛下の他に、世話係のメイドさんが一人と、護衛として入り口に控えている軍人が、一人。

其の軍人と云うのがカーティス大佐である、と云う点については、最早特筆すべき事でも何でも無いだろう。

予定調和と云う奴だ。

 

陛下が無駄に張り切って皇帝勅命と云う名の秘奥義を惜しげも無く使用した為、

今回の「ケテルブルク視察」の護衛として大佐も(嫌々ながら)同行していたのだった。

ていうか本当に心底嫌そうな顔をしていたので、私は見ていてちょっと面白かった。

 

あのカーティス大佐を此処迄好き勝手に振り回して心底嫌そうな顔をさせることができるのは、

オールドラント広しと云えど、我らがピオニー陛下だけである。

(全然威張れた事じゃないがなんとなく凄い、と云う感じのアレだ。羨ましいとは全く思わない。)

 

 

 

 

 

船室内まで冷たい空気が漂うようになってから暫くして後、ようやく船が港に着いた。

ケテルブルク港に降り立った私の眼にまず飛び込んで来たのが、

この世界で生まれてからは初めて見る雪景色。

陛下が仰っていた通りの、一面銀世界と云うやつだ。

 

此の地に住まう者にとっては綺麗だ何だと云ってる場合でも無いのだろうが、

避暑や観光の為に外から訪れる者にとっては、此れはちょっと心躍る光景である。

 

此処からは雪国仕様の馬車に乗り換え、港から少し離れた場所に位置する街に向かった。

バチカルもグランコクマも比較的温暖な気候であった為、

そんな気温に慣れた身体には、此の寒さは結構堪えるものがある。

 

私はコートに手袋、耳当て、マフラーまで油断無く防寒対策をしていた、が、寒いものは寒い。

あまり長時間外に出ていられる自信が全く無いな、と思った私は、実は結構寒がりだったのかもしれない。

それとも堪え性の問題だろうか。

 

あれこれと余計な事を考えながらも私の視線は、雪原を疾駆する馬車の、小さな窓の外に釘付け状態だったらしい。

隣に座していた陛下が、思わず、と云った態で噴き出した。不本意である。

 

「ぶっ、くくっ、わ、悪い悪い。」

「…心が篭っていませんよ、陛下。」

 

雪自体を見るのが全く初めて、と云う訳ではないにしろ、

実際にこれだけ真白い景色を眼にするとやはりテンションが上がってしまうのは致し方ない。

港では出迎えの兵や民衆の眼があったのでそう浮かれてもいられなかったが、

人目を気にしなくても済むようになると、無意識の内に私は相当わくわくした顔をしていたらしい。

くつくつ笑う陛下に批難を込めた一瞥を差し向けたが、すぐにまた窓へと意識を奪われる。

 

正直遠出は面倒だとちょっとだけ思っていたのだが、やはり旅行は良いものだ。

何か段々楽しくなってきた。

 

ケテルブルクの街は、想像していたよりも可愛らしい景観をしていた。

雪の重みに押し潰されないよう傾斜の急な屋根を設えた煉瓦造りの建物が並び立ち、

それがまたこんもりと積もった真白い雪と相まって、

チョコレィトと砂糖菓子で出来たかのような、何ともメルヘンティックな街並である。

ついでに云うと、地元民だと思われる人達はとても色白で肌が綺麗だ。

羨ましい事此の上無い。

 

街の入り口まで出迎えに来てくれた役人さんに、まずは知事邸に案内してもらうことになった。

前後にぞろぞろと護衛の兵士さんを引き連れて街中を闊歩する様は、かなり仰々しい。

それも皇帝と、今年嫁いで来たばかりの皇妃が揃って視察に訪れているものだから、それはもう尋常でなく目立っていた。

未だに民衆の視線にびびる私が小市民すぎるのか、全く一切気にしていない陛下達が剛胆すぎるのか。

私的には判断の難しいところである。

 

ピオニー陛下の隣を足元に気を付けて歩きながら、私はこっそりと横目に街を眺めていた。

街の片隅の所々には、子供達が作ったのか、雪だるまがいくつも並んでたっている。

歪で手作り感溢れる素朴なものから、凄まじい執念を感じさせるスーパークオリティなものまで様々だ。

前者はともかく、後者を作った人は余程の暇人か雪だるまマニアだろう。其の情熱はもっと別の事に向けて頂きたい。

 

此の尋常でなく寒い中、わざわざ外で優雅に立ち話をしていた貴婦人達もいた。

その行動は、正直私には理解に苦しむものがある。

見ているこっちが寒いので彼女達はさっさと室内に入ればいいよと思った。

 

以前読んだマルクトの歴史書に書いてあった通り、ケテルブルク開拓に貢献したカール三世の銅像もあちらこちらで見掛けた。

此の国について勉強していた時は、ただ知識を詰め込む事に専念するばかりであったが、

そうやって得た知識を実際に自分の眼で見て確かめると云うのは、結構悪くないものだ。

 

こうして街を眺めていると、雪を見たら何か作って遊ばなければならぬ、と云う謎の義務感に駆られて仕様が無いのだが、

さすがにマルクト皇妃がいきなりその辺にしゃがみ込んで雪遊びを始めるのは外聞が悪過ぎる。

と云うかいい年した大人としてアレ過ぎるので、其処はぐっと我慢した。

 

何よりも私の隣を歩いているのは天下のピオニー様なので、もし仮に私がそんなことをしだしたら、

窘めるどころか嬉々として便乗してきそうなところが本気で洒落にならないとちょっと思った。

(私の陛下に対する認識は割とこんなもんである。そして、実際あんまり外れてもいないと思っている。)

 

浮かれてつい口元を緩ませていると、ふいに温かい掌が頭にぽんと乗せられた。

云う迄もなく陛下である。

公衆の面前で此れは流石に止めて欲しいものだと思い、抗議の視線を向けようと其の顔を見上げた。

の、だが。

 

私を見下ろしているその眼差しが、何だかあまりにも、慈しむような、

いっそ恥ずかしいくらい優しく柔らかいものだったので、ささやかな抗議さえ不発に終わってしまった。

 

本当に恥ずかしい男だ。私はこの人のこう云うところはちょっと苦手だ。

…まぁ、厭では、無いのだけれど。

もういい、好きなようにしてくれ、と投げ遣りな気持ちで視線を逸らすと、視界の端で陛下が楽しそうに笑った。

 

「此の街は気に入ってもらえたみたいだな。」

「…はい。とても。ありがとうございます。」

「それだけ喜んでもらえりゃ、俺も連れてきた甲斐があるってもんだ。」

 

にこやかに云う陛下を見ていると、何だかむしろ私よりも陛下の方がずっと楽しそうに見えるのだが、気のせいだろうか。

私はくすぐったさと呆れを混ぜたように苦笑をこぼしながら、それにしても、と、

ピオニー陛下と其の斜め後ろを歩いているカーティス大佐の二人を、改めてまじまじと見た。

それにしても、だ。雪の降り止まぬ極寒の中、

何故に此の二人は全く寒そうな素振り一つ見せずに平然としていられるのだろう、と思わずにはいられなかった。

 

全力で防寒対策を施しているにも関わらず身を震わせる私。

それに比べて、ほぼ普段通り恰好の上にコートを着ているだけの陛下と、

平生通りのひらひら襟な青い軍服の上に、黒い軍用コートを羽織っただけのカーティス大佐。

二人はそれでも、寒さを微塵も感じさせない様子で平然としているのである。

…何でだ。

いろんな意味でものすごい体感気温の格差を感じた瞬間だった。

 

特に、顔色一つ変わらぬカーティス大佐の平然っぷりは、他の追随を許さない。

此の人って本当は変温動物とかじゃないのか、と私は本気で疑いかけた。

思わず心底本気で、寒くないんですか、と大佐に問うてしまったのだが、

彼はと云うと、はたと瞬いて少々虚を突かれた様な顔をしたが、すぐにいつものように本音の見えない微笑を浮かべた。

 

「私は此の街の出身ですから。」

 

今度はきょとんとするのは私の方だった。

ああ、そう云えば、そんなことを聞いた事があった様な無かった様な。

そうですかだから大佐は色白なんですねちくしょうその無駄な美肌忌々しい。

 

「…ああ、そう云えばそうでしたね。すっかり忘れておりました。」

 

どうでもいい事はわりとすぐに忘れてしまう私である。鶏頭と云う勿れ。

暗に「お前の事とかマジどうでもいいし(笑)」みたいなことを図らずもしれっと云い放った私を見て、

カーティス大佐の完璧な作り笑顔が、ほんの少しだけ引き攣った。

とりあえず、私の中では彼の変温動物疑惑はまだ消えていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

next.

 

 

 

(11.6.11)

 

 

 

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