Soiree -huit-

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ジェイドは執務机の上に散らばる書類を纏め、投げ遣りにペーパーウェイトを乗せた。

今日は本来なら夕刻で仕事が上がりになるはずだった。

それなのに、昼間に市街で起きたちょっとしたトラブルの残務処理に追われて、

勤務時間内に終えられる筈だった書類が今の今までずれ込んでいたのだ。

 

幾らジェイドがそこらの人間よりもずっと処理能力が高いとは云え、

彼もしがない人間だ、限度と云うものが在る。

かと云って、翌日に持ち越せば仕事は溜まる一方。ならばできる時にやっておいた方がいいのは自明だ。

はぁ、と誰もいない静かな執務室でぽつり溜め息を零し、軽く肩を解す。

 

窓の外を見れば、ほら、すっかり陽が落ちて夜の、色、に ……

 

暫し動きを止めたジェイドは、微妙に驚いていた。

しかと閉じられた窓硝子の外に、何処かで見たことがある様な白い腕が、ひらひらと揺れているではないか。

濃紺の夜闇に沈む窓のフレームの内にあっては、不自然なまでに浮き上がって見える、その白く細い腕。

 

此処は二階だぞ、と思うも、しかし思い当たる腕の主に、そんな常識的な事を云っても無意味だと彼は瞬時に悟った。

ちらりと扉の方を窺い、念の為内側から鍵を閉めておく。

自分は一体何をしているのだろう、と云う遣る瀬無い気持ちを意図的に意識から排除したジェイドは、足音を立てずに窓へ歩み寄る。

 

静かに鍵を外して窓を開く。少し顔を出してみれば案の定、

窓の隣で外壁の僅かな出っ張りに器用に足を乗せ、壁に背を預けて立つ異形の少女がいた。

彼の主のお気に入りの「それ」、だ。

 

ジェイドは顳かみを押さえて溜め息を吐く。その表情は大変苦々しい。

そこらの一般兵なら速攻で逃げ出しかねないどす黒いオーラを漂わせながら、小声で低く囁いた。

 

「…何故ここにいる。」

「……悪い。」

 

明らかに怒っているジェイドに今更怯む様なではなかったが、流石に彼の執務室を訪ねたのは不味かったかと、素直に謝罪した。

今にも舌打ちしかねない凶悪な無表情を貼り付けたジェイドだったが、もう一度深い溜め息を吐き捨てて、窓から身を引いた。

 

「いつまでそんな所に突っ立ってるんです。とっとと入りなさい。」

 

依然窓の外にぼんやり立っていたに、ジェイドの苛立たし気な小声が投げ掛けられた。

一瞬躊躇したが、素直に入らなければ彼は更に機嫌を損ねる事だろう。赤眼は案外子供っぽいところがあるのだ。

は音も無くふわりと窓を飛び越えて、絨毯の上に着地する。そして静かに窓を閉めた。

 

「一体何の用ですか。」

 

さっさと用件を済ませて去れと云う副音声を隠しもしないジェイドに、は苦笑いした。

とてジェイドの、人間の領域に踏み込むのは本意ではなかったが、

の方から訪ねて行かなければ、次にいつ彼と二人で会えるか分からなかったのだから、仕方が無い。

は、ピオニーが居ない時に、彼に云いたい事があったのだ。

 

ジェイドの希望通り、最初からは手早く用件を済ませて庭に帰るつもりであり、長居する気は毛頭無い。

彼が本人の申告通り多忙な人間である事は、上手く取り繕ってはいるが、少し疲れた様子の伺えるその顔を見ればすぐわかる。

ピオニーほど好きなわけではないが、はジェイドのことも、身体の心配をするくらいには気に入っていた。

 

「手を出せ。」

 

短く要求すると、ジェイドは訝しみつつも、云われるがままにの方に手を差し伸べた。

手の甲を上にして。

 

「…。」

 

その手を見てちょっと変な顔をしたに小首を傾げていると、彼女は諦めたように小さく息を吐き、

軽く握りこんだ白く小さな手を、ジェイドの手の甲の上でゆっくりと開く。

彼の手の甲には、小鳥の卵ほどの大きさの、赤い石が一つ、乗せられていた。

其れが何であるのかを問う前に、まず、ジェイドは気になった事を尋ねてみた。

 

「…普通、掌に置きませんか?」

「………普通、掌を上にして出さないか…?」

 

まるでがおかしなことをしたような口振りでジェイドは云うが、にしてみれば困惑させられたのはこちらの方である。

互いを嫌ったりはしていないのだが、いまいちピントの合わない二人であった。

 

「まぁ、いい。おまえにやる。」

「これは、…ガーネットの原石ですか。」

「ああ。」

 

暗い赤色をした鉱石からは、たゆたうような第五音素の濃密な気配を感じる。

加工すれば、装飾品としても美しいが、実用品としても十分通用する品質のものだ。

 

「それも、なかなか質の良いもののようですねぇ…。

 こんなもの、一体どこで拾ってきたのですか?」

「山で見つけた。

 あいつがまだ庭には来られない…というか、治るまで来るなと釘を刺しておいた。

 だから昨日は少し、遠出をしてきたんだ。」

「それはまた…。」

 

ふんと鼻を鳴らすように云ったに、ジェイドは何と云うべきか迷って言葉を濁した。

腑抜けて梔子の茂みの中で踞っていたを訪れたのは、たしか3日程前の事だったか。

あれから、彼女はやはり、自分からピオニーに会いに行ってきたらしかった。

 

ぐずぐずと腐っていないで最初からそうしていればいいのだ、まったく面倒な奴だと蔑む気持ちも多少あったが、しかし。

余程暇を持て余していたピオニーが彼女をしつこく歓迎したのだろう、

彼の性格を見抜いて先手を打ってくれたことには、よくやった、と褒めてやってもいいと思ってしまったジェイドだった。

 

「ふむ、経緯はわかりましたが。…しかし何故私に?

 陛下に差し上げれば宜しいではありませんか。

 鬱陶しい程お喜びになるのでは?」

「…時々、おまえは本当にあいつの友人なのか、疑問に思う事があるぞ。」

 

気安いと表現するには、あまりに散々な言い草だ。は呆れた眼を向けた。

 

「これは、おまえへの礼だ。だからおまえにやる。」

「…礼をされる様な事をした覚えはありませんが。」

 

嫌がらせならした覚えはある、と考えた、やや非道なジェイドだった。

ふと視線を遠くに飛ばしたジェイドの顔を見て、何を考えているかまでは分からないものの、

とかく碌な事を考えていないだろう事は察せられたので、は彼に構わず本題を済ませてしまおうと思った。

 

「あいつに頼まれた訳でもなかったろう。だが知らせに来てくれた。

 だから、ありがとう、だ。」

「貴方の為ではありません。自意識過剰というものですよ。」

「…あいつ、きっと、何もなかったことにするつもりだったんだ。」

 

云いながら穏やかに微笑んだの顔を見て、ジェイドは言葉に詰まった。

「これ」は、一体いつのまにこんな顔をするようになったのだろう。

これではまるで、人間のようではないか。

同胞の死にさえ心を動かす事もできぬ自分よりも、ずっと人間らしい心を持った「生き物」のようではないか。

 

「忙しくて来れなかった、悪かった、とか、適当なこと云って。

 怪我のことなど、一切無かったことにして、わたしに云わないつもりだった。」

「…貴方に余計な心配をさせたくなかったのでしょう。

 あの人はそう云う人です。」

 

は尚も笑っているが、少し痛そうな、苦しそうな色を浮かべる。

 

「そうだ、そう。いつもあいつはそうなんだ。

 わたしが寂しくないように構って、不安にならないように頭を撫でて、

 怖がらないように何も云わず、わたしをひどく甘やかす。

 …嬉しくて、優しくて、わたしは胸が潰れてしまいそうだ。」

 

ジェイドには残念ながら、彼女が何をそんなにも思い詰めているのか、その心の機微を理解することは出来なかった。

彼にわかるのは、が本当にピオニーを大事に思っていること、ただそれだけだった。

ジェイドも、自身も気付かなかったが、はただ、幸せすぎて不安だったのだ。

いつかこの幸せを失ってしまった時、きっとは平気ではいられないだろうから。

 

「悪かったな。つまらないことを云って。

 そろそろ戻る。

 ああ、おまえが教えてくれたのだということは、あいつには云ってない。

 …墓穴掘るなよ。」

「余計なお世話ですよ。私は貴方ほど粗忽ではありません。」

「おまえはほんと面白いなぁ。」

 

素直じゃないジェイドをからかって、再び窓からひらりと外に出たは、夜闇に紛れてあっという間に姿を消した。

そんなに驚くでも狼狽えるでも無く、

人間じゃないことも身軽なのも知っているが、いよいよ何でもありだな、とジェイドはすっかり呆れ果てた。

 

再びしんと静まり返った執務室は、先程の奇妙な来訪者などまるで最初から存在していなかったかのようで。

ただジェイドだけは、それが幻などではなかったのだと知っているのだ。

掌でころりと弄んだ赤い鉱石の重みだけは、何よりも確かな現実だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

next.

 

 

 

(11.3.10)

 

 

 

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