Soiree -douze-
その日の午後、ジェイドは数枚の報告書を携えて、皇帝の執務室を訪れていた。
廊下に控えていた使用人に先触れを出してもらい、案内された扉の前に立ったジェイドは、
いつもと同じようにごく機械的にノックする。
いつも通りの怠そうな入室許可の返事を確認してから、室内に足を踏み入れ、
顔を上げて報告書と其れに関連する事案について奏上しようと、ピオニーの顔を見た。
その瞬間、ジェイドは思わず顔を顰めた。
人の顔を見るなり突然その秀麗な顔を歪ませたジェイドに、
どうした?とピオニーが首を傾げて不思議そうな顔を向けてみるも、
一向にその表情は緩まず、ますます眉間に皺を寄せて行く有り様だった。
何なんだ、一体。
「おーい、ジェイドー?
ジェイド・カーティス、戻ってこーい。」
何を思ったのかジェイドは唐突に、部屋の外にいる使用人に人払いを命じ、開きっぱなしだった扉をぴしゃりと閉じた。
そして依然険しい表情のまま、ピオニーの座る執務机の前につかつかと歩み寄った。
「……何ですか、その面は。」
皇帝に向かって、人目がある場で「その面」呼ばわりしない程度には、彼は一応冷静なようだったが、
ピオニーはいつに無いその剣幕に若干引き気味になる。
え、ちょ、俺、お前に何かした?状態である。
その面、と云われても、別に自分は至って普通に彼へと顔を向けただけだし、
今は珍しく真面目に仕事をしていたので、居眠りの痕跡もないはずだ。多分。
ピオニーはちょっと困った顔で笑いながら、詰め寄る幼馴染を宥めた。
「おいおい、ジェイド、まぁ落ち着け。ほんとにどうしちまったんだよ?」
「ふざけるな。
私が一体、何年貴方の顔を見てきたと思ってるんです。
貴方、自分が今どんな顔をしているか、分からないとは云わせませんよ。」
「あー…はは。」
他の人間には何の違和感も持たせずに完璧に振る舞えていたのだが。
流石に幼馴染の名は伊達じゃないと感心しつつも、ピオニーはやはり苦笑した。
自分でも驚く程滑らかに平生の自分であったと思うのに、一体何だってこの親友はすぐにわかってしまうのか。
困ったように笑い、けれど今度は明らかに顔を曇らせたピオニーは、両手を上げて降参のポーズを取った。
そんなピオニーを見て力一杯溜め息を吐いてみせたジェイドは、少しだけ態度を和らげた。
往生際悪くしらばっくれなかっただけで重畳、と取ったらしい。
そんなジェイドの思考回路が理解できてしまったピオニーは、お互い様だったかと内心笑った。
「…そんな酷い面してたか、俺は?」
「上手く隠しておいでだったようですがね。」
「そんなもん、気付くのはお前くらいのもんだぞ、親友。」
「微塵も嬉しくありません。」
「またまた、照れるなよー。」
「おや、今日は随分とサンダーブレード日和で…」
「や、やめろよ!?此処でやるなよ!?」
「(此処でなければいいのか…?)
でしたら~、そろそろ、誤魔化すのは止めてとっとと吐いて下さいませんかね。
何時迄も皇帝陛下が使い物にならないようでは困りますから。」
「つーか、危うく皇帝陛下をリアルに使い物にならなくさせるところだったのはお前だからなっ!」
「はいはい。…で?」
「…おおう。」
どう転んでも、ジェイドは追及の手を引く気はないらしい。
意外な頑固さを見せるジェイドに溜め息混じりに呆れ笑って、ピオニーは疲れたようにゆっくりと椅子に深く身体を預けた。
「…行っちまった。」
天井を見上げながら、ピオニーは笑ってぽつりと呟いた。
「…、ですか。」
其の名を口にする事は躊躇われたが、問わずにもいられなかった。
ピオニーの告げた事実は、ジェイドには納得したとも、信じ難いとも思えた。
全身全霊でピオニーに懐いていたあのが、ピオニーの傍を離れようとすることなど、到底信じられないような気がしたのだ。
何より、自分からは離れられなくなってしまった、と云ったのは、当のだったのだから。
てっきり腹を括って最期までピオニーに付き纏うのかと思っていたが。
恐ろしい程まっすぐ自分を見つめたあの時、彼女が決めた覚悟は、もう一つの方の選択肢だったのか、と。
「俺が死んだら泣いちまうから、出会って一年の記念日でさよならなんだとよ。」
「…馬鹿ですね。」
「…馬鹿だよなぁ。」
吐き捨てるように云ったジェイドと、しみじみと呟いたピオニー。
どれほど納得しがたいものであったとしても、が下した決断を否定するようなことは、二人には出来なかった。
がピオニーの前から姿を消した夜。
暫くは甘い香りに満ちた静寂の庭に一人佇んでいたピオニーだったが、やがて静かにその場を立ち去った。
其の時の自分が何を思っていたのかは、ピオニー自身にもあまり思い出せなかった。
庭を離れて自室に戻り、窓辺で寄り添って眠っていたブウサギ達を何気なく撫でた。
此処に梔子の木は無いが、ピオニーの周りには、いつまでも甘い花の香りが漂っていた。
が手ずから飾ってくれた、襟元で咲く一輪の白い花。
柔らかい花弁は傷一つなく真白で、摘み取られて暫く経つと云うのに、萎れる気配も見せず瑞々しいままだ。
傷みやすいこの花にしては珍しい。
少し不思議に思いながらもピオニーは、小さな硝子の水盤に水を張り、その花をそっと浮かべておいた。
がいなくなったことと、その際にが起こした幻想的な出来事を端的に説明すると、
ジェイドがほうと興味深そうに眼鏡を光らせた。
彼らしい様子に笑って、だが、と続ける。
「朝一で見に行ってみたんだけどな、」
「おや、仕事がお早い。」
「おっ前は、いちいち一言多いよな…!
…で、だ。残念ながら、花は全部散ってしまっていてな。
本当に俺にだけ、特別に見せてくれたらしい。
どうだ、友人冥利に尽きるってもんだろ?」
「左様で。」
「ははは、お前なんか、一度も名前を呼ばれずじまいだもんな!」
「散々人を『赤眼』呼ばわりして下さいましたからねぇ。」
「『鬼畜』とか『陰険』とか呼ばれなかっただけマシじゃねぇのか?」
「…おや、今ならグラビティを出せるような気がしてきました。」
「FOFも無いのに!?」
はっはっは、と渇いた笑いを交わしつつ、悪ふざけを含んだ応酬は暫く続き、
やがて、どちらからとも無く二人は、何事も無かったかのように仕事の話に戻った。
時間はこうして止め処なく流れて行く。
その中に生きる者達が、どれほど想おうと、手を伸ばそうと。
何れ全てが押し流されて消え失せようとも、かつて灯した小さな幸いの燈火は、彼らの心を確かに照らしていた。
水盤に浮かぶ白い花は、いつまでも色褪せることなく、甘く香っていた。
(11.3.10)
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