Soiree -dix-
時間は流れて行く。
その中を生きるものが流れの速さを如何に思おうとも、常に、常に、滔々と流れ続けている。
差し伸べた手をすり抜けて行くその無常さを、救いとも絶望とも呼んで、
この世に存在するものの全ては、ただただ生きて行くのだ。
そんな中を、一日一日を愛おしむ様に、は小さな庭の底から世界を見つめていた。
晴れた日も、雨降る日も、風の強い日も、曇り空の日も、嵐の日も。
いつだってはこの世界が美しいと思ってやまなかった。
は無限にも思えるほどの途方も無い時間の中を存在してきたが、
こんなにも世界がきらきらしたもので溢れていると思ったのは、生まれて初めてだった。
そして、渇いてひび割れたの心に水を注いで、幸福の種を蒔いたのは、
「生きる」事の意味を教えてくれたのは、紛れも無くピオニーだった。
は、大好きなピオニーの生きるこの世界ならば、きっと全てを愛せるような気がしていた。
はその日の夜、いつもよりもずっとそわそわしてピオニーの訪れを待っていた。
今日は特別な日だ、と、はつくづく思う。
何よりも特別で、何よりも大事な記念日なので、は前もって、
この日だけは確実にこの庭に来ては貰えないだろうか、とピオニーにお願いしておいたのだった。
もちろんその珍しい申し出に頷かないピオニーではない。
むしろ来るなと云われても行く、くらいの勢いで全力で是と答えた。
その鬱陶しいまでの色よい返事に、喜べばいいのか突っ込めばいいのか判断しかねて、
中途半端に生温い笑みを浮かべてしまっただった。
ほぅ、と小さく息を吐いたは、四阿のベンチの隅っこに腰掛けて、
ひたすらピオニーが来ることだけを待ち詫びていた。
まだ真っ赤な夕焼け空の名残が、地平近くに残っている。
いつもピオニーがやってくるのは、しっかり夜の帳が降りてしまって暫く経った頃なので、まだまだ彼はやって来ない。
それは分かっているのだが、どうにも落ち着かない。
早く来ないかと、まだ時間が経たないのかと、気が急いてしまって仕方が無い。
そして同時に、まだ来るな、まだ心の準備ができてない、
ピオニーが来てしまったら時間があっという間に過ぎてしまって勿体無い、とも思うのだ。
鼓動など打たないの胸が、まるで人間みたいに脈打っているのを想像してみた。
あんまり落ち着かないから、自分がもし人間だったら、きっと心臓が張り裂けてしまっていたかもしれない、と思った。
…つまらないことを考えてしまった。
は少しだけ高揚した気分が静まるのを感じて自嘲した。
自分が人間である筈が無いし、そうなるような奇蹟など起こりえない。
は眼を閉じて、ゆっくりと俯いた。
滝の水音が聞こえて来る。
微かな風にさらさらと鳴る葉擦れの音。
宮殿の中から聞こえて来るささやかな人の声の残響。
耳を凝らして全部聞く。
は眼を開いて、ゆっくりと顔を上げた。
四阿の白い柱。
深緑の柔い苔に覆われた白い石畳。
常磐色の樹々と、それを反射する水鏡の池。
眼を凝らして全部見る。
気紛れに居着いただけのこの小さな庭も、随分と見慣れて愛着がわいていた。
あの梔子の茂みで初めてピオニーに出会い、この四阿の上からピオニーに団栗を投げたり、
小脇に抱えて引き摺り降ろされたり、池の底を二人並んで覗き込んだりもした。
四阿のベンチに並んで座り、いつもいつもたわいない話をした。
四阿の前でジェイドと初めて会って、散々失礼な言葉と視線を浴びせられた。
梔子の茂みに踞って塞ぎ込んでいたを、厳しい言葉で叱咤して立ち上がらせてくれたのは、
他でもない、分かり難い優しさを隠し持つあの赤眼の人間だった。
気の遠くなるような長い時間の中でようやっと得た、最初で最後の、わたしの大事な友人たち。
「おう、。約束通り来たぞー!」
はっとして振り向くと、何時の間にか夜闇に沈んだ庭の底、
きらきら笑うピオニーがのいる四阿に向かって歩いて来るところだった。
ぼんやりといろいろな記憶を思い出している内に、随分時間は流れてしまっていたらしい。
は飛び跳ねるようにベンチから立ち上がると音も無くわっと駆け出し、ピオニーに向かって勢い良く飛びついた。
頬を緩めてしがみついて来るを、ピオニーは満面の笑みで受け止める。
それは相変わらず羽根のように軽い、手応えの無い感覚。それでも確かな存在の感触。
「待ちくたびれたぞ。」
「ははっ、むしろ、今日はいつもより早く来たんだがなぁ。
そうかそうか、俺がそんなに恋しかったか!」
「…っ…!…っ誰がそんなことを、云った。」
本当はは、ピオニーのいつものようなその軽口に対して、
今日は思いっきりきっぱり肯定してみせて、驚かせてやろうと思っていた。
しかし、恥ずかしさのせいだけではない喉の奥の塊が邪魔をして、中途半端な悪態をつくことしか出来なかった。
特別な日に特別な振る舞いをするのは、とても胸の痛くなることだとは思った。
其れ以上はどうにも言葉が出ないまま、はピオニーにぎゅうとしがみつく。
どこか様子のおかしい彼女に気付いて、ピオニーは訝し気に首を傾げた。
しかし、すぐに顔を上げたが、とても楽しそうな悪戯っぽい眼をしてピオニーを見上げてきた為、
彼は何となく問うのを止めてしまった。
「覚えているか。」
「うん?」
「今日が、どういう日だか、おまえにはわかるか?」
ピオニーは笑った。
2週間程前、突然今日と云う日を予約したいとに申し出られて、彼は大層驚いた。
我が儘というにはあまりにささやかな、のそのお願いを快諾して自室に戻った後、
ピオニーはようやっと彼女の意図を理解したのだ。
ああ、そう云えば。
「俺がと出会って、ちょうど一年だ!」
「そうだ。今日で、一年。
わたしがおまえと出会って、一年になる。」
だから今日は、特別だ。
とてもとても、特別な。
「早いもんだ。ついこの間出会ったばっかりだと思っていたが。」
「それはおまえ、年寄りの証拠ではないのか?」
「失敬な、俺は永遠の少年だ!」
「…それ、おまえの民の前では云うなよ。幻滅されるぞ。」
「どういう意味かな?」
「自分の胸に手を宛てて、よーく考えてみろ。」
「それでもわからなかったらどうする?」
「赤眼が笑顔で槍を構えているところを想像しろ。」
「…そりゃおっかねーな。」
「違いない。」
一年も経てば、の語彙もまた随分と増えていた。
ただそれは、どちらかと云うとピオニーと会話をしていたおかげではなく、
たまにピオニーに引き摺られてやってくるジェイドの影響の方が大きかったかもしれない。
ジェイドとは噛み合っていないようでいて、結局のところ、最後には何故か上手いこと話が繋がって行くのである。
ただ、皮肉と言葉遊びばかりが上手になるのも、やや考えものではあったが。
実に反面教師を地で行くジェイドだった。
「…おまえに声をかけられた時は、本当に何事かと思ったぞ。」
しみじみとは云う。
見目の若さと、それに反する如何にも老成したような物言いのミスマッチさが可笑しくて、ピオニーはちょっと噴き出した。
は至極真面目なのだが、それがいつもどこか愛嬌を感じさせるのだ。
「わたしが見える奴なんて珍しいと思ったが、
物珍しさ以上に、おまえは、うるさかった。」
「うるさいってお前…ひどいな。」
「事実だろう。やかましくて厚かましくて鬱陶しかったな。」
「…俺、泣いちゃうぞ?」
戯けて泣き真似をしてみせたピオニーに笑って、おまえ、それ、ちっともかわいくないぞ、と揶揄してやった。
一頻り笑って、後。
はとても切ない、けれど嬉しそうな顔をして眼を閉じる。
「…でも、嬉しかった。」
「…?」
あんまり儚気な顔をするので、ピオニーは少し心配になった。
これが人間相手なら、何処か具合でも悪いのかと問うところであるが、
人ならざるものであるに、体調の心配をすることが有効なのかは、ピオニーにはちょっとわからない。
しかしは、尚もピオニーを見上げて笑いかけた。
「だからな、わたしはずっと、おまえに礼が云いたかった。
おまえはいつも茶化してからかうから、なかなか素直に云えなかったが、
今日は、特別な日だからな。」
は、ピオニーの海の色をした眼をまっすぐに覗き込んだ。
「 ありがとう 。」
文字通り万感の思いが込められたの「ありがとう」は、ピオニーの心に沢山の感情を訴えかけているのがよくわかった。
声を掛けてくれてありがとう。見放さないでくれてありがとう。
友達になってくれて、心配してくれて、甘やかしてくれて、一緒にいてくれて、
たくさんお話してくれて、笑いかけてくれて、わたしの喜びを一緒に喜んでくれて、
自分の大事な親友を紹介してくれて、いつもこの庭に会いに来てくれて、頭を撫でてくれて、抱き締めてくれて、
産まれてきてくれて、生きててくれて、出会ってくれて、存在してくれて。
…ああ、なんて幸せなことか!
はひたすらに感謝と愛おしさを込めて云ったのだ、その一言を。
「…。」
ピオニーは何故か言葉に詰まり、何と云って良いのかわからなくなった。
彼が言葉に詰まることなど、滅多にないことである。
「…おまえに、いいものを見せてやる。
わたしは大した力なぞ持たないが、わたしに出来る最大限のことをだ。
おまえにだけ、特別に見せてやるんだからな?
感謝しろ。」
「…何を見せてくれるんだ?」
「それは、見てのお楽しみだ。ほら、行くぞ。」
がピオニーの手を引いて、ゆっくりと池の縁に沿って歩いて行く。
その自分よりもずっと小さなの後ろ姿を、ピオニーは静かに眺めていた。
は知らないが、彼女にとってピオニーが大事な友人であったように、
ピオニーにとっても、彼女は大いに彼の心を支えてくれた、大切な、かけがえのない友人だった。
ピオニーは皇帝だ。
弱さなんて見せてはいけない。揺らいではいけない。迷いを悟らせてはいけないのだ。
ピオニーが惑えば、国が惑ってしまうから。
けれど彼だって、皇帝である以前に、心を持つ一人の人間だった。
身を掻き毟るような思いを押し殺して、血溜まりの中をそれでも歩いて行かねばならぬこともある。
そんな時、この小さな友人の笑顔が、まっすぐな言葉が、どれほどピオニーの背を力強く押してくれたことか。
ピオニーの手を優しく引いてくれたことか。
は、そんな自分のすごさを知らないのだ。
ありがとうを云うのは俺の方だな、とピオニーは思わずこっそり苦笑した。
(11.3.10)
SEO | [PR] !uO z[y[WJ Cu | ||